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昼のガスパール・オカブ日記

閑人オカブの日常、つらつら思ったことなど。語るもせんなき繰り言を俳句を交えて独吟。

ビール飲んじゃった。

2015-01-31 16:11:39 | 日記・エッセイ・コラム

正確にはビールではない。発泡酒と言おうか、何と言おうか?要は大麦麦芽とホップと水以外のもので作ったものをビールと呼んではいけない、という昔のドイツのエラーイ王様が発布した「ビール純粋令」を現代日本の国税庁もちゃんと守っているということ。ただ、日本ではアルコールを醸造するためのお米などを入れても、ビールとして扱ってもらえるお目こぼしがあるらしい。だから左の「銀河高原小麦のビール」は、小麦の麦芽で作ってあるがかろうじて日本の基準ではビールになるのであろう。
今日は朝から晴天だが風が強く寒い土曜日。どこかに出かけるというよりも家でグダグダしていた方がよいを決め込み、昼ビールとなった次第。
どちらの「ビール」も美味かったが、グラスがいけなかった。左の「銀河高原小麦のビール」はベルギービールの「禁断の木の実」のグラスに注いだが、グラスの口が広くて泡が飛んでしまい、クリーミーな泡を味わうことが出来なかった。もっと口の狭いグラスで呑めばよかった。「銀河高原小麦のビール」は、ただの小麦のヴァイツェンではなく、ほの甘い、ベルギービールを髣髴とさせる飲み物でまさに冬のビールといった感じ。ちなみにサミットで一缶257円だったような。

                 

右の「サッポロ・ホワイトベルグ」は完全にベルギービールをターゲットにした製品。これは酒税法上のビールの扱いを受けない。従って安い。サミットで350ml缶で137円ではなかったか?安いが決してまずくはない。ビールでもないのにバカ高い本場もののベルギービールなどよりよほど良い。缶に書いてある原材料を見てみると、大麦麦芽・小麦麦芽・ホップ・大麦・コリアンダーシード・オレンジピール・大麦スピリッツとある。これは成分的に実質、各種のカクテルであるのをビールと称しているベルギービールと同じではないか?しかし、ベルギービールよりよほど良い、と先に書いたが、やはり歴史を経た老舗のベルギービールにはかなわない。これはちょっと合成酒の香りがする。ベルジアンを狙ったのならもう少し完成度の高いものにすればもっと高く売れたかもしれない。これは今まで発泡酒を飲んでいた層とベルジアンを飲んでいた層の積集合部分をターゲットマーケットとして狙ったものだろうが、はっきり言って二つのマーケットセグメントに共通部分は少ない。ちょっと残念な結果に終わりそうだ。ということは飲める時期はあと少しか?明日も買ってこよう。ちなみにこれはベルギービールの「ヒューガルテン・グランクリュ」のグラスに注いだ。こちらの方はグラスの口が狭まり泡が残っていい感じだった。

春近し大風の疾風の如しかな   素閑


七草粥ですね。

2015-01-07 09:21:49 | 日記・エッセイ・コラム

今日、1月7日。七草粥の日である。
7日と七草をかけたものか、なぜ7日に七草粥を食うのか来歴は分からないが、とにかく我が家でもそれらしきものを作って、朝食に食った。餅入りで、汁が醤油味なので、なんだか粥というよりも雑炊のようだが、そこのところは置いておこう。
春の七草というと全部は思い出せない。ゴギョウ、はこべら、ナズナ、スズシロ、大根、ホトケノザ、それからなんだっけ?
とにかく「七草ナズナ、唐土の鳥が、日本の国に、渡らぬ先に、ストトンストトン」の七草のわらべ歌なら、覚えている。
この日に七草粥を食べると一年間無病息災なんだそうな。
生鮮野菜がなかった昔の冬に春の兆しが見え、採れたての野草を粥に炊きこんだ料理は、当時としては最高の健康食だったのかもしれない。だから一年間無病息災もむべなるかな、である。
今年は3日から仕事開始のつもりだったが、とにかく寝正月の習慣が抜けきらず、エンジンがかからない。
初春の粥を食ったのを機に、本格的に仕事に取り掛かるか。

