故郷の幕末史

ふるさとの讃岐に誇りを。
気づいたことや、発見したことを幕末史に限らず書いていこうとおもいます

烈女尼崎里也宅跡のこと

2013年01月17日 17時50分51秒 | 歴史

今朝は風も無く暖かく感じた。6時10分頃から少なめの50分位の歩きだった。 初めての道ではなかったがゆっくりと懐中電灯で見て回った。(不審者と思われているかも?)

この石碑は、江戸時代に女性の仇討『烈女尼崎里也宅跡』の写真である。元は生家のあった丸亀市風袋町にあったものだが、現在は丸亀市立資料館前に移されている。

 

丸亀藩家臣で足軽の「尼崎幸右衛門」は藩内の指折りの美人妻と2歳になる娘「里也」と幸せな生活を営んでいた。その妻に横恋慕した同輩の「岩淵伝内」が延宝4年(1676)に幸右衛門の不在中に妻に暴行を働こうとしていたところに、幸右衛門が帰宅。その光景を見て激怒し、刀を抜いて斬りかかったが返り討ちになってしまった。この時妻は里也を抱いて逃げていたが手元にあった脇差を伝内に投げつけた。肩に命中したが伝内は逃げ去ってしまった。妻は里也を連れて妹夫婦方に身を寄せたが、翌年に亡くなった。里也は叔父夫婦に育てられ13歳の時父の最後を知り18歳になって父母の無念を晴らすため叔父夫婦に別れを告げ江戸にでる。江戸では旗本永井源助方に住み込みで働き、その傍ら剣術修行に励み腕前は上達していった。永井源助邸では1年半ほどで主人に事情を話、暇をもらって次々と奉公先を変えた。その間一生懸命岩淵伝内を探すがなかなか巡り会えなかった。そんな苦難の日が10年以上続いた。甲斐あって住み込みで働いていた屋敷で岩淵伝内を探し出し、丸亀藩邸に届け出て仇討赦免状を貰い受ける。藩も里也のためにと荏原郡今里に土地を購入にて仇討の場とした。見事仇を討った里也は後に藩主の姉の侍女として仕え最初の主家の苗字を受けて「永井の局」として79年の生涯を過ごした。 こんな丸亀の歴史もあります。ご愛読を!

で、今日はこれだけで終り、じゃ~またネ。