goo blog サービス終了のお知らせ 

昼のガスパール・オカブ日記

閑人オカブの日常、つらつら思ったことなど。語るもせんなき繰り言を俳句を交えて独吟。

わたしの『城』

2015-05-24 10:07:17 | 日記・エッセイ・コラム

昨夜9時ころに寝て夜半に目が覚めた。
そのまま起きていようと思い、コーヒーを沸かしネットをやっていた。
新聞が届き、朝が明けて、今朝の7時ころ睡魔が襲ってきて二度寝した。
そうしたら夢を見た。
なにやら学校行事で水泳教室のような所へ団体で連れて行かれ、脱衣所で着替える。
水泳が終わり、脱衣所に戻ってくると、自分の着替えが見当たらない。着替えを求めて探し回るのだが、様々な妨害に遭う。辻褄の合わない奇妙な会話。まるで、人格を無視され、慇懃無礼にすべて断られるような扱い。中学か高校の同級生が出てきたような気がする。やっと目的のロッカーが見つかったが鍵が合わない。鍵の合うロッカーにたどり着くとそこには自分の着替えはない。やがて、この脱衣所は男女共用で女子の着替え時間だから出て行けと言われる。そこでも奇妙な人を食ったようなやり取りが行われる。そこで風呂屋の番台のような受付にたどり着いて窮状を訴えたところで目が覚めた。
なんとも後味の悪い夢である。
これと似たような体験をしたことがある。 
カフカの『城』を読んだ後の感覚である。
主人公、Kの目的の城にどうしてもたどり着けない堂々巡りと、周囲の人物との掛け合い漫才のような、しかし一方では不気味な関わりが綴られている。 『城』の出口のない泥沼のような「機構」の囚われ人となった当事者としては、それはまさに不条理そのものであろう。
カフカを壮大なメタファーの創作者として捉えようという論者がいる。
一方、パトグラフィーの観点から、カフカの作品を病的妄念の産物として分析しようという一派もいる。
しかし、オカブはカフカの作品は全てカフカの現実の悪夢の産物であったのではないかと思っている。
カフカは早朝覚醒型の不眠症患者であったことはよく知られている。もしかしたらなんらかの精神疾患に罹っていたのかもしれない。そうした、身体的・精神的状況の中で、現れた、ありのままの「悪夢」を展開したのがあの作品群ではなかったかと。カフカの少なからぬ作品は未完のような形で終わっている。しかしオカブはそれらが「未完」なのではなく、カフカの「夢」がそこで終わったとみるべきと考える。
ただし、オカブはカフカとその作品に対するパトグラフィー的アプローチには賛成しない。それは、新たな手法での「外科手術」である。カフカの作品をそのような無機的なものに還元することは忍びがたい。
オカブはカフカの作品に対する不可知論に与しないけれども、カフカが言うように「私の頭の周りを秘密の烏が飛び回ってることは、誰にも理解できない」という言葉の意味を重く捉えたいと思う。 

一睡の夢にうなされ夏の朝   素閑 

        


母の日

2015-05-10 20:13:47 | 日記・エッセイ・コラム

またまた遡るが母の日である。
この日はばーたんが旅行に出かけていたし、エルさんも深夜まで休日出勤だったので、我が家では特になにもイベントはやらなかった。
いつもは、太子堂の洋菓子屋さん『アーモンド』でクリームチョコを買って、バーたんに贈るのだがそれもなし。
オカブは前夜徹夜だったので、昼過ぎまで寝坊。かーたんは教会。教会では母の日のイベントが当然ながら行われた。
今日、母親の役割は、大きく転換している。従来の、家庭を守り、家事と子育てを引き受ける専業主婦から、総合職としてフル・タイムで働き、男並みの収入を得て、すなわち男並みの所得税と社会保障費を払ってくれる存在が期待されている。
しかし、その様態が望ましいのか?小学校教師のエルさんの話によると、明らかにオカブの子供のころと違って発達障害児の比率が多くなったようだ。また、家庭での子供の躾、ケアも十分でないケースが多い。それでかなりな数の児童がまともな学校生活を送れなくなっている。
こうした子供が成長して社会人となり将来の日本を支える立場となったときのことを思うと空恐ろしい。
今の子供は一面、病的な成育環境を強いられている。
それが、母親としての女性の社会進出の弊害ばかりとは言えないが、やはり母親は、子供が一定年齢になるまで子供とともに過ごす環境が自然だ。
そのためには、今のような一律の新卒至上主義、年功序列の労働市場を壊し、どの年齢からもキャリアを磨け、就労できる雇用環境の流動化が望まれる。一方で、母親が育児期間の家庭の収入を確保するため、父親としての配偶者の賃金、税制も大幅に改善しなければならないだろう。
母親の愛は無限である。
深夜に帰宅したエルさんはかーたんに二つのピアスを贈った。

