金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

ドライバーはヘッドを手より先に構えて

2005年10月30日 | ゴルフ

先週末某社のコンペに参加して42+49=91でラウンドした。スコアはさて置き久しぶりにドライバーが良く飛んだので気持ち良かった。ここ暫くドライバーが不調で悩んでいたが、2週間程前近所の練習場に行った時、練習場所属のレッスンプロが無料巡回レッスンを行っていたのでアドバイスを受けてみた。アドバイスは5分位だったが、そのプロが言ったことは「ドライバーはハンドファストに構えず、クラブヘッドがグリップよりも先に出ている様にアドレスすること」ということである。先週のコンペはこのアドバイスを初めて実線で試す場だった。

それと幸いしたことは先週回ったコースは東京湾埋立地の若洲リンクスなので各ホールが比較的広かったこととホールを外れても左右どちらかはOBではなくワン・ペナルティだったこと。実際OBは出さず、ワン・ペナも一回だけだったのだが「広い」という印象がのびのびしたスイングを可能にしたと思っている。

以上まとめてみるに(もっとも私以外の人に当てはまるかどうか保証の限りではないが)

  • ドライバーはクラブヘッドをグリップより先に構えてアドレス。これでクラブヘッドの走りがずっと良くなりドロー系の強いボールが打てる。
  • 思いっきり良く(ただし力を入れるのではなく、クラブヘッドを走らせることを中心に)クラブを振る。そうするとクラブヘッドが良くは働いてまっすぐなボールが出る。

以上少し悟った様な気持ちになったが、果たして持続するだろうか?

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日本橋の復権~三井記念美術館

2005年10月30日 | まち歩き

三井本館の改装と三井タワーのオープンで日本橋に活気が出ている。昨日の読売新聞の夕刊で中央三井信託銀行が三井本館のprestigiousな雰囲気を利用して、プライベートバンキングの顧客を呼び込もうとしているという趣旨の記事が三井本館の写真とともに出ていた。その目論見の成否は別として昔から働いている日本橋が復権することは誠に喜ばしい。

mituitower さて改装後の三井本館の前は毎日のように通っているのだが、まだ中に入ったことはなかった。今日ワイフと初めて7階にある「三井記念美術館」を訪れた。午前中上野で「伊万里、京焼展」を見たので美術館のはしごである。さて三井記念美術館の内部は三井本館の内装の一部を残し重厚である。展示品は国宝・重要文化財約10点を含む約80点である。私が一番印象に残ったのは丸山応挙の「雪松図屏風」。これは墨と金絵具だけで雪を冠った二本の松を描いたもので、写実性といい左右二本の松の直線・曲線の対比といい素晴らしいものだと思った。無論その他素晴らしい美術品が沢山あるが、当方の教養不足で理解が及ばないものも多かった。 それにしても昔の商人は随分教養を磨いたものだと感心する。

大実業家が美術に情熱を傾けるのは、洋の東西を通しての共通項の様である。「モルガン家」(ロン・チャーナウ著、日系ビジネス人文庫)は、世界最高の金融財閥、モルガン財閥を築き上げたピアポント・モルガンについて「彼は商売を一生かける対象だと思い違いすることはなかった。彼が本当に情熱を傾け、そのとりことなった対象とは、女性と美術品と宗教だった」という。

日本橋の復権は日mitsuimemory本において資本主義が成熟して、成功する事業家に拍手をおくる風土が出来つつあることとどこか歩調を合わせているようなところがある。日本を活性化する上で事業家を輩出するような風土を作ることには全面的に賛成であるが、成功する事業家には是非商売以外の何か?を求めてほしいものだと思う。もっともピアモント・モルガンの時代ではないので、女性にはスマートに情熱を傾けた方が良いという思いはあるが。

