黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

日光裏街道総集編39(奥沢東昌寺の謎3・桐生塚の怪異)

2023-12-30 13:50:53 | 日光裏街道総集編

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内を西に出て、諏訪神社のあたりを歩いてきました。

今朝は浅間山も、雪は溶けているようです。

 

 

奥沢東昌寺は、黒保根村の正円寺の隠居寺でした。

明治の時代まで実際に隠居して住んだと言うことです。

途中にある角地蔵(みどり市)も、正円寺と深い関わりがあります。

上の卍が正円寺、96番が角地蔵だと思われます。

 

さて、今日(2020.04.16)は2018年9月24日に行った、深沢の角地蔵縁日の記事をリメイクする予定でした。

ところが、直に対面した角地蔵さんのお写真がないのです

パソコンにはもちろん、カメラに入れていたSDカードにもありません

この日の朝、6:16にひめちゃんが、ミニドッグランから大脱走する瞬間が撮影されています。

ひめちゃん、貪欲な食欲だけど、その後もスリムな体型を維持してます

今でも、飛び出す危険はあります

けれども、ひめちゃんは、居間のガラス戸を開けておくと、飛び込みます。

おうちの中が大好きなのです。

 

その後残っている画像の記録時間は、15:18、帰りがけに寄った円空仏の寺・禅桂寺です。

画像ナンバーからすると、11枚抜けています

yahooブログの記録では、直に拝んだ角地蔵とその周辺の風景がアップされています。(この記事は元々は、yahooブログの記事です。)

そんなバナナ

まさか、桐生塚(千人塚)の怪奇現象

正円寺28世さんが、成仏できない桐生家の家臣達の鬼火を見て、鎮魂のために建立したという角地蔵です。

角地蔵は、ネット上に生のお姿をさらしたくないのかもしれません

 

そんなわけで、角地蔵縁日の話は、画像なしです

でも、2018年9月1日と2020年1月13日に行ってますので、縁日の話の後に角地蔵(堂)の画像アップします

 

 

(2018年)9月24日は、深沢の角地蔵の縁日です。

深沢城城趾にある、正円寺の和尚さんもみえるということでした。

到着が午後になってしまったので、残念ながら和尚さんはおかえりになった後でした

でも、元気なおばさん達が出迎えてくれました

「こんにちは

「靴を脱いでどうぞ

「失礼します。」

本体に直接対面です

下半身も大きいです

体に比べてお顔が小さいです

やはり顔のサイズを間違えて、石工(いしく)が逃げたのだと思われます

 

子どもがほしい時は、お米を包んであげるのだろそうです

授かった話も聞かせてもらいました

もう子どもがほしい歳でもないけど、まあ、とにかく合掌

 

近所のおばさん達が、手作りのお惣菜を持ってきて、お茶を入れてくれています

なつかしい日本のお惣菜です

そのなかに、どうしてもなんだかわからないおいしい佃煮がありました

「おいしいです

「なんだかわかるかい?」

「いいえ、わかりません

「ゴーヤだよ。」

「え、全然苦みないですよおいしいです

あるおばさんが、「レシピ教わっておいた方がいいよ。」と、言ってくれました

 

貴重なレシピを教えてもらいました

 

材料 ゴーヤ1kg、 沖縄黒糖300g、 醤油150g、 削り節30g、 

           酢100cc、 じゃこ少々

作り方 ① ゴーヤは縦半分に切り、種を取り、1mmくらいの薄切りにする。

    ② ①を煮え立った湯に入れてゆがく。かなりしっかり火を通す。

    ③ ②が冷めたら、しっかりしぼり、レシピの煮汁で煮る。

ありがとうございます

作ってみます

 

それからもう一度角地蔵にご挨拶して、外の石仏のみなさんにもご挨拶して帰りました。

 

 

9月1日の、ガラス越の角地蔵です。

 

2020年の1月13日に訪問したときの画像です

向かって右の不動明王と、左の赤いおがけの奪衣婆(だつえば)が目立ちます。

あれ、説明板が曲がってる

ロウバイの花の芽が膨らんでいました

さて、石仏の皆様にご挨拶です。

 

後ろの森の向こうは、深沢城でしょうか?

