今月(10月号)の文芸春秋で作家の橘怜氏が「言ってはいけない格差の真実」という記事を書いている。
橘さんは「私は『知識社会においては、経済格差は知能の格差である』という主張をするが、一般に「差別発言」とみなされている」と書き出す。そして世界標準で差別的発言かどうかは「相手が不愉快に思うかどうかではなく、アカウンタブル(証拠によって合理的に説明できる)かどうかで判別される」と述べる。
よくぞ言ってくれたと思う。一般的に嫌がる人がいるような意見でも合理的に説明する意見を取り上げていかないと社会政策・教育政策を誤り、無駄な支出を繰り返すことになる。
橘氏の主張のポイントは次のとおりだ。
・知能の遺伝率はきわだって高く、論理的推論能力は68%、一般知能(IQ)は77%とされている。
・日本では教育関係者や大学の教員が「所得の高い家の子どもが有名大学に多いのは差別だ」として、教育への税金の投入を求めている。だがこれは、「知能の高い親は所得が高く、遺伝によって子どもの学力が高い」という、すっきりした説明が可能だ。
・労働市場の差別をなくそうとすれば、労働力を能力のみで公正に評価する仕組みが求められる。
・知識社会においてあらゆる差別をなくし、ひとびとを能力だけで評価しようとすれば、知能の格差が純化して現れるほかはない。
・「知識社会においては、経済格差は知能の格差だ」という不愉快な事実を受け入れることではじめて、いま日本や世界でなにが起きているかが見えてくる。
私は橘さんの意見に賛成だ。その上で若干コメントを加えよう。知能の遺伝率が高いことは近年の双生児等の研究を通じて世界的に明らかになってきたことだが、古(いにしえ)の賢人は直観的に理解していた。論語に「上知と下愚とは移らず」という言葉がある。これは生まれつきの賢さや愚かさは環境や教育で変わらないということを述べたものだ。ただしこのような考え方は戦後の民主主義教育の中でゴミ箱に入れられてしまった。
次に知能指数をパソコンに例えてみるとこれはOS(オペレーティングシステム)ということができる。性能の高いOSの上でこそ色々なアプリケーションソフトは機能するが、OSの性能が悪いとアプリケーションソフトが良くても力を発揮することができない。
論理的推論能力のような能力は一般的にソフトスキルと言われる能力の根幹をなす。仕事が二極化する中で企業の生産性を高める鍵はソフトスキルの高い人材をどれだけ採用できるかにかかっている。「採用」にかかっているという意味はソフトスキルを社員教育で学ばせることが難しいということを意味している。ところが限られた採用試験の中でソフトスキルを持った人間を選び出すことは容易ではない。
ペーパーテストではその人が持っている知識や技能のレベルを測定することは可能だ。だがこれはパソコンに例えるとその時点でどれくらいの情報がハードデスクに蓄積されているかを調べるようなものだ。あるいは精々蓄積された情報がどの程度の速度で出力されるかを見る程度でOSの性能まで判断することは難しい。
これからの人材採用の要(かなめ)は優れたOSを持っている人間をどれだけピックアップできるかにかかっているといって良いだろう。
だが企業の採用試験は完璧ではない。むしろ失敗が多いと考えてよいだろう。一方採用された側にも会社に対する期待と現実が違う場合がある。お互いに思惑が外れることがある訳だ。思惑が外れたまま長年一緒に暮らすのは精神衛生上好ましくないし、経済的にも非効率である。だから雇用市場を流動化させて中途採用の道を大きく開くべきである。
次に知能には先天的な差があることを社会全体が認めた上で人間の価値を図る尺度としないということが大切だと思う。いわば知能が高いというのは「足が速い」「絵をかくのが上手」「歌がうまい」などいう才能の一つであるということを素直に認めた上で知能が高いから人間的に上だなどという誤った判断を下さないことだ。英語では才能のことをgiftというが、これは神様が与えてくれた能力ということである。与えられた能力は人間の価値の測定基準にはならない。
人はそれぞれ何等かの才能を持っている。人の価値は才能の特異性や大きさで評価されるべきではない。むしろ与えられた才能をフルに生かして充実した人生を送り社会にどれだけ貢献したかで図られるべきである。
橘さんの今回のエッセーはその辺りのことまで言及していないが、私はこの点を強調したいと考えている。そうして適材適所でできるだけ多くの人が自分の才能を生かせる可能性の高い社会を目指すことが現代社会の理想形であると考えているのである。