朝寝して頭うつろの母の日や   素閑 

               


わが誕生日なりき

2015-05-06 22:34:21 | 日記・エッセイ・コラム

さかのぼるが、5月6日・・・わが誕生日である。
わが誕生日といっても何にもしない。
それより、自分がもはや50代の後半半ばになったことにショックである。
当ブログをお読みの方はご理解いただいていると思うが、辱知オカブ、至って幼稚なことこの上ない。
不惑を過ぎても一向に成長が見られず、ついに50にして児戯に等しい人格である。
一時アダルトチルドレンという言葉が流行った。クリントンがカミングアウトした奴である。自分もそうなのかもしれない。
5月5日の端午の節句に生まれなかったことが、こんな間抜けな人物像の形成につながっているのか?
まあどうでもよい。残された人生もあとわずかである。せめてこれからは悔いなく生きましょう。
かーたんが、ムッティス・クーヘンでケーキを買ってきてくれ、家族でささやかな誕生パーティーをしてくれた。
感謝この上ない。 

明るき陽青葉揺れつつ哀しけり   素閑

                              


5月になりましたね。

2015-05-01 21:49:52 | 日記・エッセイ・コラム

5月になった。
ついこの間まで寒い寒いと言っていたら、真夏のような初夏が来た。
オカブ商会は毎年、5月1日は休業としている。
メーデーだから?ん、俺ら労働者だっけ?違うよなあ。でも、資本家?ハハハハ!
なんだかんだ言って、連休中は少しでも休んでいたいから。
そんなわけでお休みの中、かーたんと三茶に出かける。
ちょうどお昼時で、お腹が減っていたので、いつもの『きゃんどる』でランチ。
ローストポークと鰆のポワレの日替わり定食。セットで1,000円也。
いつもと違って豪遊しようということになりドルチェも頼んだ。二種盛780円也。
話題はエルさんのこととなる。エルさんは昨日も祝日であるにもかかわらず出勤。連休中も2日は出勤だそうな。この子は学生時代から、本当に怠慢な子だったが、社会人になったら驚くほどよく働く。しかし、一方で能力不足で、生産性、効率が上がらないという点も否めないのだが。
『きゃんどる』を出て、かーたんの夏物の衣類を『しまむら』で買う。締めて18,520円也。痛いねえ。しまむらでも。我が家はしまむら~であるが、しまむらでも結構高いと感じる。
世田谷通り沿いの時計屋さんに腕時計の電池を替えてもらいに行く。
もう20年以上前に買ったオメガシーマスターだが、まだ十分使えている。やはり物がいいほうが最初は出費がかさんでも経済的だ。ただメンテナンスに多少金がかかる。時計屋さんに、次の時は正規代理店にオーバーホールに出したほうがいいですよ、と言われる。
少し、お茶でも飲んでいくかというので、キャロットタワー26階、『スカイ・キャロット』でオカブはスパークリングワイン、かーたんは珈琲と菓子パン。
陽がまださんさんと照る中家路についた。

メーデーの燦燦のなか人賑わい   素閑

          


          

             