この不動明王は、なんとなく角地蔵に似ています

地獄で衣を脱がせて生前の罪を測るという奪衣婆、なぜここにあるのでしょう?

奪衣婆の脇を道なりにいくと、銅山街道の深沢宿です。

一般的には、国道122号線が、足尾の銅を運んだ銅山街道といわれます。

本当の銅山街道は、もっと山の中を通っていたのです

 

 

 

 

初出   2020.04.16   カテゴリー 旧勢多郡とその周辺  桐生塚の怪異(角地蔵とゴーヤ)

改稿   2023.12.30

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日光裏街道総集編38(奥沢東昌寺の謎2・角地蔵と正円寺)

2023-12-25 19:32:35 | 日光裏街道総集編

寒い寒い朝でした

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、天神田を歩いてきました

どの田んぼにも、真っ白な霜が降りていました。

 

この元記事のころ、2020年の4月、獅子丸には実家に帰ってから、初めての春でした

きょうだいのひめちゃんやタバサねーちゃんと、楽しくお散歩していました

時には、七海ママのそこらまでのちい散歩にも付き合いました。

7年間養子に行っていても、獅子丸は、ママを忘れていなかった

ママも、我が子を忘れていなかった

犬は人間が考える以上に、しっかりした記憶と感情を持っています

 

 

 

日光裏街道は、やがて足尾からの銅山街道に合流します。

銅山街道は、国道122号線と言われますけど、本来の銅山街道はもう少し西の山中を通っていたとか。

奥沢の東の方を通っていたそうです

この記事は、本来は番外編になりそうですけど、「奥沢・東昌寺の謎」と言うことで、日光裏街道総集編にも含めます

 

(2018年9月1日)

東昌寺の本寺・正円寺をめざして、国道122号線を北上します。

途中、深沢の角地蔵に寄りました。

国道に表示はなかったと思いますが、曲がるところを間違えなければ、道なりに着きます。

説明板もあります。

そうなんですか

高山彦九郎も来ていたんですね

 

お堂は閉まっていて、角地蔵は拝めません。

ガラス戸越に、カメラで捕らえたお姿です。

確かに顔が四角です

残念ですけど、ガラス越の参拝だけで、正円寺に向かいます。

 

 

ここは深沢城の一角だったということです。

 

和尚さんによると、東昌寺は正円寺の隠居寺だったとのことです

昔、銅山街道はもっと山の中を通っていて、奥沢の近くを通っていたんだそうです

奥沢は行き交う人々で賑わっていたのだそうです

明治の初めまで東昌寺に隠居して、実際に住んでいたそうです。

近年は無住で荒れ果てていたのを、5年前にこちらの和尚さんが手をいれたのだそうです。

 

東昌寺のご本尊は子安観音で、源義家が奥州征伐に行くとき、戦勝祈願して置いて行ったという伝承があるそうです

60年に1度、ご開帳しているそうです。

次回のご開帳は、当分先になりそうです。

 

 

境内を少し散策です。

珍しい青面金剛です

 

深沢城というと、やはり黒川衆の阿久沢氏です。

阿久沢氏累代の墓があります

説明板が古すぎるのが残念です

ここは、黒保根、桐生市黒保根町です。

桐生市には、合併した村々の史跡も大事にしてほしいものです

 

 

深沢城趾の方にまわります。

説明板の劣化がすごい

 

ここらへんから、桐生家の成仏できない戦死者の鬼火が見えたのでしょうか?

