黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

奥州紀行総集編 10 ・多賀城紀行(多賀城政庁跡・パワーストーンのパワー頂きます)

2020-03-31 15:13:09 | 奥州紀行

寒い寒い朝が明けました。

ひめちゃんは獅子丸と、堀之内を北に出ます。

やっぱり赤城山が白い

堀之内を出て、岩神沼(いわがみぬま)に到着です。

赤城山は、まだはっきりとはその姿を現しません。

いつものように、はぐれカモさんがいました

芦原があるのがいいようです

 

さらに、北の新沼(しんぬま)を回って帰ります。

桜がきれいですけど、ちょっと満開過ぎかな?

芦原の先端は、刈り取られています。

以前いつもいた、サギの姿はありません

赤城山は、少し姿を現してきました

 

 

(2018年6月21日)

将来再建されるかもしれない多賀城の南大門から、壺のいしぶみ(多賀城碑)の前を通って、政庁跡に向かいます。

去年訪問したときは、宮城野萩(みやぎのはぎ)が咲き出していましたけど、今年はまだ目立ちません。

萩と言えば、昔は仙台の青葉山にいっぱい咲いていました。

そして、色は白だったのです

そのせいで、萩と言えば白萩が思い浮かぶのですけど、今の青葉山には白萩が見当たりません

どうしたのでしょう?

 

政庁跡の階段を登ります。

 

ちょっと疲れそうですけど、がんばって登ります。

登り切ると、「多賀城」の説明板があります。

7世紀後半の支配範囲は、昨日行ってきた郡山遺跡のあたりまでだったんですね

ここ多賀城は、蝦夷対策の最前線だったのですね

上野(こうずけ)からも、たくさんの人々が来ていたのでしょう。

上野国・山上(旧群馬県勢多郡新里村山上)には、人々を無間(むげん)の苦しみから救い彼岸に生かせるように祈りを込めた如法経(にょほうきょう)が奉納された、山上多重塔(やまかみのたじゅうとう)が建立されています。

 

見下ろすと、萩の並木が見え、その崎の左手には「壺のいしぶみ(多賀城碑)」があります。

去年は、この先は草も茂っていたし、ここで退却してしまいました

今年は、現地案内のボランティア・ガイドさんが待っていてくれました

やはり、あやめ祭り期間中のせいでしょうか?

 

こんにちは

多賀城の Ⅰ 期から、Ⅳ期までの変遷をたどるパネルがあります。

去年はあったっけ?

 

Ⅰ 期、大野東人(おおののあずまひと)によって、多賀城が創建される。

ここは、知識として持ってます。

Ⅱ 期、伊治砦麻呂(これはりのあざまろ)の乱で、焼失した。

伊治砦麻呂(これはりのあざまろ)、初めて聞く名前です。

ガイドさんによると、

砦麻呂は栗原郡を本拠とする俘囚(帰順した蝦夷)の長であった。

宝亀11年(780)、伊治城を訪れた3人のうち2人は殺され恵1人は多賀城に逃げ帰った。

砦麻呂の軍は多賀城に押し寄せ、略奪をし焼き払って去った。

 

「多賀城にいた人はどうなったのですか?」

「みんな逃げてしまったところに、砦麻呂軍がやってきたので、ほぼ無事です。」

「どのくらいの人がいたのですか?」

「都から偉い人が3人、お付きをいれて10数人、役人が700人、兵士が500人です。

多賀城の南門から入ってメインストリートを歩けるのは、都から来た3人だけです。」

 

その後再建されます。

けれども、貞観11年(869)の大地震で被害を受けます。

 

伊治砦麻呂のその後については、よくわからないそうです。

 

政庁跡の正殿に昇ります。

礎石が元の位置に並べられています。

「この石の中に、伊治砦麻呂によって、焼き討ちされた石があります。それを見付けてその上に立つとパワーがもらえます パワースポットを探してみてください。ヒントは焼き討ちですよ。」

 

見付けました

焼き討ちされたから、黒っぽいんですよね。

多賀城のパワーストーン、パワーいただきまーす

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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小俣合戦を見ていた(?)三つ葉ツツジ

2020-03-30 16:17:51 | 下野国

春の雪はすっかり溶けました

ひめちゃんと獅子丸は、山上城の東の方を歩いてきました。

ひめちゃんも獅子くんも、ちょっとモコモコになってきました。

換毛の季節だね。

しばらく抜け毛に悩まされそうです。

 

桜の花が咲いているところが山上城の本丸です。

本丸への近道は、常広寺の境内から入ります。

山上城址公園は、三の丸を中心とした公園です。

本丸後を訪れる人はほとんどありません。

 