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伊万里・京焼展を見る

2005年10月30日 | まち歩き

30日の日曜日にワイフと上野の国立博物館に「華麗なる伊万里、雅の京焼」特別展を見に行った。

nabeshima この日は焼き物好きのワイフのお伴をして国立博物館と日本橋の三井記念美術館を回った。三井記念美術館の話は別途するとして、伊万里・京焼展だが、中々良い。特に私にとって興味深かったのは鍋島焼きである。というのは伊万里や京焼きについては今までも見る機会が多かったが、不勉強にして鍋島焼きに接する機会が少なかったが、今日その質の高さに感心した。写真は「色絵組紐文皿」という18世紀の作品。ここに描かれているのは赤と青の単なる組紐だが、組紐の房の糸の一本一本まで克明に描かれている。極めて緊張感の高い作品である。会場の説明文によれば「日本の陶磁の中で最も完璧な技術によって作られ、徹底的なデザインによって飾られた鍋島の中に、江戸時代の洗練の頂点をみる。」ということだ。

それはさておき私は別のことにも大いに好奇心を動かされていた。それは陶磁器の技術と貿易を巡る世界的な連環である。伊万里・唐津・薩摩等には秀吉の朝鮮出兵時に連れてこられた朝鮮陶工が優れた朝鮮の焼き物技術を伝えた。唐津では1610年代に最初の磁器が焼かれている。その後中国(清)の海禁令により中国陶磁器の輸入の道が途絶えたオランダ東インド会社は磁器の供給を伊万里に求めた。これが伊万里の輸出物時代の始まりである。華麗な伊万里焼はヨーロッパの王室で持てに持てた訳だが、やがてドイツで磁器の製作に成功する。これがマイセン窯につながり、やがて伊万里の輸出は減少していく・・・・・。

これは中々壮大なロマンである。さらに続ければ伊万里焼の輸出を通じて、資金を稼ぐとともに海外に眼を向ける機会が多かった鍋島藩は洋学の研究に熱心で幕末にはアームストロング砲を独自で製作した。アームストロング砲を自前で作成したことを思う時私は昔の日本人を尊敬する気持ちで胸が一杯になる。当時アームストロング砲を作るということは現在車のエンジンを自前で作る位大変なことではなかったろうか?今世界で何ヶ国位自前で車のエンジンを作ることができるか?と考えた時、当時の日本の技術力の高さに敬意を表すほかないのである。やや話はそれたが、そのアームストロング砲は戊辰戦争の時、彰義隊を鎮圧する上で大いに威力を発揮する・・・・・

と話をつなげれば、伊万里焼が日本の近代化に大いに貢献したこととなる。

さて話題は変わり、今回の特別展を開催していた建物は国立博物館の中の「表慶館」という建物である。この建物は大正天皇御成婚の時国民が奉納した美術館で昭和53年重要文化財に指定されている。展示品の鑑賞とともに天井絵など建物の内外装にも眼を配るとよろしいかと思う。

hyoukei

上野公園の木々も少し茶色くなって秋の気配がしてきた。秋といえば芸術の季節。今度は北斎展にも来てみよう。

bijyutan 

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リーダーの器量(5)~執着あるいは持続する意志

2005年10月28日 | リーダーシップ論

今まで自分の直接体験をもとに、リーダーの資質を上げてきたが今日は「執着あるいは持続する意志」ということで、小泉首相を取り上げてみたい。小泉首相について私は世間一般の人以上の知識はないが「郵政改革」を中心とする諸改革を粘り強く推進していることは良し悪しは別として衆人認めるところだろう。靖国神社参拝もしかりである。私はここにリーダーたるものの一つの重要な資質を見る。

それは自分のコミットメントに対する執着であり、持続する意志の強さである。孫子が上げる将の資質で説明すれば「智・信・仁・勇・厳」の信にあたる。信は信念であり、信頼である。信念があるからそこに信頼が生まれるのであり、信念のないリーダーは信用することができないので信頼は生まれないのである。