七草も春は遠くの冬ざれや   素閑 


あるクリスマス・イヴ。

2014-12-24 23:23:17 | 日記・エッセイ・コラム

オカブがクリスチャンでありながら教会に行かなくなったのは前述のとおり。
たとえクリスマス・イヴのキャンドル・ライト・サーヴィスであろうと、礼拝に連なるのは、オカブの信仰に反する。
しかし、かーたんもエルさんも教会に行くという。オカブ独り取り残されることになる。
そこで今日は、新宿の『る・たん・あじる』で過ごすことにする。 
7:30頃店に行くと先客が二人いた。遠慮がちにカウンターの隅っこに座る
いつもの『ラフロイグ』をロックで注文する。手品のようにいろいろなお通しが出てくる。
先客は年金生活者らしいご老人で、二人とも、これからどこかのシャンソニエでライヴを聴きに行くという。二人は30分ほどすると、席を立った。
香奈子ママと二人でシャンソンのこと、パリのこと、日本の温泉めぐりのことなどで話が弾む。香奈子ママにもワインを飲んでもらい乾杯する。オカブがアズナブールはホモだと主張すると、香奈子ママはあれはとんでもない女好きだと反論する。そんなことから新宿二丁目のこと、最近の新宿、六本木界隈のゲイ事情など、クリスマスらしからぬ話題が続く。
ケンタッキーをクリスマスに食べるのは日本人だけだということに、そうだそうだ「あれはケンタッキーの陰謀だ!」ということになった。
1時間ほどさしで盛り上がった後、客が二組来た。両方とも演劇シャンソン関係者らしく、内輪の話題で盛り上がる。
その客も30分ほどで切り上げて、店を出た。
もう10時を回っている。かーたんもそろそろ家に帰るころだろう。
締めのラフロイグを一杯飲んで香奈子ママに別れを告げる。 
「Jeaux Noel!」「Bonne Soire!」エレベーターまで香奈子ママが送ってくれる。
いいクリスマスだった。

新宿の裏酒場にて聖夜かな   素閑 

 


冬至に思うこと。

2014-12-22 17:30:09 | 日記・エッセイ・コラム

暮れも押し迫ってきた。
我が家は立て続けに親戚に不幸があったので来年の正月は形ばかりのものにする予定だ。
だから年末といってもこれといって追い立てられるような忙しさはない。やることといったら掃除くらいのものだ。仕事の方も取引先がほとんど先週からクリスマス休暇に入っているので閑古鳥が鳴いている。今年は25日を仕事納めにした。オカブ商会にとってはアベノミクスは不景気以外の何物ももたらさなかった。まあよい。運のいい時もやがてめぐってくるだろう。円安はオカブのような輸入業者にとっては非常な痛手だ。だが為替は水ものなのでいつ何時潮目が変わるかわからない。しかし、やがてハイパーインフレがやってくるなどという物騒な話もある。日本国債の信用はなんとしても堅持してほしいものだ。
しかしついこの間去年の年の暮れを迎えたと思っていたらあっという間に一年が巡ってきた。いつもながら時の経つのは矢のように速い。
オカブもこの人生の数十年の間に景気・不景気の波、仕事の順逆などいろいろなことを経験した。妻を得、子をもうけた。その子も今年、就職して教師になった。もはやわが人生も黄昏である。しかし同輩たちが着々と人生の仕上げにかかっているときに、わが身はいまだに惑い、迷いさまよっているばかりである。それも自業自得と不運のせいと諦めるしかない。思えば非生産的な人生であった。
そう悲観的になっても仕方がないとも思い、一方では諦念とは程遠いとも思う。
日暮れて道遠しである。

妻のピアノわが庭に暮るる冬至かな   素閑 

 

 