それで、正円寺28世の盈仙(えいせん)和尚が、角地蔵を建立することになったと聞きました。

角地蔵は、体に比べて顔が小さいように思えました。

角地蔵のあるところは現在みどり市で、説明板も新しくきれいになってました

正円寺の和尚さんも、「顔のサイズを間違えたのでは」との説です。

 

 

9月24日は角地蔵の縁日だそうです。

また、24日に伺います

 

 

追伸

9月24日、角地蔵の縁日に行きました

おいしいゴーヤの佃煮のレシピも教わりました。

次回「角地蔵とゴーヤの佃煮」です

 

(つづく)

 

 

 

初出  2020.04.15 角地蔵と正円寺(奥沢・東昌寺の謎2)カテゴリー旧勢多郡とその周辺・総集編

改稿  2023.12.25

 

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日光裏街道総集編37(愛しの青面金剛・奥沢東昌寺の謎)

2023-12-21 19:53:49 | 日光裏街道総集編

風の冷たい1日でした

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、赤城南面・国道353線沿いの大胡グリーンフラワー牧場へ行ってきました。

久しぶりのお出かけ、楽しんで来ました

(記事は、「続ひめ」にて

 

この元記事の頃、2020年の4月、まだあちこちにアブラナがありました

アブラナ大好きの獅子丸は、自分でちぎってくわえて食べました。

お散歩の途中でも、気になると、口でちぎってムシャムシャです。

獅子くんは、本当にアブラナが好きでした

 

ひめちゃんは、獅子くんに、ゆでたアブラナだけでなく、生のアブラナも食べられることを教わりました

獅子くんの影響かな

ひめちゃんは、草をよく食べます

 

 

 

新里の北部、国道353号線の奥に梨木温泉があります。

温泉の脇には深沢川が流れ、その下流には正円寺・深沢城(旧黒保根村)があります。

(桐生市新里町)奥沢の東昌寺が、その正円寺の末寺であるという情報を得ました

 

右下の卍の所が、東昌寺です。

 

ここには、記憶に残る青面金剛があります

廃寺ではないかと勘違いする人もいるほど、奥まったひっそりした寺です。

(2018年9月1日)、久しぶりに訪れてみました。

車がやっと通れるくらいの細い参道です。

今日は、またお邪魔します

 

誰が見ても一目でわかう、りっぱな青面金剛があります

月と日があり、手には武器を持ち、力強く邪鬼を踏みつけています。

そうすると、一番下で支えているのは、邪鬼ではありません。

ヒイキでしょか?

龍の出来損ないの息子ヒイキが踏みつけられている仏像を見たことがあります。

朱が残っています。

 

その隣も単なるお地蔵様ではなく、もしかしたら地蔵型の庚申塔かもしれません。

残念ながら、「庚申」の文字は発見できませんでした。

 

堂宇は、この階段を登らなければなりません

階段脇には、イノシシ捕獲の罠を仕掛けた檻がありました。

 

堂宇は新しいです。

 

堂宇の脇にも、りっぱな庚申塔です。

側面は、蓮の花かな?

 

奥に和尚さん達のお墓があります。

確認できた一番古い年号は、元禄です。

確認できた一番新しい年号は、明治です。

 

明治の時にまとめられた『上野国寺院明細帳』に、信徒5名とあったような気がします。

どうしてこの寺が今日まで維持されているのか、とても知りたくなりました

 

獅子丸家(獅子丸が養子に行っていた家)が運営していた長安寺は、もう少し信徒があったと思います。

実家の一族が大本家を中心に営んでいた成就院は、20数名の信徒がありましたけど、大正時代に世良田の普門寺に合併しています。

 

東昌の本寺、黒保根の深沢城趾にある正円寺に向かいます

 

(つづく)

 

 

初出  2020.04.21  カテゴリー 旧勢多郡とその周辺・総集編 愛しの青面金剛(奥沢・東昌寺の謎)

改稿  2023.12.21

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日光裏街道総集編36(奥沢と号する地の木造大日如来坐像)

2023-12-17 19:06:21 | 日光裏街道総集編

風の冷たい朝でした。

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内の西の方を歩いてきました。

タバサねーちゃん、帰道はとても速く歩きます

15歳半、緑内障ですけど、まだまだ元気に歩けます

 

この元記事の頃、2020年の4月、ひめちゃんと獅子丸です。

雨の日も、貧乏カッパでお散歩で、元気にお散歩してました

菜の花の咲く、葉桜の川縁も楽しくお散歩しました

獅子丸、実家に帰って、初めての春です。

 

 

 

日光裏街道周辺の文化財等、87番が奥沢の石造大日如来坐像、88番が奥沢の木造大日如来坐像です。

88番の右下の神社は奥沢神社、その右(東)の寺は東昌寺です。

 

由良成繁(ゆらなりしげ)は、「奥沢」と言わずに、「奥沢と号する地」といいました。

号するとは、「自ら言い広める。表向きにもっともらしく言う。」という意味です。

そうすると、ここ奥沢は地名がなくて、この戦いのころに由良成繁が名付けた事になります

由良成繁が、「奥沢と号する地」と言った場所はどこか?

