タバサねーちゃんは、白くなりました
久しぶりにシャンプーしたのです
「タバちゃん、こんなに白かったんだねえ」、なんて言っている人もいます。
獅子くんは、まだこれからです。
極端に水を怖がります
養子にいっていた7年間に、あまりシャンプーの体験がないようです。
さてどうしよう
もしかしたら、ドライシャンプーでもいいかな?
水(お湯)への挑戦は、先延ばしにしようか
永禄10年(1569)に、由良成繁(ゆらなりしげ)が書いた文書に、
「奥沢と号する地に於いて、佐野周防守(さのすおうのかみ)と一戦を遂げ勝利を得し後」
という記述があります。
奥沢(桐生市新里町奥沢)は、しばしば戦いの舞台となったようです。
では、その戦いは奥沢のどこで行われたのか?
深沢の角地蔵も、戦国時代にたくさんの死者を出した所に建てられています。
石造物があるところか、堂宇がある所が、その可能性が高いのではないか?
正円寺の隠居寺・東昌寺の辺りも、候補地のひとつです
また、裸大日と大日如来立像も気になります。
この2件は何度か探しましたけど、見つかりません
今回(2018年9月7日)、地元の人をたよって、やっと「奥沢の裸大日」と「奥沢の大日如来立像」に参拝できました
まず、裸大日です。
国道353号線新里北小学校入り口の信号付近に、「裸大日入り口」の表示が目立たなくあります。
文字もうすくなってます
たぶん新里村時代に設置されたものでしょう。
北小の方に折れて、東を目指します。
ちょっと細道に入ります。
さて、これからが大変です
大日山の山頂にあるということなので、あるかなきかの道を登ります。
絶対に長ズボン長袖でなければいけません。
スニーカーで行きましたけど、長靴の方がいいかもしれません。
クマが出るとか、イノシシが出るとか、シカがでるとか、そんな話も聞きました。
何人かで行った方が良さそうです。
さほどの気温でなかったのですけど、汗だくになって、やっとたどり着きました。
桐生市の指定文化財にもなっているはずなのですけど、とてもそんな雰囲気ないですね
桐生市のHPによると、
奥沢の標高398.5mの大日山の山頂、ここにも大日信仰の跡がみられます。元和7年(1621)に堂宇が建てられましたが、火災によって焼けてしまいました。その後安政6年(1859)に再建されましたが、またもや火災によって焼けてしまいました。それ以来堂宇は建てられることなく現在に至ります。
2体あるのですね
左の像は、痛々しい状態です
首もなく本当にいたわしい状態ですけど、大日如来の印を結んでいるのがわかります
下に転がっているのは、もしかしたらこの大日如来のパーツかもしれません。
右の像は、無事だったようです
気のせいか、ちょっぴり寂しそうに見えます
ほぼ同じ大きさの大日如来像が、なぜ2体あるのでしょう?
どうして、左の像だけ破壊されているのでしょう?
2体の間に、文字を刻んだ石があります。
最初の文字はわかりません
左の異体字とも思うのですけど、わかりません
「?元和七歳建立、寛政寅歳焼失、同三月奉建立」とみえます。
「元和7年に建立し寛政6年に焼失した。寛政6年の3月にこの像を建立した。」と読み取れるのですけど
つまり、左の壊れた像は、元和7年の像で、右のは寛政6年の像ということかな?
安政6年なんて、何処にもないぞ
寛政6年は1794年で、甲寅(きのえとら)の寅歳です
安政6年は1859年で、己未(つちのとひつじ)です。
下になんとなく、「奥沢村」「世話人」の文字があるようです。
しつこく後ろに回ります。
何もかも受け止めてくれそうな、大きなやさしい背中です
やはり大日信仰で建立されたものかなあ
なんとなく戦いの供養ではないように感じました。
鎧・兜を着てここまで登ってくるのも大変そう
お隣の大間々町は、町誌編集の時に、基礎資料をきちんと作りました。
『大間々町誌「基礎資料Ⅵ」大間々の社寺』には、それぞれの地区ごとに細かく社寺が調査されています。
小祠や堂、里修験も収録されています。
残念ながら『新里村史』編集の時には、基礎資料集などは作られず、いきなり書き始めているようです。
返す返すも残念な事です
大日信仰というと富士信仰になるのでしょうか
修験者が関係していたのでしょうか
和尚さんのお墓っぽい石造物も、転がっていました。
ここは、戦いのあった「奥沢と号する地」ではなさそうです。
さようなら
いつまでも衆生を暖かく見守ってくださいね
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