黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

上野国山上窪井(こうずけのくにやまがみくぼい)探訪

2022-11-17 21:43:34 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、久しぶりに山上の薬師の道を歩いてきました。

近くのナス畑では、外国人のおじさん・おばさんが、ナス畑の片付けを始めていました。

冬が近づいています。

 

ひめちゃんちの先住犬たちのお墓に、パンジーやビオラが植わりました。

あとはチューリップの球根でも埋めましょう。

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった『念仏往生伝』関係の記事を集めて編集中です。

この窪井探訪の元記事は、FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」にあります。

ちょっと遠いカテゴリーですけど、ご容赦下さいませ。

 


『念仏往生伝』の編者といわれる行仙上人は、上野国山上の窪井に住んでいたと言われます。
そして、「南勢多郡の廃寺」(群馬県勢多中部仏教会)によると、

万福寺(浄土宗)
新川字新宮に存在したといわれるが現在寺院の痕跡はみられない。この地域は古くは山上保といい、現在の山上・武井・新川の一部などを含む広大な地域であった。窪井(久保井)本坊を本居とする念仏僧行仙がおり、窪井本坊は善昌寺の南雷電山にあったとの伝承があり、この窪井本坊が万福寺であったと推定される。行仙は静道の弟子で赤城南麓をフィールドに活動し、世良田長楽寺2世朗誉に大きな影響を受けた。雷電山には二基の傘塔婆があり阿弥陀三尊像が半肉彫り、もうひとつの笠塔婆は阿弥陀三尊の文字が彫られている。笠塔婆は鎌倉時代のものと推定され行仙が活動した13世紀と重複する時期である。


(2020年)12月の末に、雷電山(桐生市新里町新川)の雷電神社に行ってきました。

雷電山のすぐ東に、新宮住民センターがあります。

今回は、ここに駐車して上ります。



雷電山の笠塔婆の脇をのぼります。



サクサク、クヌギの落ち葉踏み分け上ります。




約5分で、鳥居が見えてきました。



「着いたよ」、タバサねーちゃんも上機嫌です。



鳥居をくぐって、探訪です。


ちょっとお疲れの拝殿です。

2礼2拍1礼です



でも、本殿はしっかりした覆屋の中にあります。



さほど広い境内ではありませんけれど、僧房はいくつか建ちそうです

 


下りもサクサク、クヌギの落ち葉踏み分け、5分ほどで地上に戻りました



里人が行仙上人の往生を聞いて駆けつけることも十分可能です


まあ、里というか集落は現在と同じに、北側に広がっていた可能性が高いように思われます。


今でもそうですけど、南側には田畑が広がっています。
中世寺院には、必ず経済的基盤となる寺領が付随していたといいます。
たぶん南側の田畑がそういうことになりそうです。

ここは、窪井の本坊かもしれません




山の東側にある笠塔婆も確認です。




あれ、阿弥陀三尊にお顔がない
今回初めて気づきました。
しっかりと意図的に削り取られています
たぶん明治の廃仏毀釈の時に削り取られたのでしょう
その頃までは、行仙上人の記憶も、もっとあったかもしれませんね。



新宮住民センターに廻りには、墓地がいくつかあります。



浄土宗・万福寺の記憶でしょうか?
そして、行仙上人の記憶かもしれません

 

 

 

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「ぜんしょう」つながりで善昌寺

2022-11-12 15:56:32 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、車で常広寺にお出かけです。

おかあさんが、郷右衛門さん&六地蔵さんとお墓のお花を取り替えるのを待ちます。

少し緊張したけど、良い子で待てました。

庫裏にも挨拶していきましょう。

よそのウチの玄関、緊張します

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

新光太平山妙珠院善昌寺は、現在は桐生市新里町新川にあります。

 

長楽寺文書の中に、「沙彌道羸寄進状案(しゃみどうるいきしんじょうあん)」があります。

「沙彌道羸寄進状案(しゃみどうるいきしんじょうあん)」に上野国山上保窪井村とあります。

中世、善昌寺は山上にあったのです。

そして少し時代は遡りますけど、あの『念仏往生伝』の著者・行仙上人が住んでいた、窪井の本坊も近くだと思われます。

上野国山上保窪井村の善昌寺に、『念仏往生伝』の記憶を訪ねて、タバサちゃんと久しぶりに行ってみよう

 

(2021年3月の訪問です。)

あれ、門柱の付近が華やかになっています

 

階段下に駐車です。

タバサねーちゃんも、階段を登ります

階段脇に、お地蔵様と六地蔵幢です。

あったっけ?

