獅子丸はハーネスを使い始めました。
ブラッシングの途中で、スッポとぬけてしまって、ミニ逃避行を体験しました
黒柴初代の三四郎&サマンサのお散歩の時に、あまりにもスポスポ首輪が抜けるので、ハーネスを使い始めたのです。
嫌がるふうもなく、ごく自然に付けています
この前と同じに諏訪神社の鳥居の脇です。
ひめちゃんは、紫陽花から離れてしまって、紫陽花犬の写真は撮れませんでした。
先日(平成31年1月26日)、将門のふるさと坂東市に行ってきました。
『坂東市本将門記』や将門関係の図録を購入してきました。
とりあえず、『坂東市本将門記』の新皇宣言(新皇即位)を確認です。
新皇即位
時に一昌伎(カンナギ)有り。云へらく、八幡大菩薩の使いぞと憤(クチバシ)る。朕が位を蔭子(オンシ)平将門に授け奉る。其位記に左大臣の正二位管(菅)原朝臣の霊魂表すらく右八幡大菩薩八幡の軍を起して 朕が位を授け奉るらむ。今須く卅二相の音楽を以て早く之を迎え奉るげしと、爰に将門頂に掲げて再拝す。況んや四の陣を挙げて立ちて喜ぶ。数千併ら伏し拝む。又武蔵守并に常陸掾藤原玄茂等其の時の宰人(サイジン)と為(し)て、喜悦すること譬へば貧人の富を得たるが若し、美咲ること宛ら蓮花の咲き敷くが如し。斯に自ら製して諡号(イミナ)を奏す。将門を名付けて新皇と曰ふ。
将門は、下野の国府を襲った後、天慶2年(939)12月15日に上野に移りました。
旧暦の12月15日は、今年は1月20日です。
12月19日(今年は1月24日)に、上野国府を占領、国庁に入ります。
そこで、板東諸国の除目を行います。
時に一昌伎(カンナギ)有り、このとき一人の巫女が現れます。
そして、自分は八幡大菩薩の使いだといい、将門に朕の位を授けると言うのです。
八幡大菩薩が位を授けにやってくるのです。
将門は、うやうやしく頭上に両手を高く挙げて位記(位階を授ける際に与える文書)を受ける動作をしました。
みんな大喜びです。
数千人が伏し拝みました。
ここで、自分たちで作成して諡号を奏上、将門を名付けて新皇といった。
将門の新皇即位は、ちょうど今頃の季節だったのです
将門のふるさと訪問は1月26日でした
はたしてこの記述が本当か、気になるところです
『坂東市本将門記』の解説では、
この新皇叙任の一幕には、上野国府での実際の出来事か、『将門記』作者の創作か、興世王や玄茂らの演出説、宴会の余興説など、種々の見解がある。
かなりドラマチックで、盛り上がります
『将門記』に絶対必要な場面です。
上野の国府が舞台なのですね
上野の国府はまだその姿がはっきりしないということですけど、一応宮鍋神社のあたりに国府の政庁があったと言われているようです。
この後新皇は武蔵相模に至るまで巡回し、国印と鍵を奪い国司を追放し在庁官人に政務を行わせます。
本拠に戻り、すぐに常陸に出陣するも、敵の動静はつかめなかった。
幾日も敵の動静を耳にしなかったので、諸国の兵達をみな国に返してしまった。
農繁期が近づいていたのです。
そこに、平貞盛や藤原秀郷は、大軍を率いてやってくるのです。
そして、天慶3年(940)2月14日、国王神社のあたりで流れ矢に当たり波乱の生涯を閉じたといいます。
旧暦の2月14日は、今年は3月20日です。
藤原秀郷は多くの武士団の祖となります。
葛塚城にいた山上氏も、秀郷の子孫です。
葛塚城堀之内に住んでいる、ひめちゃんちの人間は山上氏とは関係ないので、秀郷の子孫ではないみたいです。
『将門記』を、駆け足で見てしまいました。
これから、じっくり読み返します
図録は暇を見付けてはくりかえし眺めてます
追記
今回久しぶりに、坂東市で手に入れた資料と再会しました。
今回もじっくりとはいきませんでしたけど、折りに触れて読み返したいと思います。
最初は、はて、史料はどこに行ったかなと心配しました。
かわいいマスコットキャラクター将門くんの袋にはいっていました
もう一度国王神社は訪れたいし、周りにいっぱいある史跡も訪れたいものです
