“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

3.11に思う

2013年03月09日 06時00分00秒 | 臼蔵の呟き
あれから、2年が過ぎ、3年目に入ろうとしています。いつ来るか分からない大震災でしたが、日本全国いつでも、どこでも、地震による被害は想定されます。特に、建物崩壊による圧死、火災、津波被害などへの対応を現時点で着々と行っておくことが必要です。
津波被災地(沿岸部)は被災物(木材、畳などの可燃物、金属、コンクリート)がほぼ片付き、その集積所から搬出、焼却設備での焼却などが進んでいます。港湾などは、沈下した地盤に対して、工事車両が通れるように砂利などを引き、かさ上げがされています。地域全体のかさ上げ、町の再生計画確認などがされない限り、沿岸部の復旧、復興はまだまだ時間がかかることと思います。

避難している仮設入居者の復興住宅はまったく手が付いていないのが現状です。集団移転先も決まった地域と、まだ、移転先が決まらない地域でバラバラです。とにかく、2年たっても沿岸部はほとんど何も復旧復興が進まない状況です。そのくらい津波被害が甚大であったのだと思います。個人、個別企業の資金では何も出来ない状況です。仙台港周辺などは大手企業、大手小売業が復旧、操業を始めています。それらの企業は全て大手企業で、資金力があり、政治の力ではなく自企業の計画、資金力、建設会社手配などを自前で行う能力がある企業のみです。これらを見ていると企業も、個人も震災を契機に格差が一段と進むのではないかと思います。

<自分の3.11-3月末までのこと>

2011年3月11日午後4時46分の地震、地震による津波被害は想像を絶するくらい大きなものでした。強烈な地震により一瞬にして建物はがたがたにされ、シャッターは降下し、建物は水浸しになりました。電気まとまり、自分がいる周囲以外の状況がまったく分かりませんでした。その中で、ラジオだけが次々と地震被害、津波などを報じていましたが、自らは商業施設での水、食料、電池、ローソクなどを求める地域住民からの対応を夜8時半まで仲間たちと続けました。並んでいる方々にお詫びして、8時半に対応を終了し、アパートに帰ろうとしても地下鉄も、タクシーも無く、路面が凍ったつるつる道路をとぼとぼと岐路に着きましたが、いつ付くかも分からず、そのときに一台のタクシーが空車で来ましたので、すぐにとめていただき、2人で泉区の地下鉄駅まで付きました。その途中、全て信号機は止まり、まったく暗い道路を走りました。泉区の大きな道路も真っ暗で、自家用車だけが走っていました。道路をぞろぞろと市民が歩いていました。家族(単身赴任のために)と電話が通じて言われたことは、生きていてよかったでした。
アパートに戻り、灯りの代わりにカーテンを開けて、その灯りを頼りに眠りました。周囲の駐車場は自動車のエンジンをかけてニュース、暖をとる人が沢山いました。この時点では、ガソリンがなくなる。供給されないことなどはまったく想像できませんでした。11、12日の2日くらいでガソリンがなくなると、ガソリンスタンド(給油してくれる)めがけて何キロもの自動車の隊列が市内に展開されました。職場が稼動せず、仕事にならない人たちは食糧確保で商店に並び(半日から1日仕事)、ガソリン給油のために数時間車ですごすなどが3月末まで続きました。
沿岸部は津波被害で沢山の死者がでていると報道されていました。しかし、自分たちのような市内、海岸線から遠いところは沿岸部に行かない限り、何がなんだか分からない状態が続きました。電気が無く、水道が無く、食料が無いので、職場で自家発電使用のテレビ、ラジオニュースなどが唯一の情報入手手段となりました。食事は職場でおにぎり、即席めん、ソーセージなどが支給され、それらを食べながら復旧作業、物流などの復旧作業を続けました。交通手段は徒歩か、自転車です。自転車も最初は買うことが出来ず、1週間後くらいにようやく買うことが出来ました。自動車はガソリンがなく使えませんでした。
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