反対側にも、六地蔵幢です。

あったっけ?

後ろの方が気になります。

赤ちゃんを抱いているような感じを受けます

 

早くいこうよ

真っ赤な山門があります

こんなに真っ赤な山門だったっけ?

タバちゃんは、軽くジャンプして通過です

「新田義貞公墓、新田義宗公墓」ですって

新田郡出身の、ひめちゃんちのおかあさんには、どうして新田義貞の墓がここにあるのか、全く理解できません

でも、新里のお年寄りは、「新田義貞は善昌寺にいかってるんだ(埋葬されているんだ)。」と普通に言います

息子の義宗の墓もあるんですか

知りませんでした

 

まずは、本堂で参拝です。

合掌

 

脇に古い石造物が積まれています。

りっぱな墓石や僧形の墓石も無造作に積まれています。

でも、赤い帽子やオガケで、みなさん少し元気になったみたい

中央の大きな方はどなたでしょう?

蓮華座の上に座って、往生印を結んでます。

合掌

 

さあ、奥の新田義貞の首塚へ行きましょう。

タバサねーちゃんは、階段を一段一段踏みしめて登ります。

 

覆い屋の下が、新田義貞の首塚です。

おや、左に大きな碑があります。

あったっけ?

ちょっと読みにくい

 

なんとか読み取ってみましょう。

・大同元年に伝教大師の天台宗伝道教団がやって来た時に開山

・新田義貞公とも縁が深い・・・内室の父は舟田善昌

・義貞は、鎌倉攻めの時に武運長久を祈って、阿閼井皇水を汲んで軍神を祀った

・新田義貞が討ち死にした後、舟田善昌は、京都に人を派遣し勾当の内侍の侍女を使って首を手に入れ、善昌寺に埋葬する

・その他家臣団の墓も建立した

よく見えませんけど、こんな所かな?

そうだったんですか

知りませんでした

 

あれ、そばにある新里村指定重要文化財のポールは、「善昌寺の五輪塔群」です

「新田義貞の首塚」ではありません

五輪塔群の覆い屋の脇に、ひっそりと「阿閼井皇水」とあります。

新田義貞は、ここの水を軍神に捧げたのですか

知りませんでした

 

こんにちは

中央の一番大きいのが、新田義貞の墓ということでしょう。

合掌

一応完全な形は、これ1基だけかな?

 

みなさん、かなり古いですね

なんとなく鎌倉時代の雰囲気です

タバちゃんと、大きさくらべです。

タバちゃんは、標準的な柴犬の大きさだと思います。

 

新田義宗の墓はわかりません

 

でも、この付近なんとなく鎌倉時代に書かれた唯一の往生伝、『念仏往生伝』時代の雰囲気です

 

更に奥の墓地や石宮群も歩いてきました

お出掛け、楽しいです

階段を前向きに降りて帰ります。

タバサねーちゃん、この夏お誕生日がきたら、13歳になります。

(タバサねーちゃんは、今年の7月に14歳になりました。)

タバサねーちゃん、まだまだ若いもんに負けません

 

 

善昌寺の由来が舟田善昌の善昌でないとすると、善昌ってだれだ?

 

『念仏往生伝』には禅勝上人(ぜんしょうしょうにん)の往生伝があり、浄土宗関係の書籍にも禅勝上人はよく出てくるようです。

行仙上人は、禅勝の弟子という説もあるようです。

 

『念仏往生伝』第45話は、遠江国禅勝房です。

欠落部分があり、次に法然の法語があり、最期に禅勝坊の往生譚です。

彼禅勝房自云。念仏往生之信心決定同。我身可死。更無一念疑殆之心云々。其後齢八十五。正嘉二年〈戌午〉十月四日入滅。兼五六日。夢奉見源上人。同三日戌時語人云。蓮花雨下。人々見之哉云々。又云。只今有迎講之儀式。正臨終云。観音勢至已来迎云々。即至寅初起居。合掌念仏三反。即気止了。従高野山。上野国山上。下向上人二人。一人名専阿弥陀仏。一人名誓阿弥陀仏。親拝見彼往生。而来語之。

