里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

古里の今昔22 古沼再興工事記録を読む

2009-06-18 06:18:00 | 古里

   十七、字茨原古沼再興工事記録を視る
 日露交渉が決裂し、明治三十七年(1904)二月四日御前会議は対露開戦を決定し、六日ロシヤに対し国交断絶を通告した。ロシヤは同九日、日本は同十日に宣戦を布告した。翌三十八年(1905)旅順開城、奉天の会戦、日本海の戦等、陸海軍の奮戦が続き、お蔭で日本は完全に大勝して世界各国民の注目を集めた。その後日露講話条約が調印されて戦争は終止することとなった。
 戦役後の三十九年(1906)には鉄道国有法が公布され、満鉄会社が設立された。四十年(1907)には日本社会党が直接行動論を主唱し、結社禁止の処分を受けた。又小学校令改正により義務教育が六ヵ年に延長された。四十一年(1908)には赤旗事件で堺利彦らが検挙され、社会主義思想の流行と国民の奢侈の傾向をいましめるための戌申詔書が十月発布されるに至った。
 しかし右の傾向は国内の一般的風潮で、農山村の人たちは家業をなげうってまで遊び暮らすわけには参らず、年間を通じて農耕作業に専念ひたすら食糧増産を目途に窮々として生き抜く外はなかった。
 本題の池沼再興譜請を、沼下全員の協議を重ねた結果断行することになったのも。沼下全面積に比して余りに水源が小規模であるため、下沼の深渫と上沼を新規に興し水不足を解消して、稲作の増収を図るためのものであった。
 この普請に関係する帳簿として、「古沼下耕作者並耕作段別目録帳」、「古沼再興諸費人足帳」、「杭木モワコ及出金控帳」、「諸入費仕拂控帳」の四冊が拙宅に保存されている。以下右帳の記録を基として記して見ることとする。

  字茨原古沼再興目録帳
 本帳表紙には明治四拾壱年(1908)弐月六日委員長安藤金蔵と横書されており、記帳の内容は関係地主ごとに筆ごとの耕作段別が記るされている。筆頭は一町三段六畝歩の安藤寸介。八段四畝歩の飯島福次郎、八段一畝歩の安藤喜三郎、五段三畝十五歩の安藤金蔵等が主な地主層である。総計段別は十一町八段九畝十九歩で関係者は計四十三人。内、字内が三十五人、小原村大字板井関係者が八名となっている。
 古沼再興工事は二期に分けて計画され、第一期は上沼の一段三畝二十四歩の新規工事。第二期は一段三畝二十五歩の下沼深渫工事である。第一期上沼新規工事は明治四十一年(1908)二月より三月にかけて行われ、第二期下沼深渫工事は大正元年(1912)九月、十月に実施している。

  古沼再興諸費人足帳
 本帳は明治四十一年(1908)二月九日付となっており、始めに耕作面積と耕作者名が再記され、上沼再興工事開始の明治四十一年二月十六日より実施日毎に人足数何人と記され。三月二十六日で工事を竣工している。延日数二十日間、延人足数四百二十九人半を要している。
 因に上沼の地番は字新林1620-1の山林四畝歩、同1620-2の二山林一畝〇七歩、同1621-1の山林五畝十七歩、同1621-2の山林四畝歩の計一段三畝二十四歩であるが、山畝歩のため実面積は相当増歩があるように思う。当時はすべてもつこかつぎによる工事なので、意外の労力を費したわけである。
 なお、上沼堤防破損のため明治四十四年(1911)五月二日修理人足二人を要している。
 次に下沼深渫工事は大正元年(1912)九月初旬開始。耕作反別に応じて深渫坪数を割当て、同九月八日出来た者を皮切りに、逐次出来、同月十七日まで延計二百六十七人をかけて一応の工事を終了している。
 なお同九月十七日以降十月十七日の一ヶ月の予定で、役員を主として各種整理作業を行ない、この延人足は二十九人半と記してある。当下沼は字茨原1952番地、台帳面積は一段三畝二十五歩となっている。
 その後大正三年(1914)五月十六日提破損修理に三人、大正四年(1915)五月五日同じく堤破損修理に二人と追記されている。

  杭木モツコ及出金控帳
 本帳表紙左縦書に明治四十一年(1908)二月十六日付で、モツコ代、杭木代が各耕作者別に記帳され、更に燃料の松薪代、手間代等も記してある。モツコは現物出しと代金のもの、杭木、薪も現物のもの代金の者が詳細に記入してある。モツコは一枚十三銭~十五銭、杭木代は一本大が七銭、小が四銭に踏み、薪代は一把(わ)十五銭、手間代は一日三十銭に見積っている。
 この工事に要した諸材は次のようである。
  杭木 大小計一九五本
  モツコ    六〇枚
  松薪     三〇杷
  縄      三三房

 諸入費支払扣帳
 本帳も明治四十一年二月十二日付となっている。購入日附ごとに細かく記してあるが、収支の総括的記入はなされていない。
 右諸帳より拾い出して収支を整理すると、大要左記の如くなるやうである。

【再調査中】

 残金十一円三十三銭は第二期工事費に充当したようである。

     安藤専一『郷土の今昔』(1979年1月)から作成


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。