クリスマスですね。

2014-12-21 12:35:52 | 日記・エッセイ・コラム

クリスマスですね。クリスマスは12月25日ではあるのだが、キリスト教会では12月24日以前の最終の日曜日をクリスマス礼拝として祝う。だからこの日には祝会や愛餐会と称して、クリスマスの奉祝のイベントを持つ協会が多い。
オカブは12月13日のエントリーの通り、教会の礼拝に連なることは真の信仰ではない、との啓示を享けたので、今年一年間、クリスマス礼拝を含めて一切礼拝に連なることはなかった。
だから今年のクリスマスも家で一人過ごす。とはいってもかーたんとエルさんが教会に出かけてしまって、所在がないので、昼食に蕎麦でも食ってこようと思う。 蕎麦だけではない、オカブの大好きな蕎麦屋酒。
どこに行くか迷うが、昨日のことで懲りたし、あまり高い金を払いたくないので、いつもの街の蕎麦屋、池ノ上の『三由』にする。代沢小学校を過ぎ森厳寺の前に出る。お参りではないが寺域を覗いていこうと思う。オカブはキリスト教会を信じていないが、もちろん現代仏教も信じていない。 生臭宗教に堕した葬式仏教め!オカブはキリスト教会を信じていないといったが信仰は捨てていない。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神にひれ伏し聖霊との親しき交わりを得ている。そして既存の教会を自分との関係では否定するが、一般的意味では否定しない。だから一方で、神社仏閣巡りも物見遊山としてはまことに結構なものではないかと決して否定しない。
森厳寺の境内は綺麗に整備されていた。末社の粟島大明神の脇に弁財天のモダンの堂があった。なんの関係があるのであろうか?もう正月の準備が始まっていて門松を立てるのに職人が忙しく立ち働いている。
そして北沢八幡神社に行った。北沢八幡はオカブの家から一番近い神社だが、鎮守の神様ではない。オカブの住んでいるあたりは飛び地なので、鎮守の神様は遠い環七沿いの代田八幡である。もちろんオカブは八百万の神を信じているわけではない。しかし神参りも物見遊山としてはまことに結構なものだと否定しない。
北沢八幡から徒歩十分ほどで池ノ上駅前、蕎麦屋の三由。
この店は10年ほど前に立ち寄って、町の蕎麦屋としては蕎麦の味がすこぶる良かったのでご贔屓にしているもの。
暖簾をくぐるなり、板わさで燗を一本呑む。そして燗をお代わりしてもりを二枚。もちろん手打ちではないがいい歯ごたえの更科風蕎麦。蕎麦を肴に燗をもう一本。板わさ、お酒三本、もり二枚で2,700円。いいほろ酔い加減となって店を出る。 
師走の街はそこはかとなく気忙しかった。

臍曲げて独り身で過ごすクリスマス   素閑 



鍋焼き饂飩。

2014-12-09 16:27:14 | 日記・エッセイ・コラム

底冷えがする寒い一日。
夕飯には身体が温まるものが食べたい。
そこで今晩の夕飯は鍋焼き饂飩にすることにした。
北風が吹きまくる中をサミットまで買い出し。ほうれん草、蒲鉾、海老天などをお買い上げ。
卵とほうれん草を茹でて、割り下を作って、あとは土鍋で温めるだけ。かーたんと熱々の所をふーふー言いながら食べた。
エルさんは今日も遅い。多分帰りは12時近くになるだろう。

鍋焼きや娘は今日も夜業かな   素閑 

 


鍋物の季節ですね。

2014-11-07 21:45:04 | 日記・エッセイ・コラム

季節外れの台風が過ぎ去って寒くなってきた。夕飯も温かいものが恋しくなってくる。
そこで今晩は冷凍の鶏肉を使って鶏すきにすることにした。
下北沢のスーパー『オオゼキ』で、安い白菜、葱、春菊、シメジ、エノキ、糸こんにゃく、焼き豆腐を買ってきて、電気コンロで煮込む。味付けは、ダシ、塩、醤油、酒、味醂で作ったなんちゃって割り下。汁が煮えてきたところで、鶏肉から具を入れていく。火が通ったところで、かーたんとふーふー言いながら食べる。美味い。
熱い具に口の中を火傷しながらも貪り食う。
締めは残った汁にご飯と卵を入れた雑炊。これも芯から身体が温まる。
食べた後はシャツも脱ぎたくなるようなホカホカの暖かさ。
鍋は具を刻むだけで、煮汁に入れればできる簡単な料理だが、それに対して満足感が大きいのでありがたい料理だ。
冬は鍋に限る。天下泰平なり。