あるブログを見て。

2015-04-23 21:05:14 | 日記・エッセイ・コラム

ある調べごとをしていたら、下のようなブログに行き当たった。

 <40代独女のブスログ・・・でも謙虚で笑顔で前向きに>

まさに目から鱗である。
いままでほとんど他人様のブログなど読んだことがなかった。読んでも政治・時事問題ブログを数本ほど。
こんなに、簡潔で、しかも「面白い」ブログなど読んだことはなかった。
なるほど、ごちゃごちゃ小難しいことを書いても誰も読んでくれないわけである。
行間を空けて、簡潔に、面白くである。
もとより、当ブログは他人様に読んでいただけることを眼目にしていなかった。HPの日記を出発点としていたから。
しかし、広告がうざいのでNTTにオプション料金を払ったら、読者履歴の解析も自動的についてきたので、その日どれだけアクセスがあったかも一目でわかる。これは気になる。
そこで当ブログも若干の方針転換をして少しは笑ネタを取るようにしたいなあ、などと考える。 

さて、冒頭に挙げたブログの管理人様についてであるが、ハイミスでブスで貧乏で仕事に無能なことを自己韜晦しておられる。
しかし、オカブはブスは大好きである。美人は観ているだけでよろしい。大抵そういう美人は退屈な人物である場合が多い。それよりも趣のあるブスの方が数段良いことか。かーたんもどちらかというと「ブス」の部類に入るが「趣のある」ブスであるから、毎日、顔を合わせていても楽しい。
しかし、ブスが高貴で気高く生きることは難しい。オカブも昔、思春期の頃は、女はウン〇をしない生き物であると思っていた。レストランのランチしか食わず、丼飯など食わないものかと思っていた。しかし、やがて時が経ち世の中を知るに従って、かなり現実的で、面倒臭い存在であることを知ることになる。ましてや、ブスをやはである。ブス諸子はブスであることをなんら恥じることはないが、珍重されるなるブスになるよう努力しなければならん。
昔、マーク・トゥエインが言った。 「女を擁護することはたやすい。しかしおちょくっていた方が数倍楽しい」けだし至言である。ブス諸子も心して噛みしめるべき言葉である。

一方、自分についてであるが、ハゲでデブで醜男で臭くって甲斐性なし、との罵倒を浴びることをもとより覚悟している。

藤の花春爛れたり陽はたかし   素閑

     
 





ある日の土曜日

2015-04-19 14:55:00 | 日記・エッセイ・コラム

かーたんが今日どうしても郵便物を出さなければならない、というので昼前に本局である三軒茶屋の世田谷郵便局に出かけた。
太子堂から三軒茶屋は、暖かい好天の週末ということで、人で賑わっていた。
洋服屋などを冷やかす。
三茶に着いた頃、ちょうど昼時で、お腹が空いたので、すずらん通りの『南欧肴や きゃんどる』でブランチ。
1,000円也のAランチセット。 それにオカブは790円也のレーベンブロイの大ジョッキ。
『きゃんどる』の日替わりランチは手ごろなお値段と美味しいお味でいつもお世話になっている。
ランチだけだと900円だが100円増しでセットにするとアペタイザーと珈琲がつく。
今日のメニューは地鶏のロティと魚のポワレ。地鶏が柔らかく料理されソースも大変美味しかった。
オカブは昼からビールというのは人前に憚られるが、これだけが楽しみなのでやめられない。
さて、お腹が満たされ、本題の本局へ。
かーたんが途中で『しまむら』へ寄っていきたいと言ったが、ここで本格的に買い物をしだしたら時間的に泥沼になるので却下。
無事封書をだし、ご帰館。
こんな他愛もないことをオカブがブログに書いているのは自分なりの備忘録のため。
ただしお付き合いいただいて、お読みくださっている人々には大いに感謝。
春の日のひと時であった。

春更けて妻のうなじの後れ毛や   素閑 

         

               

        