自分の大きな目標~小泉首相の場合は「小さな政府に向けての行政改革」~に対する執着と地位に対する恬淡さ~総裁任期が来れば必ず辞めるという恬淡さ~が、小泉人気の源泉ではないだろうか?これに較べて凡百の政治家(というよりは政治屋)は、自分の政策目標に対する執着のなさと地位に対する執着の強さで悪臭紛々であった。

前回「恬淡」をリーダーの資質として挙げ、今回その反対概念である「執着」をリーダーの資質に数える。一見矛盾する様ではあるが、リーダーたるものは「執着」するべきことと「恬淡」と振舞うべきことを峻別して行動することができなければならない。リーダーたるものは大きな目標に執着し、些事には恬淡として臨むべきである。国家の大事にたずさわるものにとって己一身のこともまた些事と考える位の高い精神を持っていなければならない。

孫子が「地形編」で言う「進みて名を求めず、退いて罪を避けず、ただ民をこれ保ちて主に利するは国の宝なり」という将こそ名誉や地位には執着しないというリーダーの理想の姿なのである。

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リーダーの器量(4)~恬淡

2005年10月26日 | リーダーシップ論

昨日私のブログを読んでくれている会社の先輩から「リーダーの器量はシリーズものの様だが、どれ位続けるのか?5回位か?」と聞かれた。答は10回程度である。つまり一回一つのリーダーの徳目を書くとして、10個位リーダーの徳目を上げたいと考えている訳である。ところで古来リーダーの徳目として5つ程度を掲げた書物が多いのではなかろうか?

例えば孫子は「将は智・信・仁・勇・厳なり」という(始計編)。また塩野七生さんの孫引きであるがイタリアの高校の教科書は「知性・持続する意志・類まれなる寛容・肉体の健全・説得力、この5つを兼ね備えたものは古来ジュリアス・シーザーしかいない」(徳目の順番については記憶があやふやであるが)と述べる。というようなことで10個の徳目は多いのだろうが、まあできるだけ書いてみたい。

さて本題に入る。私は時々前の会社の社長から飲みとか山登りに誘われることがあり、余程の用事がない限りまずご一緒させて頂いている。実のところ最初は「人を左遷しておいてよく誘うよね」という気が起こらないではなかった。もっともそういう思いは「人は自分のことを2割方過大評価している。俺もその例外ではないだろう。そう思えば左遷と考える程のこともない」という冷静な判断にすぐ打ち消されるのだが。ところでもし社長と私が立場が逆であったならば、私は社長の様に恬淡と振舞うことができるだろうか?と考えることがあるが、どうも私はそれ程恬淡と振舞えない様な気がする。つまり部下の処遇についてあれやこれやと考えたり、いわでもの説明をしそうな気がするのである。

ところが社長は実に恬淡として、そういった話題には全く触れることなく昔通り楽しいお酒を飲んでおられる。恬淡といえば社長ご自身余り地位に汲々としていないのではないか?と私からは見えることがある。勿論社長のご本心は分かる訳はないが、この「恬淡に見える」ということが大切なのではないだろうか?

サラリーマンはリレー選手の様なもので、ある区間を一生懸命走り切るとバトンを次の選手に渡さなければならない。人により多少走る区間が長かったり短かったりするが、いずれバトンを渡すことには変わりはない。バトンを渡すべき時に汲々とするのは誠に見苦しいし、往々に過ちを犯すものだろう。また人事にこだわり過ぎる人物は私からは見苦しく見えてともに仕事をしたいとは思わないのである。恬淡で余り私欲が強くないこと、少なくともそう見えることはリーダーの一つの徳目だと私は考える。

歴史上の人物では足利尊氏のことを大灯国師がその無欲さを勇敢さとともに誉めている。もっとも尊氏が気前が良すぎて、部下に領地を与えすぎたため足利政権は基盤が弱かったというマイナス面も大きいのだが。恬淡・無欲という徳目はプラス・マイナス両面があるというべきかもしれない。

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