俳句の世界に「月並俳句」という言葉がある。
ただ花鳥風月の趣向を詠んだ、なんの造作もない、つまらない俳句という意味のようだ。
オカブもこの前知った。
だいたい、オカブの作句は、何の作法もない無手勝流なので、俳句の基本も何もあったものではない。
そんな、自分が言うのもなんだが、俳句の初心者は大いに「月並俳句」を作るべきだと思う。
というか、初心者は、不用意に同人に入ったり師につくべきではないと思っている。
まずは、自分で見よう見まねで、月並俳句の良いものを目指して、できるだけたくさん作ってみるのが良い。
月並俳句は「俳句のデッサン」である。
俳句の基礎とエッセンスを学ぶには、月並俳句の修業をするのが最も良い。
その月並俳句をすっ飛ばして、前衛的な作風の師につくのは、デッサンをすっ飛ばして、いきなり抽象美術に取り組むようなものだ。
デッサンはタブローとしての価値がないとはいえ、創作する意味がないというのは言い過ぎだろう。
アンディ・ウォーホールのキャンベル缶のオブジェも彼に美術の基礎がなければ、誰も振り向かないだろう。
月並俳句を一通り作って基礎を固めて、自分の指向が決まったら、伝統俳句でも、現代俳句でも、あるいは前衛俳句でも、師について、さらに研鑽するのがいいと思う。
オカブはそんなレベルには達していない。
ただの素人の駄句の連作をする者に過ぎない。
それが、こんな偉そうなことを言う。
困ったものである。
久女忌や筆の末まで心入れ 素閑
折敷きぬ葉のうらぶれて久女の忌 素閑
揚々と久女忌の鴉空舞ひて 素閑
大ひなる志の日久女の忌 素閑
子の眠る朝に音忍ぶ久女の忌 素閑
寒の空ぶち抜いて生く久女の忌 素閑
昨日に続いて、体調が悪い。
一日、寝ていた。
大したことではないが、やるべきものも溜まっている。
何とかしなければならないのだが、ままならない。
もう、破れかぶれである。
拙き句蒲団の中で詠み申す 素閑
過ごす酒蒲団にこぼし我を嘆く 素閑
貧かこつ我らが家族蒲団かな 素閑
まだ生きて蒲団に恥を晒すなり 素閑
荒れる夜ただ蒲団にぞ逃れたり 素閑
蒲団噛み若き日の在り老ゆる身も 素閑
布団干す闇の光に打ち負けて 素閑
敗残の身ぞ蒲団にてのたうちて 素閑
どうも、また体調が思わしくない。
寝ても、全く疲れが取れない。
いつも、けだるい気分でいる。
もともと、そうだと言えば、そういう性分なのだが、今回は心の怠慢とかそういったことが原因ではないらしい。
ただ、わざわざ金を払って医者にかかるような気も起きない。
だいたい、何科の医者に掛かればよいのかもわからない。心療内科の医者にでも相談すればよいか?
こういうのを不定愁訴とでもいうのだろうか?
必ず年に数回は陥る状態だ。
まあ、放っておけば直に治るだろう。
神経質な割にはずぼらな性格が良く出ておる。
早梅ややがて近づく蕎麦の店 素閑
早梅の家に神の降り立ちぬ 素閑
早梅にやうやう暮れぬ気長き陽 素閑
あけすけに言う早梅の主かな 素閑
早咲きの梅の有難き香のきざし 素閑
早梅の窓辺のむれにさす灯影 素閑
坂道を上がり早梅の家に着く 素閑
冬の梅湯煮えたぎりてもうもうと 素閑
暖かい。
今日は3月の陽気だと天気予報でやっていた。
どうせ、また寒くなるのだろうが・・・・
春はもう、そこまでか。
春になると、やがて訪れる暑い夏の心配をする。
つくずく因果な性分だと思う。
日脚伸ぶ硝子の曇りふき取りぬ 素閑
いつの間に日脚伸びたる草の家に 素閑
日脚伸ぶ帰りの学校生徒らよ 素閑
老ひ嘆き日脚伸ぶのを喜びぬ 素閑
日脚伸ぶ夕べに思ふただ一日 素閑
山の端を日脚伸びたり帰る鳥 素閑
日脚伸ぶ目黒で用を済ませたり 素閑
世の波乱日脚伸ぶべきこの朱よ 素閑
自分は「変」なのではないかと思う。
多分、変である、いや確実に絶対変である。
以前、このブログで人間にはスーパーで売っている真っ直ぐな茄子や胡瓜のような規格品はないと書いた覚えがある。
それを考慮しても、自分は「変」である。
しかし、その「変」な自分を背負って歩んでいかなければならない。
それが、人間の宿命である。
因果なものに生まれついてしまったものである。
魚にでも生まれればよかったと思っている。
坪庭のへり見返れば冬椿 素閑
劇場に冬の椿の詩人かな 素閑
冬椿相和し路地の小学生 素閑
老ゆ髪の冬の椿と雪の間に 素閑
冬椿一輪挿しに燃ゆ炎 素閑
冬椿水の止まらぬ筧かな 素閑
明け染めて雨戸開ければ冬椿 素閑
オカブはフルートという楽器をやる。
楽器をやるということはフルートを吹けるということである。
しかし、まともには吹けない。
中学生の頃からやっているというのに、未だピーヒャラピーヒャラである。
最早、これ以上、上達する見込みはない。
しかしフルートをやっていてよかったと思うことがある。
自分が、上達するのにこれだけ苦労して、結局ものにならなかったことから、世の中のフルートの名人が、あの音色と技巧を手に入れるのに、どのような修練を積んだかが、痛いほどよくわかる。