 

候補の一つとして、奥沢の大日如来立像のあたりも考えられます

付近をウロウロしましたけど、見つかりません

 

先日(2018年9月7日)知人の案内で、やっとたどり着きました

脇道に入り、更に折れて、やっとたどり着きました

登るというほどではないけれど、ちょっと高台になります。

この時期は、あちこちが超・浅茅生の宿(あさじゅうのやど)状態なのに、付近はきれいになってました

落ち葉ではないけれど、「落ち葉踏み分け」という感じで歩きました

 

石造物もあります。

 

桐生市のHPによると、

作られた年代は定かではありませんが、室町時代(1338~1575)に奥沢の人々により勢戸林に社寺を建てたといわれることから、その頃のものと考えられます。その後、明治初期の神仏分離の時に、天台宗東昌寺へ大日如来を移しました。しかし、明治20年に奥沢の集落に大火があり、大半が焼けてしまったと伝えられます。その原因は、大日如来をよそへ写したための災難であろうということになり、再び元の地へ安置した、といわれています。

 

永禄10年(1567)に、由良成繁は「奥沢と号する地」といいました

たぶん、この時が、奥沢という地名が文書に初出です

神仏分離の時に大日如来を東昌寺に移したということは、ここは神社ですか

 

鍵を開けてもらいます

思ったより小さいです

これくらいならば、厨子ごと、東昌寺に運べます。

かなり古いもののようです。

脇に小さな板碑のようなものがあります。

 

ここは、現在5軒の人々によって、維持されているそうです。

冬のある日が祭日で、お赤飯をあげるのだそうです。

 

大日如来ではなく、阿弥陀様ではないかという説もあるそうです。

どの印を結んでいるかちょっとわかりません。

 

ここはさほどの高地でもなく、川沿いに人家があります。

戦国時代、戦いの犠牲者を供養するために建てられた可能性も十分考えられます

今維持している5軒は、それぞれ別のお寺の檀家になっているそうです。

普段は閉まっています。

わざわざ鍵を借りてきて開けていただききました。

ありがとうございます

 

この付近は奥沢と号する地で、戦いが行われた可能性がおおいにあります

 

初出  2020.04.18  奥沢の木造大日如来坐像  カテゴリー 旧勢多郡とその周辺・総集編

改稿  2023.12.17 

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日光裏街道総集編35(奥沢と号する地の裸大日)

2023-12-13 20:59:41 | 日光裏街道総集編

今日で、獅子丸が突然の事故で逝ってから丸2年たちました

獅子丸のお部屋(サークル)はそのままです。

最近、ぬいぐるみの獅子くんを迎えました

まるで生きてるような 存在感です

 

本日はこの記事の初出頃、2020年4月頃の獅子丸アーカイブです

ひめちゃんとタバサねーちゃんと、きょうだい仲良くお散歩出来たね

時には、七海ママのそこらまでのちい散歩にも、つきあいました

時には、こんな不満顔も

満面の笑みの獅子くんです

獅子くんには、笑顔が一番似合うよ

また逢おうね

 

 

 

79龍興寺の北東山中に、87奥沢の石造大日如来坐像と88木造大日如来坐像があります。

 

永禄10年(1569)に、由良成繁(ゆらなりしげ)が書いた文書に、

「奥沢と号する地に於いて、佐野周防守(さのすおうのかみ)と一戦を遂げ勝利を得し後」という記述があります。

奥沢(桐生市新里町奥沢)は、しばしば戦いの舞台となったようです。

では、その戦いは奥沢のどこで行われたのか?

 

深沢の角地蔵も、戦国時代にたくさんの死者を出した所に建てられています。

石造物があるところか、堂宇がある所が、その可能性が高いのではないか?