 

恵性院から三つ葉ツツジの自生地へ、スマホのナビに随って進みます。

ここ左の道を行っても行き着きそうですけど、まあナビに随います。

清水川の笛吹橋です。

地図を見るとこの川は、あの米沢薬師の所を流れてきています

米沢薬師には、小俣合戦で討ち死にした人々の五輪塔が、たくさんあるのです

そうすると、通説に従えば、むこうに見える山の西側から、膳備中守が先頭になって小俣城を攻撃したのでしょうか。

笛吹橋を渡って、右岸を少し行くと、「目的地に到着しました」の声。

 

川の向こうに案内板があります。

細い名もない橋を渡ります。

ここの三つ葉ツツジは、おしべが5本とあります

りっぱな案内板です。

 

見上げると、右上の方に紫ピンクの花が咲いています

ツツジはもっと先です。

細い足場の悪い道を上らなければ、到着できません

スニーカーは履いていましたけど、それでも大変

 

ゼイハア、ゼイハア、やっと石造物のところにでます

成田山とあります

とにかく、合掌

ここにあるのも三つ葉ツツジのようですけど、まだ咲いていません。

 

かなり危うい足場をなんとか過ごして、紫ピンクの空間に到着です

むこうにみえるのは桐生の街です

おしべは基本的に5本のようです

 

清水川の上流を望みます。

あの山は、城山、小俣城があった山ですよね

何となく、小俣合戦が身近に感じられます

この山の三つ葉ツツジのご先祖は、もしかしたら小俣合戦を見下ろしていたかもしれません

 

もう少し上にもありそうですけど、ここで退却です。

帰りは少し余裕で、まだ咲いていない三つ葉ツツジも目に入ります

 

成田山、ありがとうございます

慎重に慎重に、下山します

 

今度は、清水川の左岸を帰ります

あの恵性院のある坂が、笛吹坂です

小俣城西側の米沢から、清水川が流れてきているのです

米沢薬師には、小俣合戦の犠牲者のたくさんの五輪塔があります。

笛吹坂の墓地にも、引けを取らないほど多くの五輪塔がありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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小俣・笛吹坂の恵性院

2020-03-29 21:21:36 | 下野国

夕方、ほとんど雪が上がりました

積もっていた雪もだいぶ溶けました

ひめちゃんは小次郎パパと、諏訪神社の方にお散歩です。

右上の桜の木が見えるところが、諏訪神社です。

諏訪神社、三の鳥居からの風景です。

花散らしの雪にはならなかったようです

誰か通ったのかな?

ひめちゃん、赤い椿似合うよ

 

 

新着記事です

『桐生老談記』では、天正11年(1583)、上野国膳の城主・膳備中守は、小俣城攻撃の中で大手を担当し、笛吹坂で討ち死にしたことになってます

一般的には、元亀3年(1572)搦手の暗闇沢(くらみざわ)で討ち死したといいます。

小俣の笛吹坂って、何処だろう?

いろいろ検索すると、鶏足寺の南の方に、笛吹山恵性院(ふえふきざんえしょういん)があります。

鶏足寺に行くときに通ってます

お使いついでに、ちょっと確認して来ましょう

 

3月22日、渡良瀬川を渡り桐生川を渡り、恵性院の駐車場に到着です。

ちょうどお彼岸の最中で、お墓参りの人がたくさんいます。

広大な墓地を有する、大きなお寺のようです。

 

鐘楼堂の隣に、水子地蔵尊です。

霊場ご本尊のはずです。

本堂です。

笛吹山の山号があります。

 

さて、御朱印をいただきましょう。

庫裏を尋ねると、「御朱印はやめちゃったんですよ。」

「ええ

「あの、では有名な石造の碑は、何処ですか?」

「ああ、稚児の碑(ちごのひ)ですね。坂を登っていくと、道が2つに分かれます。左に行くと、覆屋の中にあります。」

「ありがとうございます。それから、三つ葉ツツジは、咲いていますか?」

「さあ、確認していません。」

「今年は早そうなので、車を置かせて頂いて、確認にいってみますけど。」

 

とりあえず、本堂の東の坂を登ります。

かなり広大な墓地です。

分かれ道に来ました。

左に行けと言われましたけど、右に赤い大きな覆屋のようなのがあります。

ちょっと行ってみました。

やっぱり違いました。

中には、二十二夜塔でした。

それにしても、たくさんの五輪塔です

来た道を引き返すしか、分かれ道には行けません。

汗を掻きつつやっと戻り、左の道を辿ります。

 