パリのカフェを日本でやったら

2015-04-04 20:30:05 | 日記・エッセイ・コラム

土曜の昼下がり、ダメ押しの花見をしようと、かーたんと北澤川に出かけたが、あまりの寒さに花見どころではなくなり、淡島通り沿いのイタリアン『カフェ・ピアノ・ピアノ』に飛び込んだ。初めて入る店である。
ランチを食べながら、日本で本格的なフレンチ・カフェ・ビジネスを始めたらそこそこ儲かるのではなどという想いつきが頭に浮かんだ。
「フレンチ・カフェ」とは、「カフェ」と「バー」と「ブラッセリー」と「レストラン」の看板を掛けた、要は喫茶店とバーとビア・ホールと大衆食堂を兼業した店を出すということであり、全く新しい業態を実現させることになる。
パリなら街の各所にこうした個人経営の店があってそこそこ経営している。昔はタバコ屋も兼ねていたが最近、フランスのカフェの喫煙が法で禁止されて以降どうなったかわからない。
日本でも部分的ながら先行事例がある。まず、『ドトール』。ここの創業者はフランスのカフェを日本でも、という意気込みで事業を始めたそうだが、日本にある『ドトール』はパリのカフェとは似ても似つかぬものである。
次に『プロント』。アルコールを出すという点では『ドトール』よりフレンチ・カフェに近いのかもしれないが、カフェ・タイムとバー・タイムがはっきりと区切られてしまっているのがいけない。
イタリア発祥だが世界的カフェ・チェーン『セガ...・フレット・カフェ』も見落とせないが、日本ではセルフ・サービスであること、本格的食事ができないことが画竜点睛を欠く。
今、最もフレンチ・カフェに近似したものは銀座と赤坂に店のある『オー・バカナル』や渋谷文化村に本拠を構えた『レ・ドゥー・マゴ』だろう。しかし、これらの店は「フレンチ・カフェ」をモデルにしたテーマ・パークであり、ちょっと庶民には手が出ない高級店である。コーヒーもビールもワインもカクテルもビフテック・フリットもサンドイッチもあるが、いわば朝の出勤途上、コントワールで新聞を読みながら「アン・キャッフェ!」「ルージュ!」とぶっきらぼうに注文して、一杯ひっかけて出ていくような日常的な店ではない。おめかしをして、気取って今日はそれなりの食事をするぞ、と気合を入れて出かけていくハイソなお店なのだ。
オカブが着想しているのはローカル・ビジネスとしてやっていけて、かつ庶民的な、さらには朝のカフェ、昼のプラ・ド・ジュール、夜のバーとレストランと、店舗というリソースをほぼ丸一日活用できるビジネス・モデルだ。
しかし、農産品輸入国の日本ではこうしたスタイルの店を庶民的なものにするには原価率がとてつもなく高くなってしまう。また立地条件の良い店舗物件は賃貸料が割に合わないほど高額になるのもネックだ。かーたんにこのアイデアを言ったら「あなたにはできないでしょ」と一蹴された。結局この一言で画期的ビジネス・プランはお流れとなった。
しかし『ブルー・ボトル・カフェ』の例もあるようにどこで瓢箪から駒が出るかもわからない。新しい商売のネタをあれこれ妄想するのも楽しいものだ。
ランチはかーたんが黒毛和牛のステーキ。オカブがキャベツとベーコンとアンチョビのスパゲティ、それにビール二杯。美味かった。ランチ・セットなのでこれにアンチ・パスタとプチ・フール、ドリンクがつく。それを考えるとお得な食事だ。
しかし、オカブの考えるカフェはこんな凝った食事を出す必要はない。身近な惣菜の食事を提供する店でいい。サンドウィッチとかクロック・ムッシューとかサラダとか。せいぜいビフテック・フリットまで・・・・・まだ諦めきれないところがある。

花冷えや浮世に夢見る愚かさよ   素閑


             
      
             

 