ブラッシングの途中で、スッポとぬけてしまって、ミニ逃避行を体験しました
黒柴初代の三四郎&サマンサのお散歩の時に、あまりにもスポスポ首輪が抜けるので、ハーネスを使い始めたのです。
嫌がるふうもなく、ごく自然に付けています
この前と同じに諏訪神社の鳥居の脇です。
ひめちゃんは、紫陽花から離れてしまって、紫陽花犬の写真は撮れませんでした。
先日(平成31年1月26日)、将門のふるさと坂東市に行ってきました。
『坂東市本将門記』や将門関係の図録を購入してきました。
とりあえず、『坂東市本将門記』の新皇宣言(新皇即位)を確認です。
新皇即位
時に一昌伎(カンナギ)有り。云へらく、八幡大菩薩の使いぞと憤(クチバシ)る。朕が位を蔭子(オンシ)平将門に授け奉る。其位記に左大臣の正二位管(菅)原朝臣の霊魂表すらく右八幡大菩薩八幡の軍を起して 朕が位を授け奉るらむ。今須く卅二相の音楽を以て早く之を迎え奉るげしと、爰に将門頂に掲げて再拝す。況んや四の陣を挙げて立ちて喜ぶ。数千併ら伏し拝む。又武蔵守并に常陸掾藤原玄茂等其の時の宰人(サイジン)と為(し)て、喜悦すること譬へば貧人の富を得たるが若し、美咲ること宛ら蓮花の咲き敷くが如し。斯に自ら製して諡号(イミナ)を奏す。将門を名付けて新皇と曰ふ。
将門は、下野の国府を襲った後、天慶2年(939)12月15日に上野に移りました。
旧暦の12月15日は、今年は1月20日です。
12月19日(今年は1月24日)に、上野国府を占領、国庁に入ります。
そこで、板東諸国の除目を行います。
時に一昌伎(カンナギ)有り、このとき一人の巫女が現れます。
そして、自分は八幡大菩薩の使いだといい、将門に朕の位を授けると言うのです。
八幡大菩薩が位を授けにやってくるのです。
将門は、うやうやしく頭上に両手を高く挙げて位記(位階を授ける際に与える文書)を受ける動作をしました。
みんな大喜びです。
数千人が伏し拝みました。
ここで、自分たちで作成して諡号を奏上、将門を名付けて新皇といった。
将門の新皇即位は、ちょうど今頃の季節だったのです
将門のふるさと訪問は1月26日でした
はたしてこの記述が本当か、気になるところです
『坂東市本将門記』の解説では、
この新皇叙任の一幕には、上野国府での実際の出来事か、『将門記』作者の創作か、興世王や玄茂らの演出説、宴会の余興説など、種々の見解がある。
かなりドラマチックで、盛り上がります
『将門記』に絶対必要な場面です。
上野の国府が舞台なのですね
上野の国府はまだその姿がはっきりしないということですけど、一応宮鍋神社のあたりに国府の政庁があったと言われているようです。
この後新皇は武蔵相模に至るまで巡回し、国印と鍵を奪い国司を追放し在庁官人に政務を行わせます。
本拠に戻り、すぐに常陸に出陣するも、敵の動静はつかめなかった。
幾日も敵の動静を耳にしなかったので、諸国の兵達をみな国に返してしまった。
農繁期が近づいていたのです。
そこに、平貞盛や藤原秀郷は、大軍を率いてやってくるのです。
そして、天慶3年(940)2月14日、国王神社のあたりで流れ矢に当たり波乱の生涯を閉じたといいます。
旧暦の2月14日は、今年は3月20日です。
藤原秀郷は多くの武士団の祖となります。
葛塚城にいた山上氏も、秀郷の子孫です。
葛塚城堀之内に住んでいる、ひめちゃんちの人間は山上氏とは関係ないので、秀郷の子孫ではないみたいです。
『将門記』を、駆け足で見てしまいました。
これから、じっくり読み返します
図録は暇を見付けてはくりかえし眺めてます
追記
今回久しぶりに、坂東市で手に入れた資料と再会しました。
今回もじっくりとはいきませんでしたけど、折りに触れて読み返したいと思います。
最初は、はて、史料はどこに行ったかなと心配しました。
かわいいマスコットキャラクター将門くんの袋にはいっていました
もう一度国王神社は訪れたいし、周りにいっぱいある史跡も訪れたいものです