


私が今決まってみているテレビドラマはNHKの「あさが来た」と「花燃ゆ」とこの前から始まったTBSの「下町ロケット」位です。NHK大河ドラマ「花燃ゆ」は少しかったるいのですが、「下町ロケット」の前の時間帯ですから、このまま見続けそうです。その「下町ロケット」、この前は阿部寛演じる佃社長の熱い証言が裁判長の心を動かし、佃製作所がナカシマ工業に事実上全面勝利を収めるというドラマチックなものでした。
「少し出来過ぎじゃないの?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、私は自分の経験からしてあり得る話だ、と思っています。
そのことは後程書くとして、格好が悪かったのは、東国原英夫演じる銀行の支店長。追加融資を断っていた佃製作所が和解で全面的な勝利を収めると「和解金を預金してください」と佃社長にお願いして、手痛くお叱りを受けました。銀行から面白くない取扱いを受けた方なら溜飲を下げる場面だったでしょう。
テレビドラマですから「良い人はより良く」「悪い人はより悪く」作ることでメリハリを利かせ、面白味を出していると思います。実際には銀行の支店長の中にももう少し良い人はいると思いますが、世間の眼は厳しいようです。
一緒にテレビを観ていたワイフが「あなたも銀行時代はあんなことしていたのではないの?」と揶揄しました。そんなことはない、と返事したのですが、本心から納得したかどうか分りません。
さて裁判長が佃製作所に極めて有利な和解案を短期間に提示した件に関する感想です。
私は日本では裁判に巻き込まれたことはないのですが、アメリカで仕事をしていた時、現地の不動産開発業者からlender liability訴訟を受けたことがあります。Lender liabilityとは「貸し手責任」のことで、この場合は「お金を貸すと約束したのに貸さなかったので事業が立ち上がらなかった。だから損害賠償をしろ」という訴訟でした。
もちろんこれは言いがかりです。なぜ言いがかりというと「お金を借りるための自己資金を用意するなどの条件を借り手が満たせなかったので融資を取りやめた」からです。
ただし米国は陪審員裁判の国ですから、本裁判になるとどのような判断を陪審員が下すか分らないので、大変気をもみました。
そこで我々が取った戦術は本裁判になる前に判事に「まったく根拠のない訴訟なので訴訟を却下する」という略式判決(これは陪審員不要)を出してくれという請求を出すものでした。
このような略式判決を出すことは、判事がリスクを取ることになりますので、勝算は五分五分でしたが、運よく略式判決を勝ち取ることができました。
それ以来私はアメリカの裁判官には良心がある、正義があると信じています。無論個人の一体験を持って全体を推し量ることの危うさは承知していますが。
昨日の「下町ロケット」を観て思い出したのは、この経験で「日本の裁判官にも正義はあるのだ」という印象を強くしました。
次週も楽しみなテレビドラマです。
私は余りテレビを観ない方である。定期的に見ている番組は磯田道史さんが司会する「英雄たちの選択」、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」、「鶴瓶の家族に乾杯」そして日本テレビの「花咲舞が黙っていない」位だ。
「花咲舞」を観ているとワイフが「あなた、やっぱり銀行のことが懐かしいのね」と時々笑う。
長年銀行に勤めていたといっても、国内営業店の経験が少ない私には、「花咲舞」ドラマのテーマのような状況にそれ程多く遭遇した訳ではない。とはいうものの、多少類似体験はあるので、このドラマにある程度リアリティを感じていることは確かだ。
数少ない類似体験を紹介しよう。多少銀行内部の話に触れるが15年以上前の話だから、時効と考えて良いだろう。
少ない営業店の経験として名古屋市内の支店長に着任したことがあった。その店は個人営業部門では全国トップクラスの大店だったが、着任時事務管理部門の評点は全国最低だった。
その理由は行内検査で「現金の入ったテラーの手提げ金庫がカウンターの下に放置されていた」ことが発見されたからである。現金の杜撰な管理は極めて重要な検査指摘事項で当然大罰点を食らう。
何故テラーが手提げ金庫を放置したまま退社したか?という点について、当時もっぱら「パワハラ(その当時はこの言葉はなかったが)で、女性陣を軽視した支店長に罰点を食らわすため、故意にテラーが手提げ金庫を放置した」という噂があった。
「花咲舞」ドラマでは、ここで杏が啖呵を切り、支店長(私の前任者)は左遷され、一般行員やドラマの視聴者が溜飲を下げるということになるのだが、現実はそうではなかった。支店の営業面の成績がそこそこ良かったので、支店長は少し大きい都内店に支店長として転出。順調にキャリアを進めた訳だ。
この支店長は多少仕事はできたが、子どもっぽいところがあった。私が着任後部下から聞いたところでは、その支店長は「俺はまだゴルフの店内コンペで優勝したことがない。ハンディキャップがきつ過ぎると思う。次のコンペではハンディキャップを増やしてくれ」と言って、ハンディを増やして貰い、コンペで優勝したということだった。
