今日(2月28日)の日経新聞朝刊「領空侵犯」というコラムで、長坂 健二郎氏が「首相選びを疑似公選制に」という提案をしていた。
長坂氏はインタビューの冒頭「指導力の欠如、言行の不一致、外交舞台でのみすぼらしい振る舞い、改革への熱意の低さ、日本語を正しく使えない-などなど、この人に任せて本当に大丈夫か、という政治家が目立ちます」と述べている。
続いて長坂氏は「米国の大統領選挙のような長期の政策論争がカギを握ります」と述べるが、ここは少し考える必要がある。確かに前回の米国大統領選挙においては、医療保険改革という大きな論点はあった。だが外交・国防等において民主党・共和党の間にそれ程大きな意見の相違はない。米国の大統領選挙において、候補者は1年近い選挙運動を行なうが、そこで試されているのは、個々の政策の是非ではなく、4年間国を託するに足る人物であるかどうか?というリーダーとしての適性ではないだろうか?と私は考えている。
つまり危機が起きた時にも動揺せず的確な判断を下すことができる冷静さだとか、国民に対する説得力の高さなどが選挙民によりテストされていると見るべきだと私は考えている。
では大統領にはどのような資質が求められるのだろうか?その一つのヒントはジュリアス・シーザーについて書かれた次の言葉(イタリアの歴史の教科書に出ているらしい)だろう。「知性、肉体の健全、説得力、持続する意思、類稀なる寛容、この徳性を兼ね備えた人物は古来シーザーしかいない」
これらの徳目は概ね洋の東西を問わず共通するものだが、一つの例外は「説得力」だ。日本では「沈黙は金」とか「阿吽(あうん)の呼吸」という言葉が象徴するように、説得力は必ずしもリーダーの最重要な徳目ではないようだ。
だがそれは社会の価値基準が均一で、利害関係が単純だった時代の話。価値の多様化が進む時代では、リーダーの説得力というものがもっと重視されるべきである。ましてグローバル化が進む時、他国から有利な条件を引出すには説得力が不可欠である。
シーザーのように5つの徳性を備え持つ人は古来稀だろうが、せめて「説得力」と「持続する意思」位は持った人物を政治家に選びたいものである。