また、演奏会などで、それを披露するとき、それが、どれほどの妙技で素晴らしいものか、鑑賞しているときの感動が全く違う。
しかし、逆に、演奏家の粗も聴けるようになってきた。
あの人は、あんなに立派な肩書なのに、演奏はこの程度か、と勝手に腹を立てている。
フルートをやっていたということは、やはり良し悪しなのかもしれない。
山越えて寂れし村の寒の内 素閑
大法螺を吹く朋友や寒の内 素閑
咳き込みて孫が背さする寒の内 素閑
富士見坂大ひに夕景寒の内 素閑
米をつぶし焼ひて食へるや寒の内 素閑
寒の内蘆花の住まひの地蔵尊 素閑
早々に宴の別れや寒の内 素閑
オカブは若い頃は山に登っていた。
冬山にも登った。
しかし二つの理由で、冬山は苦手だった。
一つはラッセル。
冬山は雪の斜面を人が踏み鳴らした跡があるとは限らない。
時には、ずぶずぶ腰や胸のあたりまで潜る雪をかき分けて前進しなければならない。
これは、夏山の、重い荷物を背負って、黙々と歩くのよりもつらい。
全身を使って雪と格闘しなければならない。
輪カンと称する、これがあれば雪なぞには潜らないと嘯く道具など全く役に立たない。
この全身運動のラッセルがオカブは苦手だったし、大嫌いだった。
二つ目は凍傷。
オカブはどうも交感神経と、副交感神経の調子がおかしいらしく、異常に凍傷になりやすい体質である。
冬山用の特別製の靴を履いていても、冬山に行くと、足指が凍傷になる。
酷いときは、足指が二度の凍傷になって、春になるまで、濃い紫色に変色し水ぶくれになっていた。
ちなみに、指を切断しなければならないほどの重度の凍傷になった場合の治療法は、開腹手術を行って、交換幹神経を切除してしまうことである。
もう、山も、ましてや冬山など行くこともないだろう。
ほっと安堵するとともに、少し寂しい。
冬深し霜の地の青心待つ 素閑
波散って凍る雫や冬深し 素閑
冬深し白き琺瑯の湯沸かしや 素閑
冬深し客間に満てる昼の陽や 素閑
冬深し焦熱地獄の薬罐注ぐ 素閑
深き冬夜行で向かう越後かな 素閑
冬深し揉み手で深夜の客を引く 素閑
成人式の貸衣装にまつわる計画倒産の余波がいまだに騒がれている。
当然のことと思う。
成人式の晴れ着は、人生の中でも大きな部分を占める「夢」である。
この業者は、いわば夢を売る商売をしていたのだ。
それが、夢を壊すどころか、ずたずたに引き裂いてしまった。
被害者をはじめ、従業員にはお気の毒だが、経営者には、なんらかの社会的制裁が科せないものか?
しかし、こういう輩に限って、巧妙に逃げ道を用意して、自分に手が及ばないようにしている。
腹立たしいこと、この上ない。
人知れぬ社に一羽寒鴉 素閑
寒鴉園の閉園時間なれ 素閑
凍る結びこころねだるや寒鴉 素閑
いづくにか帰る巣の在り寒鴉 素閑
愚かなる人よと啼けり寒鴉 素閑
冬の空鶴や鴉の菱の群れ 素閑
寒凄く情けも深し鴉かな 素閑
星冴ゆる鴉と仰ぐ徹夜明け 素閑
今日一日、寝ていた。
昨晩寝たのは午前一時過ぎ。
それから寝とおした。
昼過ぎに起きて、朝食兼昼食のパンを食ってそれからまた寝た。
都合、うとうとの間も含めて20時間くらい寝ただろうか?
体中の細胞が変異したかのようだ。
思えば、正月一月一日から、いろいろと気苦労した。
そういった身体への負担が、ここへ来て、一気に一揆を起こした感がある。
年寄りの冷や水は禁物である。
枯木立疾風にかたち整えり 素閑
枯木立乾ける土に柚子一つ 素閑
枯木立悠々眠るは野良猫か 素閑
傾ける陽に凄まじき枯木立 素閑
枯木立蕭として武蔵野の風受けり 素閑
枯木立藁の仕事の納屋侘し 素閑
凛として凍てしも枯木立和み 素閑
枯木立膝小僧を擦り剥けり 素閑
歌会始なる行事が宮中で行われる。
今、金曜日に行われた。
和歌にはとんと通じないオカブにとっては、やんごとなき方々の作も含めて、歌とは不味いものに見えてしまう。
そもそも和歌というのは、事実を表面に表し、それに一端の情感を込めればよいものであろうか?
それでは俳句の方が、よほど文学的に洗練されている。
和歌が近年乱れたのは、あの俵万智の『サラダ記念日』からだと思うが、そもそも和歌とは雅の道には程遠い、もっと実用的なものとして、用いられ発展してきたものと思う。
だから、万葉集の相聞歌など、誠に実用的で、オカブは、そういうものを昔のツィッターだと思っている。
要は用をなせばよいのである。
しかし、そこは日本人の習性で、文学的要素が重視されるようになってきた。
しかし、オカブは短歌など新聞の投稿欄くらいでしか見たことがないのだが、あれはまさに散文を定型的な形式に収めたものとしか見られない。
そうは言っても、選の中を通ったものであるから、鑑賞に堪えるもの、また巧拙の別があるのだろう。
オカブにとっては不思議だが、より深い世界があると考えている。
歌会始畏みて一首仕る 素閑
奥の道詠み給いけり御会始 素閑
和の道も雅なれかし御会始 素閑
てにをはは整いざるとて御会始 素閑
草莽の選者も歌会始なり 素閑
御会始ここに男児の踏み立てる 素閑
山に雪海に波濤の御会始 素閑