金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

よくぞ言ってくれた「言ってはいけない格差の真実」

2016年09月11日 | 資格・転職・就職

今月(10月号)の文芸春秋で作家の橘怜氏が「言ってはいけない格差の真実」という記事を書いている。

橘さんは「私は『知識社会においては、経済格差は知能の格差である』という主張をするが、一般に「差別発言」とみなされている」と書き出す。そして世界標準で差別的発言かどうかは「相手が不愉快に思うかどうかではなく、アカウンタブル(証拠によって合理的に説明できる)かどうかで判別される」と述べる。

よくぞ言ってくれたと思う。一般的に嫌がる人がいるような意見でも合理的に説明する意見を取り上げていかないと社会政策・教育政策を誤り、無駄な支出を繰り返すことになる。

橘氏の主張のポイントは次のとおりだ。

・知能の遺伝率はきわだって高く、論理的推論能力は68%、一般知能(IQ)は77%とされている。

・日本では教育関係者や大学の教員が「所得の高い家の子どもが有名大学に多いのは差別だ」として、教育への税金の投入を求めている。だがこれは、「知能の高い親は所得が高く、遺伝によって子どもの学力が高い」という、すっきりした説明が可能だ。

・労働市場の差別をなくそうとすれば、労働力を能力のみで公正に評価する仕組みが求められる。

・知識社会においてあらゆる差別をなくし、ひとびとを能力だけで評価しようとすれば、知能の格差が純化して現れるほかはない。

・「知識社会においては、経済格差は知能の格差だ」という不愉快な事実を受け入れることではじめて、いま日本や世界でなにが起きているかが見えてくる。

 私は橘さんの意見に賛成だ。その上で若干コメントを加えよう。知能の遺伝率が高いことは近年の双生児等の研究を通じて世界的に明らかになってきたことだが、古(いにしえ)の賢人は直観的に理解していた。論語に「上知と下愚とは移らず」という言葉がある。これは生まれつきの賢さや愚かさは環境や教育で変わらないということを述べたものだ。ただしこのような考え方は戦後の民主主義教育の中でゴミ箱に入れられてしまった。

次に知能指数をパソコンに例えてみるとこれはOS(オペレーティングシステム)ということができる。性能の高いOSの上でこそ色々なアプリケーションソフトは機能するが、OSの性能が悪いとアプリケーションソフトが良くても力を発揮することができない。

論理的推論能力のような能力は一般的にソフトスキルと言われる能力の根幹をなす。仕事が二極化する中で企業の生産性を高める鍵はソフトスキルの高い人材をどれだけ採用できるかにかかっている。「採用」にかかっているという意味はソフトスキルを社員教育で学ばせることが難しいということを意味している。ところが限られた採用試験の中でソフトスキルを持った人間を選び出すことは容易ではない。

ペーパーテストではその人が持っている知識や技能のレベルを測定することは可能だ。だがこれはパソコンに例えるとその時点でどれくらいの情報がハードデスクに蓄積されているかを調べるようなものだ。あるいは精々蓄積された情報がどの程度の速度で出力されるかを見る程度でOSの性能まで判断することは難しい。

これからの人材採用の要(かなめ)は優れたOSを持っている人間をどれだけピックアップできるかにかかっているといって良いだろう。

だが企業の採用試験は完璧ではない。むしろ失敗が多いと考えてよいだろう。一方採用された側にも会社に対する期待と現実が違う場合がある。お互いに思惑が外れることがある訳だ。思惑が外れたまま長年一緒に暮らすのは精神衛生上好ましくないし、経済的にも非効率である。だから雇用市場を流動化させて中途採用の道を大きく開くべきである。

次に知能には先天的な差があることを社会全体が認めた上で人間の価値を図る尺度としないということが大切だと思う。いわば知能が高いというのは「足が速い」「絵をかくのが上手」「歌がうまい」などいう才能の一つであるということを素直に認めた上で知能が高いから人間的に上だなどという誤った判断を下さないことだ。英語では才能のことをgiftというが、これは神様が与えてくれた能力ということである。与えられた能力は人間の価値の測定基準にはならない。

人はそれぞれ何等かの才能を持っている。人の価値は才能の特異性や大きさで評価されるべきではない。むしろ与えられた才能をフルに生かして充実した人生を送り社会にどれだけ貢献したかで図られるべきである。

橘さんの今回のエッセーはその辺りのことまで言及していないが、私はこの点を強調したいと考えている。そうして適材適所でできるだけ多くの人が自分の才能を生かせる可能性の高い社会を目指すことが現代社会の理想形であると考えているのである。

 

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二人の子供が共に女の子である確率~クリティカルシンキング補足

2016年09月11日 | 資格・転職・就職

この前ブログのエントリーである確率の問題を書いたところ答が違うのではないか?というコメントを読者の方から頂いた。多少説明不足があったかもしれないので再度説明したいと思う。

問題はこうだった。「隣に家族が引っ越しをしてきました。お子さんが二人いてその中の一人は女の子であることはわかっています。さてもう一人のお子さんも女の子である確率はいくつでしょう」

答は1/3である。

頂いたコメントは次のとおりです。

「生まれてくる子供が男と女かの確率は、兄弟の性別や有無とは無関係に1/2ではないですか?・・・この問題の場合は「男女」と「女男」を別にカウントしておられますがこれは一つにカウントすべきだと思います。コイン投げでつぎが表の確率は、前回の結果とは無関係に1/2なのと同じなのでしょう」

仮に問題が「隣の家に女の子が一人います。次に生まれてくる子が女の子である確率はいくつでしょう」という問題であれば答はコメントされた方のいうとおり1/2です。仮に女の子が三人いる家族でも次に女の子が生まれる可能性は確率的には1/2です。

ただこの問題のポイントは「二人の子供の内一人は女の子であることが分かっていて、もう一人も女の子である確率はいくらか?」という問題ですから、男女の組みわせの中から女女の確率を計算する問題ということになります。

したがって男男・男女・女男・女女の4つの組み合わせから男男を除いて女女の組み合わせを計算することになり答は1/3になります。

似たような問題を考えてみよう。「隣の奥さんに上の子は女の子ですか」と聞いたところ「はい」ということだった。もう一人の子供が女の子である確率はいくらですか」答は1/2です。

「隣の奥さんが女の子を一人連れて歩いているのを見た。もう一人の子供も女の子である確率はいくらか?」答はこちらも1/2です。

少し頭が混乱しますが、後に2例は一人の子供が女の子であっても、もう一人の子供が女の子であるか男の子であるかに影響を与えないので答は1/2になります。

一般的に二人の子供が共に女の子である確率は1/2×1/2で1/4です。男男の確率も1/4で、男女・女男の確率は1/2になります。最初の設問の場合男男は排除されますので、男女・女男・女女の中から女女の確率を求めるので1/3ということになります。

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