故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

伝説か、武智万次郎云者墓

2013年01月23日 17時20分52秒 | 歴史

今日は一日暖かい日だと思った。風も無く、そう寒くなく、調度よい。何時ものように1時間ばかり歩き、何時もの生活だ。午前はいつの間にか眠ってしまい目が覚めてからは資料の整理を。午後は図書館へ本を返し、代わりに幕末ものを3冊ほど借りて来た。その後はドライブで夕方になってしまった。

で、丸亀には仇討で3人の話がある。以前紹介した、田宮坊太郎・尼崎里也と今日紹介する武智万次郎である。墓は丸亀から一里・一里屋と呼ばれる交差点の側(丸亀市郡家町原)に墓地がある。が、この墓は何処か違う。本来ならば『武智万次郎墓』とあるべきだが『武智万次郎云者墓』とある。この『云者』とは。

 

文久3年(1820)土佐国長岡十市村の郷士、武智仙助が高知城下で殺された。敵は二人の船頭ですでに姿をくらませて分からない(現場の居酒屋・浜屋の主人の話)。凶器に使われた匕首だけが残されていて匕首の柄に「讃州丸亀」とあった。

何年かが過ぎ郡家村大林に平尾という酒醸造家に万助という杜氏が働いていた。万助は毎夜、真夜中に荒神社の前で木刀を使って腕を磨いていた。天保3年(1832)風邪が基で長の床についた。臨終に及んで自分の事を話し出した。「自分は敵討ちをするために讃岐に来た」ことや、「敵を見つけたが一人は死んで、後の一人は妻と3人の子供を抱え、親父の命日には仏壇に花を供え向香している。これでは敵を討つことが出来ない」と言って息を引取った、天保3年9月28日の事である。 万助は最後まで自分の姓名を名乗らなかったが、丸亀城下で聞いた話では武智万次郎でないか?というので墓を建て『武智万次郎云者墓』と銘を入れた。この前は金毘羅街道丸亀街道である、金毘羅参拝に来た後この道を通る者の中に若しや土佐の縁者が参るかも知れないとこの街道沿いに墓を建てたという。

この仇討には他にも違った話もあるが、この話はこの地区に昔から伝わっていて我が父親から私が聞いた話である。尚、土佐国長岡郡十市とは現在の南国市十市であると思われる。昭和6年8月28日には十市村青年団が参拝して現地で100年忌の法要を営まれたといわれる。そして誰が花を揚げているのか?いつも綺麗なお花が供えてある。

って、事で今日はこの辺で。じゃ~またネ