立冬や隣家の声も遠き声  素閑


2014年正月元旦

2014-01-01 14:25:00 | 日記・エッセイ・コラム

年が明けた。
めでたくもありめでたくもなしの心境である。
今年は早く7時半には起き出し、お節の支度。祝箸に家族各人の名を毛書するのは毎年オカブの役目。悪筆を振るう。
さて、準備も整って、各人威儀を正し、お屠蘇の儀。年少のエルさんから順にオカブが杯にお屠蘇を酌む。
さて、お節。今年は目新しいものがない。叩き牛蒡と田作りがお手製であることは言うまでもない。辻嘉一翁の戒めを固く守っている。
お屠蘇をお銚子に3本飲んで、いい加減、酔いが回ってきたところで年賀状を見る。今年は、エルさんが大晦日の夜なか、というか元旦の朝までバイトで、それから年賀状のイラスト作りを始めるので、年賀状はできていないし、こちらからの分はまだ出していない。
お節の儀も済んで、かーたんと初詣に出かける。北澤八幡と太子堂の円泉寺。北澤八幡は参拝の列が150メートルほどできていてとても詣でられそうもないので、外から眺めただけ。それから円泉寺に足を向ける。こちらは境内には人が誰もおらず、静かな初詣ができた。
三軒茶屋まで出て、デニーズが空いていたので、そこでひとしきりお茶。
夜は、『2014年ウィーンフィル・ニューイヤー・コンサート』。バレンボイムの指揮は、ワルツではウィンナ・ワルツのテンポを的確にとらえていて楽しげ。『エジプト行進曲』でフィルの団員が歌いだすパフォーマンスも面白かった。また『ラデツキー』でバレンボイムが団員一人一人と握手を交わす趣向も好感が持てた。今年のニューイヤーは近年出色の出来。ブラヴォー!ダニエル!

寿ぐもなんにもなしや今日の春     素閑

 

 

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2013年シルヴェスター

2014-01-01 00:02:17 | 日記・エッセイ・コラム

今年も今日で終わりとなった。
早いものである。ついこの間、今年の正月を祝ったような気がする。
我が家の年末年始はどこにも出かけず、家に篭って、テレビとビデオと・・・・あとお酒三昧である。まあ、家族が作るおせち料理を肴に、なんにもせずグータラグータラし倒すのである。(いつもグータラしているではないかという声はそりゃ聞こえません)
今年の締めの会計が残務として残っているが、今回は目をつぶって、手を付けず来年の宿題とすることにする。1月10日までに国税に提出・納税する源泉徴収の所得税の数字も何とか帳尻を合わせた。まあ、そんなに心配することもなかろう。
3時頃からお節料理の炒り鳥作り。思ったほど手間暇かかる料理ではなかった。上手く作れた。
5時から蕎麦を茹ではじめる。今年の年越し蕎麦はエルさんがバイト先の『お山のすぎの子』で有難くも頂いてきたものだ。とにもかくにも有難く頂く。お銚子も一本つける。美味い。蕎麦には天麩羅。蕎麦と天麩羅を一緒に喰うのをかたくなに拒んでいるオカブとしても、年越しの蕎麦をただの盛り蕎麦で済ますのは忸怩たる思いがある。もとよりの主義主張には封をして、海老天を食うことにする。ただ、やはり、天麩羅を蕎麦と一緒に喰うのは、なんとも、もそもそして、蕎麦をつるっと粋に手繰る醍醐味を損ない、後悔することしきり。せっかくの年越しの蕎麦に味噌をつける結果となった。
蕎麦を食い終わり、一通り台所を片付けて、恒例の『こうもり』のビデオを観る。今年もカルロス・クライバー指揮、バイエルン国立歌劇場の1987年のジルヴェスター公演の録画である。この公演の目玉はオルロフスキー侯爵役のブリギッテ・ファスベンダーの名演。もう、彼女を超えるオルロフスキーは出てこないのではないのではないか?演出はオットー・シェンク。この公演は、間違いなく『こうもり』の最高峰の公演である。
『こうもり』がシャンパンの歌で幕を閉じ、N響の第九公演。3楽章の途中から聞いた。今年はソリストが全員日本人だったが、どれも質が高く安心して聞いていられた。ただ、ちょっとソプラノが、がなり気味の発声で気になった。
その後は、『吉田類の酒場放浪記』などを観て過ごす。今年からは教会に行かないことにしたので日曜がゆっくりできる。土曜の晩などのんびりと酒場巡りなどしてみようかなどとも、ふと思う。
11時半から、東急ジルヴェスター・コンサートを観る。『ニュルンベルグのマイスター・ジンガー前奏曲』はオペラの前奏曲としても大曲なので、タイミングが合うかどうかちょっと気がかりだった。曲の終わりと24:00がぴったりだった。お見事!
新年おめでとうございます!