ありました

確かに文字がありますけど、写真では判読不能です。

 

いろいろ検索した結果のお話です。

昔、足利の鶏足寺の末寺明月院に「信光」という修行僧がいました。京都から明月院に預けられていた彼は、毎晩故郷の家族を思い出して笛を吹いていました。彼の美しい笛の音は、明月院の近くに住む豪族の娘「菊江姫」の心を捕らえ、彼女も笛の音に合わせて琴をひくようになりました。やがて二人は逢瀬を重ねるようになりましたけど、許されることではありませんでした。二人は強引に引き離され、信光は重病にかかり死んでしまいました。その後、二人が逢瀬を重ねた坂を笛吹坂と呼ぶようになりました。

 

近くに、笛吹童子供養塔とあり、御詠歌もあります。

稚児の碑には、たぶんそのようなお話が刻んであるのでしょう。

稚児の碑の隣は、法印尊光の墓です。

仏手山の末寺明月院の主で、延文5年(1360)に「稚児の碑」を建てた人です

 

西の方には、桐生の町が見えます

この辺りが、笛吹坂なのですね

 

 

 

 

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奥州紀行総集編 9(多賀城紀行・壺のいしぶみ)

2020-03-29 13:50:40 | 奥州紀行

天気予報通り、雪の朝です

3月29日に、ひめちゃんたちは雪の中のお散歩です

ひめちゃんの本当の名前は、衣通姫(そとおりひめ)です

衣通姫は伝説の絶世の美女で、衣からもその美しきパワーがあふれ出ていたとか?

そんなわけで、ひめちゃんちには「そとおりひめ」の名を持つ椿と桜があります。

 

「椿そとおりひめ」は、コロンとしたかわいいいピンクの花です

雪をかぶった桜「そとおりひめ」です。

なかなか風情があります。

ちょっとそこまで、ちい散歩に出た七海ママも、初冠雪です。

ハイシニアのママは、ふきふきしてもらって、今日は朝から室内犬です

 

 

(2018年6月21日)

仙台3日目は晴れました

予定通り、多賀城に行きます

壺のいしぶみ(多賀城碑)や多賀城跡を訪れたいので、東北本線国府多賀城駅を目指します。

 

国府多賀城駅で、博物館とは反対側に出ます。

多賀城のミニチュア南大門があります。

去年は、駅前のこの道をまーすぐ行ってから左折しました。

今年はここを左に行って、館前遺跡を通って壺のいしぶみの方に行きます。

都から赴任した国司の館跡だそうです。

 

あやめ園を通って、東から壺のいしぶみ(多賀城碑)をめざします。

今年は、あやめが咲いていました

去年は7月だったので、何処があやめ園?という感じでした。

でも、余計なことですけど、あやめではなく、花菖蒲ですね。

ゆっくり鑑賞するのはかえりにして、坂をのぼります

 

説明板がありました

多賀城碑の文言の説明もあります

「前半は京(平城京)からの距離、後半は神亀元年(724)大野朝臣東人(おおのあそんあずまひと)が多賀城を設置したこと、天平宝字6年(762)藤原恵美朝臣朝獦(ふじわらのえみのあそんあさかり)が多賀城を修造したことが記されている」と、ありいます。

 

多賀城は京(平城京)から一千五百余里ということは、802、500m(802km)

蝦夷の国境から64,200m(64km)

常陸の国境から220,420m(220km)

下野の国境から146,590m(146km)

靺鞨(まっかつ)から1,605,000m(1605km)

 

下野国境から約150kmということは、上野からは200kmくらいでしょうか?

上野から兵士として移民として、より自然の厳しい陸奥多賀城に行っていたんですね

靺鞨(まっかつ)からは、1605km、都からの距離の2倍です

靺鞨は、中国隋唐の時代に沿海州(朝鮮半島の付け根)にあった国です。

どうして靺鞨からの距離が記されているのでしょう?

交流があったと言うことでしょうけど、日本海の荒波を乗り越えて陸奥にやって来ていたのでしょうか?

 

覆屋の中に壺のいしぶみが見えます

「西」ははっきり見えます。

文字があるのはわかりますけど、はっきり読み取れません

多胡碑(たごのひ・群馬県高崎市)とともに、日本三古碑だということです。

 

昨年より説明板が増えているかな?

あやめ祭りの関係からか、草もきれいに刈ってあります。

 

南大門跡があります。

平安京だと、都大路の入り口朱雀門(すざくもん)にあたるそうです。

左上の多賀城全景拡大図です。

ここにメインストリートがあって、二階建ての朱雀門のような門があったのです

偉大なる多賀城の南大門、我が意に反して多賀城にやって来た上野の民はどう感じたでしょうか?