漢字を眺めての大意です

そして、禅勝坊はこ法話が自分の念仏往生の信心を決定したのと同じだと云います。
「法然上人に帰依して念仏往生をひたすら目指して疑うことなく修行しました。」と。
その後85歳で、正嘉2年(1258)〈戌午つちのえうま〉10月4日に、入滅しました。
彼は入滅の前5、6日に源上人(法然上人)の夢を見ました。
10月3日の午後8時頃、語りました。
蓮の花がいっぱい雨のように咲いています。
人々がこれを見ています。
ただいまお迎えの儀式です。
観音様や勢至菩薩が来迎しています。
そして、午前3時頃起き上がり念仏を3回唱えて、息絶えました。



高野山から、二人の上人が上野国山上(こうずけのくにやまがみ)にやって来て、彼らが実際に見た禅勝房の往生について語ったのです。
高野山からやって来た上人とは、高野聖(こうやひじり)のことでしょう。

高野聖とは、ウィキペディアによると、
高野聖は、中世に高野山を本拠とした遊行者。日本の中世において、高野山から諸地方に出向き、勧進と呼ばれる募金活動のため、勧化、唱導、納骨などを行った僧侶。ただしその教義は真言宗より浄土宗に近く、念仏を中心としたものだった。


上野国山上に、高野聖がやってくる場所があったのです。
それは、行仙坊の近くにあったのでしょう。

もしかしたら善昌寺あたり?

もしかしたら山上に広く念仏信仰が展開していたのかも知れません。
行仙上人は、その中心にいたのです


 

禅勝と善昌、「ぜんしょう」つながりです

山上に広く念仏信仰が展開してなかで、この高野聖が下ってきていたところが、行仙上人と深い係わりのあった禅勝坊にちなんで禅勝寺、のちに善昌寺となったかも

 

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小松国頼の記憶を求めて(羽生領総鎮守・小松神社)

2022-11-07 20:16:20 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、久しぶりに堀之内を北に出ます。

ひめちゃんが20年来の北に出る道で2回怪我をしてから、遠回りで北に出てます。

サルビアの咲く道を通ります。

サルビアって、案外花期が長いんだ

 

お久しぶりの岩神沼です。

誰もないと思ったら、奥の芦原の辺りにカモさんの姿があります

ひめちゃんは、ちょっと険しい顔をしています

いいお天気になりそうだし、タバちゃんお出かけで、アタチは置いてけ堀になりそう

今日は、ひめちゃんも一緒にお出かけしよう

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、赤堀(伊勢崎市赤堀町)の小菊の里に行ってきました

ひめちゃん、小菊の里にお出かけできました

 

 

 

あちこちのカテゴリーに散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

鎌倉時代に上野国山上(こうずけのくにやまがみ)にいた行仙上人(ぎょうせんしょうにん)の著「念仏往生伝」に、小松新左衛門尉国頼(こまつしんさえもんのじょうくにより)の往生譚があります。

日本思想体系『往生伝法華験記』(岩波書店)の中の「念仏往生伝」第48話の最初には、小松[見セ消チ、「柴」と傍書]とあります。

そして彼の往生の様子は、かなり詳しく書かれています。

行仙上人との交流もあったと思われます。

したがって、名前を間違えるはずがありません。

けれども、何かの事情があって、小松では都合が悪くなった。

つまり、本来は小松新左衛門尉国頼が、「念仏往生伝」第48話の主人公です

そして彼の往生の後、

又没後七日々々夜間。必有音楽。就中行仙当四七日之忌辰。於窪井本房聞之。凡隔本拠十四五里。是仏不思議力歟。

(また、亡くなってから49日までに、七日七日の夜間に必ず音楽が聞こえました。
私・行仙は、4度目の命日の七日(28日目)に、窪井の私の房(部屋)でそれを聞きました。
14、5里の距離がありますけど、これは仏の不思議な力に因るのでしょうか。

 

山上から14、5里(50~60km)くらいの所に、小松新左衛門尉国頼はいたはずです。

小松が名字の地だとすると、何処だろう?