静かなり妻ともに居るつごもりや    素閑

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メリー・クリスマス2013

2013-12-24 11:59:00 | 日記・エッセイ・コラム

今年も余すところあとわずかである。
今年の、クリスマス・イヴ・キャンドルライトサーヴィスには教会に行かなかった。というか、故あってここ3週間ほど教会には行っていない。
『故』と言ったところでご理解いただくのは難しいと思うし、クリスチャン以外の一般の方には、なおのこと不明であろう。
それを承知で言えば、それは小生の霊的覚醒の故である。オカブの信仰の原点は、聖霊が降ったということと、奇跡は起きたという、極めて直接的な信仰体験である。それは、オカブが教会の門をくぐる前に起きた。だから、本来、オカブの信仰に教会が入り込む余地はないのである。それなら、オカブは無教会かということだが、不勉強にして無教会というものがどういうものか知らないし、多分、オカブは無教会の集会の中にも、自分の信仰的体験を遮断するものを感じて、否定的な感触を持つのは目に見えている。
とにかく、オカブの信仰生活にとって、教会は夾雑物以外の何物でもなかった。それは、多少の社交的なコミュニケーションの場としては、オカブの人生の糧になった面もあるが、信仰的には教会はオカブにとってほとんど無価値である。小生の意見を申し述べれば、既存の教会は『霊的に死んでいる』のである。それが、このほどたまたま教会政治のごたごたに巻き込まれて辟易としていたことと、約30年ぶりに聖霊が降ったという霊的な、しかも衝撃的な体験をして、改めて自分の信仰的な立ち位置を再確認したのである。こういってしまうと、オカブは極めてオカルト的な狂信的異端という見方をされかねないかもしれないが、『異端』といわれれば成程、その通りかもしれないが狂信的というのはちょっとニュアンスが違う。オカブは自分の直接的な体験に基づいた信仰の純粋性を守りたいだけなのである。だから、オカブはもう教会に行くまいと決意したが、教会を否定しないし、多くの人にとって、その環境の中で信仰を育み、成長させることは良いことだと思う。しかし、オカブ個人にとっては「炭焼きの信仰」はナンセンスそのものでしかない。信仰とは神と個人との命がけの対話と願いと肯定と否定・・・・すなわち神対個人の全人格的な対話の上に成り立たなければならない。
しかしオカブ一個人にとって既存の教会は『霊的に死んでいる』のである。既存の教会は形式主義と因習と世俗主義に支配されている。
いまや、教会の改革運動でもなく、リバイバルでもなく、かつて誰も目にしなかった『霊的な』教会を建て上げることが求められている。それはカルトを創設するなどということでは毛頭ない。
『霊的な』教会の礼拝は今までよりもっとシンプルでよい。祈祷と黙想と献金だけのプログラムの礼拝でオカブは良いと思っている。ただし、それは従来の形式主義に毒された浅薄な礼拝ではなく、イサクの奉献にみられたような、あるいはゲッセマネの祈りにみられたような、神と人とのぎりぎりのせめぎあい、真剣な神との対話の中で、ひたすら聖霊を祈り求めるものでなくてはならない。
年末に心騒ぐこととも思われるが、いま聖霊に満たされ実に平安である。世界の人々に、メリー・クリスマス!

聖誕祭祈りの果ての希望かな     素閑

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