小川城は静岡県浜松市天竜区佐久間町大井字鮎釣にあります。一帯を古くから支配していた奥山氏の一族が築いたと伝承されてきましたが、その所在は確認されていませんでした。2004年に静岡古城研究会の調査により発見され、このほど「静岡県の城跡 」に掲載されました。今回の参考資料は(1)『静岡県の中世城館跡』静岡県教育委員会 1978 と (2)「静岡県の城跡 中世城郭縄張図集成(西部・遠江国版)」静岡古城研究会2022 などです。
小川城 信濃との国境に近く水窪川をさかのぼるり北進すると青崩れ峠に至る
奥山氏は一族が山深い一帯に割拠し、永禄年間の遠州忩劇の時には同族間での争いがあったとされます。小川城は城域を地域を結ぶ山道が通っていた可能性も探ってみたいと思います。※地域を結ぶ道が城域付近を通っていた例は こちら→田沢城 萩野城
小川城 資料(1)で想定された城域Eよりも西の尾根で城郭遺構が確認された
資料(1)の段階では遺構が確認されず、地名等によってEの場所を小川城の想定位置としていましたが、資料(2)の調査で同じ尾根筋の西側に城郭遺構が発見され、小川城として調査・作図・論考が行われました。旧地図を見ると 西に向かうb、d、eなどの道が描かれていますがひょっとすると、城域付近を通る最短距離の道aもあったのではないかと想像しながら見学しました。その1では城址の東西の道aとbを中心に見学したいと思います。
小川城 鮎釣橋から 子安神社への つづら折りの道を見る
鮎釣橋から西(手前)に延びる道は旧地図で見ると急坂を登る主要な道だったようです。子安神社への道は、現在は車で登れるつづら折りの道ですが、歩く道の時代は直登に近い道があったのではないかと想像しました。
小川城 つづら折りの道を登り切ると駐車場がある ここから徒歩で子安神社まで登る
狭い急な道でしたが、登りきると地域バスの転回場にもなっている駐車場があり、ここからは徒歩で今も安産を願う参拝者が絶えない子安神社へ向かいました。
小川城 子安神社の参道の石段を登る
石段を登り切ると子安神社に到着し、ここから山に入りました。子安神社から城址への道はガレ場の斜面で、踏跡はほとんどありませんでした。
小川城 道a途中の小祠跡の基壇 壊れた祠や鳥居が散乱 ※図2参照
道aが尾根の西端部に差し掛かった部分に祠跡と思われる基壇があり、壊れた祠の部材や小さな鳥居が散乱していました。ここまでは参道があったとわかりました。
小川城 道aは尾根筋を東進 城域に入る
尾根筋は狭い平場が続きますが、歩きやすい自然地形のようでした。しばらく進むと城域に入り道aは平場⑪に向っているように見えました。
小川城 平場⑪ 直進すると大堀切Aに至る
尾根道を東進すると左手の平場⑪に道aが向っている様に見えました。右手にも大堀切Aの堀底を通る道a1があったようにも見えましたが不明確でした。
小川城 岩盤を掘りぬいた大堀切A 幅9m 深さ4m 見どころです
小川城の地山は岩山のようで、大堀切Aも岩尾根の岩盤を掘り抜いて設けられていました。
この辺り小川城の城域の西端部と思われました。次に城域東側の道を見てみたいと思います。
小川城 薬研道に見える地形⑧ 東から
城域の東側の道aは尾根上をたどっているように見えましたが、途中から尾根に沿った堀底道⑧を通っていました。堀底道⑧は資料(2)では侵入ルートを狭める城郭遺構と考えられていました。山道ではよくある薬研道の形ですが、岩尾根を開削した道とすれば城郭遺構かもしれませんね。
小川城 道aと道bの合流点⑨
右下から登って来た道bと西(手前)から来た道aがここで合流し東に向かいます。道bは近年まで使われていたようで、国土地理院の地図にも載っていました。※図2参照
小川城 道b沿いの住居跡 西から
国土地理院地図を見ると、道bの合流点付近に建物⑩がありましたので、合流点⑨から南東に道bを下ってみました。すると石垣のある平場が在り、ここが地図にある住宅のようでした。
小川城 道b沿いの住宅⑩ 東から 生活用品が残されている
住宅⑩は撤去されて無くなっていましたが、生活用品がいくつも残されていました。宅地の面積も広く石垣造りの造成も丁寧で、さぞかし立派な建物が近年まで在ったのではないかと想像しました。ということは道bは重要な道だったようで資料(1)で地点Eを想定したのにも関連があったかもしれませんね。
その1では小川城の城郭遺構にほとんど触れられませんでしたが、その2では城郭遺構を中心に道aも探りたいと思います。