最近、羽生市小松の小松神社が、山上から14、5里(50~60km)くらいにあることを知りました。

 

小松新左衛門尉国頼の記憶を訪ねて、羽生市小松の小松神社あたりにいってみよう

グーグルで検索すると、国道17号線(上武道路)経由が1時間ちょっとです。

では、そのルートで行こう。

 

(2021年)3月16日、羽生の小松神社を目指します。

ところが、車のナビは2時間強の到着時間を出します

変だなと思いつつ、県境の新上武大橋にいたると、大渋滞です

新上武大橋を渡るのに1時間、こんなことは初めてです

 

 

その後は、わかりやすい道だったので、難なく到着です

真っ赤な鳥居、元気になります

羽生領総鎮守なのですね

 

 

鳥居の横にお堀があります。

その先にお堂があります。

 

弁財天、弁天様です。

 

すごい

花や生き物が生きてます

 

 

鳥居前に戻ります。

文化財の説明板です。

神仏習合時代の仏像もあるんですね

 

アマビエですね

 

 

鳥居をくぐって、太鼓橋を渡って、拝殿目指します。

左の方に、小さな墳丘があって、何様か祀られています。

後でお参りしまーす。

 

 

開け放たれた拝殿です

2礼2拍1礼で参拝です。

あれ、アゲハチョウの平家の紋所があります

由緒書きもあります。

日本武尊が東征途中、ここに祠を建ててイザナギ・イザナミを祀ったんですね

平貞盛・藤原秀郷も平将門討伐祈願したんですね

小松内府重盛(平重盛)が没した後、小松大明神として祀られたんですね

銀杏が目印として植えられたんですね

 

境内の案内図もあります。

「御朱印は社務所へ」とあります。

じゃあ、御朱印を頼んでおきましょう

社務所で御朱印を頼んで、散策を続けます。

 

それでは、小松大明神に参拝です

不思議なご縁で参拝しました

 

御神木の大銀杏、葉が金色に色づくころは見事でしょう

 

社殿の後ろを一回りします。

小さな石宮も大切に守られています

 

本殿も開け放たれているようです。

こちらには、イザナギ・イザナミの二柱ですね。

 

 

さっき、素通りしてしまった墳丘上の社に参拝です。

境内案内図だと、浅間神社です。

墳丘の下には、かわいい狐さんがいます。

不思議な稲荷様です

 

 

御朱印をいただきます。

やはり平家の紋所・アゲハチョウですね

ありがとうございます。

 

この辺りは、平家の荘園であったというお話を伺いました。

それで小松大明神をまつっているのですね

小松新左衛門尉国頼に、ご縁がありそうな空気です

山上から14、5里の、羽生領総鎮守小松神社に参拝できました

 

 

 

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上野国細井尼の面影を求めて・その2(天台宗光運寺)

2022-11-04 15:48:42 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

ひめちゃんとタバサねーちゃんは堀之内を西に出て、諏訪神社の向こうの、山上の元蓮田を歩いてきました。

さあ、今年の元蓮田を記録しておきましょう。

あれ、「カードがありません」ですって。

今年も、蓮は生き抜きました

稲穂は一部が刈り取られていますけど、大方は倒れてしまったままで放棄されている感じです。

蓮は葉が枯れてますけど、茎は立ってます。

 

 

本日は、ちょうど1年前、2021年11月4日の朝散歩アーカイブです

 

ひめ&獅子丸&タバサねーちゃんの3名で、東の牧場に行きました。

牧場には、まだヤギさん親子がいました。

3名はさらに東の黒毛和牛の放牧地にまで足を延ばしました。

みんな大満足の朝散歩でした

 

 

 

あちこちのカテゴリー散らばった、上野国山上の行仙上人著『念仏往生伝』関係の記事を、集めて編集中です

 

(2020)11月23日、細井神社からの帰り、「天台宗光運寺」の看板に誘われて、ちょっと寄ってみました。

道路脇に、大きな宝篋印塔があります。

 

御朱印もあるかな?

駐車場はなさそうです。

とりあえず、狭い境内になんとか駐車です。

 

こんにちは

帰依する人を護る守護神ですね。

どこかでお会いしたような気もしますけど

 

本堂ですね

一見普通の民家のようです。

 

狭い境内には、わずかの石造物です。

 

無住の感じですけど、池には丸々とした鯉がいっぱいです

落ち葉と似合う光景です

無住のようだけど、管理者がいるのでしょう。

 

本堂を振り返ります。

なんとも古風な五輪塔です。

もしかしたら、かなり古くからのパワースポットかも

看板を立て、草を刈り、池に鯉を放って、やる気を感じたお寺でした

 

上細井の信号を左折して帰ります。

西方には榛名山、そして浅間山も、ひめちゃんたちの住んでる山上よりズーッと迫って見えます。

 

細井の地を訪ねることができて、細井尼の生きた空間を少し感じられました

 

実は、『念仏往生伝』によると、彼女は若いウチに夫の元を辞し、兄の新平入道の下で念仏修行をしたと言います。

細井は、彼女の嫁ぎ先のようです。

何年かいたことは間違いないと思いますけど。

 

では、彼女が帰った実家はどこか?