春になりました。

2015-03-22 14:59:33 | 日記・エッセイ・コラム

春が立った。春霞の中、晴天のまさに春の陽気。
今朝は5時に起き、朝湯に入り、風呂場の窓から、隣の家の庭の桃の木の蕾が開きかかけているのを見て、本格的な春の到来を肌で感じた。
8時過ぎにかーたんは教会に出かけて行った。
春の陽気と朝風呂でぬくぬくして、居間でしばらく朝寝。
昼前に、北澤川遊歩道へカメラをもって散歩に出た。
緑道の桜の蕾はまだ固いが、気候が暖かければ来週の日曜頃が満開の見ごろになるのではないか?
まさに、『花をのみ待つらむ人に山里の雪間の草の春を見せばや』の心である。
淡島まで足を延ばして、緑道のベンチに腰を下ろしていると、白鷺がやって来た。ちょうど良いシャッターチャンスと、カメラを取り出す。
緑道のせせらぎで鰌でも取っていたのだろうか?
淡島のせせらぎ公園の前ではソメイヨシノの一足先に小松乙女が八分咲き。
春の訪れというよりももう春爛漫である。ジャンパーを着ていると汗ばんでくる。 

           

                        

上の写真のごとき春の午後の光景である。ソメイヨシノの蕾を撮ったがピンボケになってしまった。えい、ままよ、記念に載せておこう。
気の早い連中は、花も咲いていない桜の木の下で、酒盛りをしている。
オカブは家に帰って、昼食に蕎麦を食った。
長野県は茅野市にある渡部製麺所株式会社の信州蕎麦である。これがすこぶる美味い。大盛りをあっという間に食ってしまった。
佳い休日のひと時であった。

                                 

法然忌留守居の家に時計なる   素閑                                      


雛祭りなり

2015-03-03 22:19:10 | 日記・エッセイ・コラム

3月3日。雛祭りである。
しかし、今年は、主役であるはずのエルさんが、年度末の過酷な残業に追われているため、チラシ寿司と、蛤、菜の花のお吸い物の晩餐もなし。
まったく、世知辛い世の中である。
ただ、かーたんの音楽室にお雛様だけは飾った。
大きい夫婦の雛はエルさんがかーたんの実家の御爺ちゃん御婆ちゃんから買ってもらったもの。家来が一人もいないところが物寂しい。
小さい夫婦の雛はかーたんが嫁入り道具として持ってきたもの。置き場所がなくて三人官女や右大臣左大臣、五人囃子はお引き取り願うことになった。
そして、ゆるきゃらっぽい縫いぐるみのフルセットの雛はエルさんが大叔母さんから作ってもらったもの。
今年は、家にあるありったけの雛をかーたんが飾った。
しかし、今日は女の子の祭り、節句であるが、「女性がSHINE」だか何だか知らないが、女子をこんな定常的な長時間労働、深夜残業、休日就業の労働環境に放り込んでいて、少子高齢化解消、労働力不足解消もないものだ。
もう、エルさんの年代の女子は、疲労困憊してしまって、恋愛も結婚も、ましてやその先の子育てなどできないのではないか?
その労働力不足を移民で補おうなどという政策は、本末転倒というか、支離滅裂と言っていいだろう。
日本を、安定的に発展させるためには、若い世代が、安心して家庭をもって、子育てできる環境が不可欠である。
ぜひ、政府の再考を願いたい。

かんばせに老いが兆すや内裏雛   素閑 

       

                       


節分なり。

2015-02-03 23:16:51 | 日記・エッセイ・コラム

早いもので、昨日正月を済ませたかと思ったら、もう今日は節分だ。
節分につきものの恵方巻きを買ってきて今日の夕飯。
恵方巻きは下北沢のスーパー「オオゼキ」の一角にある「梅ヶ丘・美登利寿司総本店」の謹製になるもの。
今年の恵方は西南西とのことでそちらを向いて、無言でこのジャンボ海苔巻をぱくつく。
しかし毎年この日になると、なんでこんな風習が広まったか不思議でならない。別にこんなものを食う義理もないのだが、かーたんが食いたいというので言うとおりにしている。まあ、目くじらを立てることもないし。
ただ、厄除け、招福なんて効能は信じない。
「災難に会う時節には災難に遭うがよく候。死ぬる時節には死ぬことがよく候。是、災難を除ける妙法にて候」との良寛の警句はなかなか味わい深い。いままで適当に生きてきたが、適当に美味いものも食った、行きたいところにも行った。これからどのような目に遭おうが文句を言えた立場ではない。
明日から春である。ただわが人生は晩秋と言ったところか。

 世の定めみな頷けるかな節分や   素閑