将来この絵の姿に再建する計画があると書いてあります。

再建されたら、遠い昔上野から来た人々に思いを馳せながらくぐりまーす

 

 

 

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奥州紀行総集編 8(四ッ谷用水流れる大崎八幡宮)

2020-03-28 15:54:08 | 奥州紀行

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内の西を歩いて来ました。

たぶん、ここらへんの田んぼは、葛塚城の西の堀切跡だと思われます。

ひめちゃんの、りりしい顔です

獅子くん、後ろ姿で失礼します

みかけによらず、深謀遠慮の策略家です

獅子丸が、こんな表情をみせることはありません。

自分の本性のままに行動しています。

 

今朝の赤城山です。

 

葛塚城から東は、桐生の山々があって、その先の山々は見えません

桐生も足利も見えません

 

 

(2018年6月20日)

雨の仙台二日目、地下鉄薬師堂駅から仙台駅に戻り、るーぷる仙台に乗ります。

 

朝よりは少しすいたかな?

るーぷる仙台は、途中まで昔の動物公園循環といったイメージです。

片平を通り、御霊屋橋(おたまやばし)を渡り、瑞宝殿(ずいほうでん)に停車です。

たくさんの乗降客があります。

 

御霊屋橋は記憶にありますけど、はて瑞宝殿?、記憶にないのです。

伊達政宗の御廟は、ひめちゃんちのおかあさんが仙台を去ってから再建されたものです。

るーぷるに乗っても降りたことはありません。

今回もパス、又の機会に。

 

博物館を過ぎて、青葉城本丸を目指してバスは行きます。

本丸の高い石垣は、記憶にしっかりとあります。

何度も歩いて登りました

その昔、シルクロードに憧れている友人がいました。

本丸跡で、「きっと行くからね」と叫びました。

どうしているかな?

 

青葉山を通って、川内を通って、大崎八幡宮に到着です。

たくさんの人が降ります。

何十年ぶりだろう?

明るくなってます

 

一の鳥居は大きすぎてカメラに収まらず、くぐってから撮影です。

 

二の鳥居は石造りの鳥居です。

何か文字が刻んでありますけど、ウーン判読不能です。

 

太鼓橋が現れ、大崎八幡神社とあります。

平成になって、大崎八幡宮と改称したそうです。

ひめちゃんちのおかあさんが仙台市民の頃は、大崎八幡神社だったのです。

ただ「大崎八幡」とだけ記憶していました。

 大石段の先に、三の鳥居が見えます。

「無理しなくていいよ」そんなやさしい言葉が聞こえます。

もうみんな、かなりバテバテです

 

ほとんどの人は、一挙に昇って行きましたけぢ、ちょっとウロウロです。

太鼓橋の脇に、見慣れない表示がありました。

初めて聞く名です。

仙台市のHPによると、

伊達政宗の命で造れた用水路で、本流が広瀬川から梅田川に通じ、3本の支流と多くの枝流がありました。城下町をくまなく流れ、当時は防火用水、散水、洗濯用水などの生活用水や水車などの動力産業用水として用いられました。明治以降、上下水道の整備により生活用水としての利用は減少し、次第に暗渠化が進みました。特に昭和以降には車社会の到来で水路にフタがされることにより、地上から姿を消す部分が多くなりました。

 

下流の流れです。

上流の流れです。

往時は、広瀬川から豊かな水量が音を立てて梅田川に下っていったのです。

そうすると、ここは神域パワースポットという以上に、重要な地点だったようです。

 

人が生きていくためには、水が欠かせません。

お殿様は、まずみんなに水が行き渡るようにしなければなりませんね。

台地の上の城下町であるけれども、用水の水が台地に浸透し井戸水の水源にもなったということです

 

階段を登り切ると、狛犬がいました

どっしりとした狛犬です。

 

三の鳥居をくぐります。

もううひと頑張りです。

 

また、狛犬がいます。

こんな腕の太い狛犬みたことありません

これは左の狛犬ですけど、右も同じように太いです。

 

長床というクラシックな建物があります。

「こちらで参拝してください」と、社殿にまで進めません

 

脇にまわりちょっと失礼します。

やなり、国宝の御社殿は遠い存在でした。

 

こんなきらびやかな国宝の御社殿があったのですね

暗いきつい階段しか、遠い記憶にありませんでした

記憶を塗り替えておきます

 

社務所で御朱印をいただいて帰ります。

また、いつの日か参拝しまーす

 

明日は多賀城に行きまーす

 

 

 

 

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