このような「子供じみた」ところが当時の役員クラスに気に入られて、検査で大罰点を食らっても、キャリアを傷つけることなく、支店長で転出したのではないか?と私は推測している。あくまで推測に過ぎないが。
この男はまもなく、早期退職割増金を貰って、某外資系金融機関に転職した。その時元の銀行との間で「競合先への転職は割増退職金支給条項に違反するから退職金を返せ」「いや条項自体が違法だから返さない」という論争があったと聞いている。結果がどうだったかは知らないが、彼のような人物は、「まったく自分本位の考え方」しか持っていなかったと私は判断している。
もっとも支店長クラスの人間が「自分本位の考え方」で、進路を決めることを非難するつもりはない。支店長になったところで、銀行がその先まで面倒を見てくれる時代はとっくに過ぎていたから、自分で転身先を見つけたことは自体は立派、というべきかもしれない。
しかし当時邦銀は不良債権問題や低迷する株価やそれに不安を感じる顧客の預金流出に苦しんでいた。一般行員には「頑張れ」といいながら、本人がさっさと船から降りてしまうことに、不愉快さを感じた行員も多かったと思う。
こんなエピソードもすっかり昔話になった。でもひょっとすると「花咲舞」を観ながら、自分の体験を重ねて、杏の啖呵に溜飲を下げている人もいるのではないか?と思うことがある。
サラリーマンは難しいと思うことがある。特にキャリアの天井が見えてくる50代以降は難しい。つまり「今の仕事で頑張る自分」と「新しい道を探す自分」のバランスを取ることが難しいのだ。バランスを取る唯一の方法は、恐らく与えられたハンディキャップを慫慂として受け入れ、目先の仕事を誠実にこなしながら、将来に目を配るということなのだろう。
でもこれは、気楽な身分だからいえる話。私は水割りをチビチビ飲みながら、「花咲舞」を観て、この話はリアリティがあるな?とかこれは少し嘘っぽいな?などと勝手な評価をしているのである。
杏と上川隆也が主演する日テレのドラマ「花咲舞が黙っていない」をほぼ毎回見ている。どこかで「その業界にいる人は業界もののテレビドラマを観ない。たとえば警察官は警察ものは見ないし、新聞記者は記者ものを観ない。それはリアリティの欠如にイライラするからだ」という趣旨の随筆を読んだことがある。この仮説?が正しいとすれば、私は「花咲舞」を観ないことになるが、実際のところは、結構楽しみながら番組を観ているのである。
この番組の人気の一つはオチの予想のつき易さと水戸黄門的勧善懲悪に視聴者がカタルシスを感じるからである。これに加えて私はリアルと誇張の程よいバランスを上げたいと思っている。
数回前の話はあるベテランテラーが支店長のパワハラを告発するため、店頭で現金を過払いしたように見せかけ、実は札束を一つ(100万円)を隠し持ってしまうというものだった。現金不足を解消できない支店長は次長と語らって自腹を切って100万円を埋める。自腹で銀行の不足資金を埋めることは重大なルール違反。やがてこのことが発覚して支店長は更迭されるというものだった。
さてこの話のリアリティについて検討してみよう。既に時効になっている話だろうから、自分の経験を語ると私が15年ほど前に支店長として赴任したN支店は営業成績はそこそこ良かったが、内部管理面では最低ランクだった。その理由は直前の事務検査で早期改善が求められる最低点になっていたからだ。事務検査で大きなマイナスとなったのは、現金の入った手持ち金庫をカウンターの内側の棚に放置したまま店を閉め、翌朝抜き打ちの検査部検査でそれが発覚したことにある。そして手提げ金庫の放置はテラーのうっかりミスではなく、検査部検査で罰点を食らうことを狙った故意の行動だったのではないか?という噂が残っていた。なぜ検査で罰点を食らうようなことをしたか?というと前支店長のテラーたちの接客業務に対する無理解とパワハラにテラーの一部が反旗を翻したという解釈が噂されていた。
その後、前支店長は別の少し大きな店に転出したのが「花咲舞」と違うところだが、私が行員たちの不満を聞いて、モラール改善に努力したから検査部検査の罰点もそれなりの意味があったのかもしれない(笑い)。
現実の世界は複雑なもので、一つのマイナスだけで支店長が降格されるとは限らない。
ということで「花咲舞」の話は出来過ぎの感はあるが、支店長の理不尽な行動に行員が故意に重大なルール違反を犯し、検査部等本部の注意を引くという行動にでるということに私はある程度リアリティを感じている。
ついでにいうと「花咲舞」には自分の出世のために、平気でウソをつき、部下を踏みつけるような上司・支店長が頻繁に登場するが、このような例は枚挙にいとまがないほど多い。つまりこちらはもっとリアリティが高いということだ。
リアリティが高いから視聴者は「お言葉を返すようですが」から始まる花咲舞の決め台詞にカタルシスを感じるのだろう。