金融そして時々山

山好き金融マン(OB)のブログ
最近アマゾンKindleから「インフレ時代の人生設計術」という本を出版しました。

大極殿から法隆寺へ駆け足で回った

2010年07月26日 | うんちく・小ネタ

7月23日(金曜日)一日休みを取って家族で京都に向かった。JR東海の新幹線+ホテルパックは新幹線料金程度で一流ホテルに泊まることができるのでお得なパッケージだ。今回は両親のご機嫌伺いとワイフの両親の墓参りが主目的だが、合間に奈良の平城遷都1300年を記念して復元された大極殿(だいごくでん)を観ることにした。

午後2時頃のJR奈良線で京都駅から奈良に向かう。近鉄の方が速くて快適なのだが、パッケージでJR奈良線が使えるので使うことにした。奈良駅から大極殿跡までは無料シャトルバスが往復しているので利用。約20分で大極殿跡に到着。

炎天下さえぎるものもない広大な原っぱを20分程歩くと復元された大極殿に着く。

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大極殿は朝廷の正殿であり、中には復元された高御座(たかみくら)があった。

広角レンズで撮影しているので柱が内側に傾斜して見える。だが迫力は満点だ。

上の写真は朱雀門だ。この門の近くに平城京歴史館があるが4時で閉まっていた。余りに早い閉館に少しあきれる。

日暮れにはまだ時間があるので、タクシーで近くの法隆寺に向かった。この付近の名所旧跡というと法隆寺と唐招提寺だが駅に近い法隆寺を選ぶ。だがこちらも拝観時間は午後5時まで。

法隆寺の大伽藍と薬師三尊を30分で見て回ると売店の人達がお寺の入口で拝観客の帰りを待っている。残業削減の時代なのかもしれないが少し風情がない。

柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 正岡子規の時代は遠くなった。

奈良の大寺院には強い日差しを遮るものはない。白砂は白く焼け甍は強く日の光を反射する。この乾いた明るさが平城調なのだろうか?

かくしてまことに慌ただしい平城京跡巡りは終わり我々は近鉄で京都に向かった。

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立ち尽くす政治

2010年07月26日 | 国際・政治

いつも投稿している雑誌に今月は「混迷する政局を明治維新に重ねてみる」という小文を寄せることにした。

何故明治維新を重ねるのか?というと最近読み終えた「明治維新1858-1881」(講談社現代新書 坂野潤治+大野健一)という本の中に幾つか今日の政治問題を考える上でのヒントがあったからだ。

「明治維新 1858-1881」は次のように述べる。「幕末維新期は、政治制度が整わないなかできわめて成熟した政策論争が行われた時代であった。・・・・・しかしながら、民主主義が次第に制度化され、政治のルールが確立されていくにしたがい、政策論争の内容はむしろ形骸化していった。・・・・戦後日本の民主主義は、国家主権、人権擁護、三権分立、平和主義のいずれをとっても完璧に近い制度を享受するにいたった。・・・・だがこの恵まれた制度の下での近年の政策論争が幕末維新期のそれよりも高度であったかと問われれば、我々は首をかしげざるを獲ない。」

この本は幕末維新期を日米修好通商条約が締結された1858年(安政5年)から明治14年の政変が起きた1881年までの23年間ととらえる。この時期に変革期のリーダーは「富国」「強兵」「憲法制定」「国会開設」の4目標を並立的に掲げ、リーダー間の合従連衡や政治目標の優先順位の柔軟な組み換えを行いながら、国の変革期を乗り越えていった。

冷戦の終結やバブルの崩壊が起きた1990年頃を一つの時代の転換点とするとそれから20年の歳月が流れた。概ね世の中は20-30年位のサイクルで回転していくという見方ができるが、我々は1990年以降どれほどのことをしてきたのだろうか?

時代は20-30年で転換していくという仮説にそって近代の日本史をみると、1851年から81年が幕末維新期、それからの約30年つまり明治年間は近代日本が「富国強兵」面で飛躍した時代、次の20年つまり大正年間から昭和の初期は民主主義が発展した時代、そして1930年代の中頃から1960年位の30年間は戦争・敗戦・戦後の混乱期、そして次の30年が高度成長期となる。現在はポスト高度成長の混乱期と位置づけられる。

「明治維新 1858-1881」は「柔軟な連携の組み換えが長期にわたって持続した理由として、ナショナリズムや尊王思想が社会的エトス(社会集団を特徴付ける気風)が政治闘争をある一定枠内にとどめて暴走を回避させたのである」と述べている。

社会的エトスというと高度成長期を特徴付けたのが「勤勉・終身雇用」などのエトスであった。ポスト高度成長期の政治的混乱の大きな理由は社会的エトスが確立されていないことではないかと私は考えている。

政治が立ち尽くしているのは日本だけではない。米国もドイツもフランスも政府は支持率の低下に悩んでいる。だが社会的エトスの混乱という意味では日本は一番深刻かもしれない・・・・

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道元禅師ゆかりの宇治・興聖寺を訪ねる

2010年07月26日 | まち歩き

先週末の京都旅行中に道元禅師ゆかりの宇治・興聖寺を訪ねた。このお寺には中学生の頃、つまり45年程前に一度行ったことがあったが、昨年1月に映画「禅 ZEN」を観た時から再訪したいと思っていた。

宋から帰国した道元禅師が最初に建てたお寺が興聖寺である。もっとも最初の興聖寺は深草に建てられたが道元の後4代で荒廃した。現在の興聖寺は慶安2年(1649年)に淀城主永井尚政が宇治に復興したものである。

拝観については本堂の外側までは自由に入ることができるが、本堂にお参りするには予約とお志(拝観料300円)が必要だ。興聖寺を訪れるのであれば、本堂にお参りすることを強くお奨めする。

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庫裏の入り口には古い木魚とキューピーさんの雲水が並んでいる。観光寺院らしくないところが良い。ここは禅寺であり今も雲水の方が修行をされている。雲水の方とお話する機会があったが、フレンドリーで大変気持ちの良い方々だった。

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裏山から水の落ちる庭の風情が良い。

興聖寺の見所の一つは宇治川につながる参道だ。

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紅葉の季節は見応えがありそうだ。

宇治に観光に来る人の大部分は平等院で止まり、興聖寺に回る人は一握りだろう。無論それは開山された道元禅師の望まれるところかもしれないが・・・・

参道を下りながら私は正法眼蔵の一節を思い出していた。

「仏道をならふというは自己をならふなり。自己をならふというは自己を忘るるなり。自己を忘るるとは万物の証せられるなり」

万物の証せられる・・・というのは難しいが、森羅万象すべてのもによって生かされている自分を知るということだろうか。

興聖寺のように静かで趣きのあるお寺が近くにあれば時々参禅したいものだ・・・と思いながら私は古刹を離れた。木立を抜けると宇治川の急流を真夏の太陽が焼いていた。

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