1つの候補として、旧勢多郡粕川村田面(たなぼ)が考えられます

建武元年(1334)に書かれた「太田貞宗寄進状」にでてくる、新平入道の子孫かも知れない新平三入道が田面に住んでいたのです。

 

そうすると、細井尼の面影は、田面(たなぼ)の風景にもある可能性が大です

 

田面のコンビニ駐車場からの赤城山と榛名山です。

もしかしたら、山上保(やまがみほ)の田面(たなぼ)が、細井尼念仏往生の舞台だったかも知れません

 

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上野国細井尼の面影を求めて・その1(細井神社)

2022-10-31 15:21:08 | 念仏往生伝の記憶を訪ねて

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内を西に出ます。

突然、ひめちゃんは雑草が生い茂る脇道を行こうとします

黄色い帽子の小学生が、集団登校でやってきます

子供が苦手なひめちゃんには、早くから見えていたのでしょう。

 

少し行くと、草刈りしてある場所に出ました。

ひめちゃんたちは、難関を突破したので、ご褒美の催促です

今年は何故か、田んぼのあぜ道が雑草に覆われて、歩きにくいです

 

天神田(字天神の田んぼ)を歩いて、堀之内に戻ります。

ひめちゃんちの桂の木、黄葉が始まってます。

かなり遠くからも目立つ桂の木です

 

 

 

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『念仏往生伝』第47章は、同国細井尼の往生譚です。


彼所有新平入道者。是妹尼也。天性有道心。盛年之比。辞夫手依付兄入道。渡於世間。老後天下同多病死之人。此尼既受病及危急。挙二手欲受取物之体也。看病問故。答云。蓮花雨下。其体微妙。異人間花。仍所欲受取也云々。其後無言。受花之手。尚又如前。仍人々称往生人。文応元年<庚申> 夏比也。

 

同国は、第46章の上野国大胡小四郎秀村と同じ上野国です。

彼女は、上野国の細井に居た尼さんと思われます

彼女が往生した文応元年は、西暦1260年、日蓮が「立正安国論」を幕府に提出した年です。

 

地図を眺めると、大胡の向こう、上泉の向こうに、上細井と下細井があります

このあたりは、旧勢多郡南橘村(みなみたちばなむら)です。

上細井には、細井神社があります

 

(2020年11月)細井尼の面影を求めて、細井神社に行ってきました

 

大胡から県道3号線で西に行き、上泉町で右折、県道76号線をひたすら西に進みます。

上細井の信号を右折します。

ゴツゴツした榛名山が迫ってます。

 

少しいくと、細井神社⇒の表示です。

ほどなく到着です。

境内というか、隣の上細井公民館の前に駐車です。

ここは、かつては赤城神社で、明治の時に細井神社と改称したそうです。

 

鳥居から参拝です。

 

 

大きくみごとに口を開いた狛犬です。

ちょうど秋真っ盛りのころだったかな

 

こちらはしっかり口を閉じています。

両方ともかなりの獅子鼻かな

 

2礼2拍1礼で参拝です

 

おや、賽銭箱に何か張ってあります。

御朱印です。

「御朱印は、広瀬町の飯玉神社で」とあります。

機会があったら、そのうちに伺いましょう。

でも、「書き置きで置いて賽銭箱に初穂料を入れる」ほうがありがたいなあ

 

 

社殿の周りを歩いて見ましょう。

 

クラシックな灯籠です。

 

境内社がいくつもあります。

御神木?

どれだろう?

切り倒されちゃったのかな?

 

本殿です

覆屋もこのくらいだといいですね

あんまり厳重に覆われてしまうと、神様も息苦しいことでしょう。

そんなに古くないかな?

 

 

神輿が収納されています。

 

 

隣の上細井公民館にも御朱印が張ってあります。

上細井の細井神社を参拝して、ちょっとだけ細井尼と同じ空気を吸えたかな

 

 

(つづく)

 

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