 

正円寺の隠居寺・東昌寺の辺りも、候補地のひとつです

また、裸大日と大日如来立像も気になります

この2件は何度か探しましたけど、見つかりません

今回(2018年9月7日)、地元の人をたよって、やっと「奥沢の裸大日」と「奥沢の大日如来立像」に参拝できました

 

 

まず、裸大日です。

国道353号線新里北小学校入り口の信号付近に、「裸大日入り口」の表示が目立たなくあります。

文字もうすくなってます

たぶん新里村時代に設置されたものでしょう。

北小の方に折れて、東を目指します。

ちょっと細道に入ります。

さて、これからが大変です

大日山の山頂にあるということなので、あるかなきかの道を登ります。

絶対に、長ズボン長袖でなければいけません。

スニーカーで行きましたけど、長靴の方がいいかもしれません。

クマが出るとか、イノシシが出るとか、シカがでるとか、そんな話も聞きました。

何人かで行った方が良さそうです。

 

さほどの気温でなかったのですけど、汗だくになって、やっとたどり着きました

桐生市の指定文化財にもなっているはずなのですけど、とてもそんな雰囲気ないですね

桐生市のHPによると、

奥沢の標高398.5mの大日山の山頂、ここにも大日信仰の跡がみられます。元和7年(1621)に堂宇が建てられましたが、火災によって焼けてしまいました。その後安政6年(1859)に再建されましたが、またもや火災によって焼けてしまいました。それ以来堂宇は建てられることなく現在に至ります。

 

2体あるのですね

 

左の像は、痛々しい状態です

首もなく本当にいたわしい状態ですけど、大日如来の印を結んでいるのがわかります。

下に転がっているのは、もしかしたらこの大日如来のパーツかもしれません。

右の像は、無事だったようです

気のせいか、ちょっぴり寂しそうに見えます

 

ほぼ同じ大きさの大日如来像が、なぜ2体あるのでしょう?

どうして、左の像だけ破壊されているのでしょう?

 

2体の間に、文字を刻んだ石があります。

最初の文字はわかりません

左の異体字とも思うのですけど、わかりません

「?元和七歳建立、寛政寅歳焼失、同三月奉建立」とみえます。

「元和7年に建立し寛政6年に焼失した。寛政6年の3月にこの像を建立した。」と読み取れるのですけど

つまり、左の壊れた像は、元和7年の像で、右のは寛政6年の像ということかな?

安政6年なんて、何処にもないぞ

寛政6年は1794年で、甲寅(きのえとら)の寅歳です

安政6年は1859年で、己未(つちのとひつじ)です。

 

下になんとなく、「奥沢村」「世話人」の文字があるようです。

 

しつこく後ろに回ります。

     

 

何もかも受け止めてくれそうな、大きなやさしい背中です

 

やはり大日信仰で建立されたものかなあ

なんとなく、戦いの供養ではないように感じました

鎧・兜を着、てここまで登ってくるのも大変そう

 

お隣の大間々町は、町誌編集の時に、基礎資料をきちんと作りました。

『大間々町誌「基礎資料Ⅵ」大間々の社寺』には、それぞれの地区ごとに細かく社寺が調査されています。

小祠や堂、里修験も収録されています。

残念ながら『新里村史』編集の時には、基礎資料集などは作られず、いきなり書き始めているようです。

返す返すも残念な事です

 

大日信仰というと、富士信仰になるのでしょうか

修験者が関係していたのでしょうか

 

和尚さんのお墓っぽい石造物も、転がっていました。

ここは、戦いのあった「奥沢と号する地」ではなさそうです。

 

さようなら

いつまでも衆生を暖かく見守ってくださいね

 

 

 

初出  2020.04.17  奥沢と号する地の裸大日  カテゴリー 旧勢多郡とその周辺・総集編 

改稿  2023.12.13

 

旧勢多郡とその周辺総集編の記事は、yahoo ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅡ」にありました。

yahoo ブログにあった旧勢多郡とその周辺の記事は、カテゴリー・旧勢多郡とその周辺・総集編にあります

 

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