寒い寒い朝が明けました。
ひめちゃんは獅子丸と、堀之内を北に出ます。
やっぱり赤城山が白い
堀之内を出て、岩神沼(いわがみぬま)に到着です。
赤城山は、まだはっきりとはその姿を現しません。
いつものように、はぐれカモさんがいました
芦原があるのがいいようです
さらに、北の新沼(しんぬま)を回って帰ります。
桜がきれいですけど、ちょっと満開過ぎかな?
芦原の先端は、刈り取られています。
以前いつもいた、サギの姿はありません
赤城山は、少し姿を現してきました
(2018年6月21日)
将来再建されるかもしれない多賀城の南大門から、壺のいしぶみ(多賀城碑)の前を通って、政庁跡に向かいます。
去年訪問したときは、宮城野萩(みやぎのはぎ)が咲き出していましたけど、今年はまだ目立ちません。
萩と言えば、昔は仙台の青葉山にいっぱい咲いていました。
そして、色は白だったのです
そのせいで、萩と言えば白萩が思い浮かぶのですけど、今の青葉山には白萩が見当たりません
どうしたのでしょう?
政庁跡の階段を登ります。
ちょっと疲れそうですけど、がんばって登ります。
登り切ると、「多賀城」の説明板があります。
7世紀後半の支配範囲は、昨日行ってきた郡山遺跡のあたりまでだったんですね
ここ多賀城は、蝦夷対策の最前線だったのですね
上野(こうずけ)からも、たくさんの人々が来ていたのでしょう。
上野国・山上(旧群馬県勢多郡新里村山上)には、人々を無間(むげん)の苦しみから救い彼岸に生かせるように祈りを込めた如法経(にょほうきょう)が奉納された、山上多重塔(やまかみのたじゅうとう)が建立されています。
見下ろすと、萩の並木が見え、その崎の左手には「壺のいしぶみ(多賀城碑)」があります。
去年は、この先は草も茂っていたし、ここで退却してしまいました
今年は、現地案内のボランティア・ガイドさんが待っていてくれました
やはり、あやめ祭り期間中のせいでしょうか?
こんにちは
多賀城の Ⅰ 期から、Ⅳ期までの変遷をたどるパネルがあります。
去年はあったっけ?
Ⅰ 期、大野東人(おおののあずまひと)によって、多賀城が創建される。
ここは、知識として持ってます。
Ⅱ 期、伊治砦麻呂(これはりのあざまろ)の乱で、焼失した。
伊治砦麻呂(これはりのあざまろ)、初めて聞く名前です。
ガイドさんによると、
砦麻呂は栗原郡を本拠とする俘囚(帰順した蝦夷)の長であった。
宝亀11年(780)、伊治城を訪れた3人のうち2人は殺され恵1人は多賀城に逃げ帰った。
砦麻呂の軍は多賀城に押し寄せ、略奪をし焼き払って去った。
「多賀城にいた人はどうなったのですか?」
「みんな逃げてしまったところに、砦麻呂軍がやってきたので、ほぼ無事です。」
「どのくらいの人がいたのですか?」
「都から偉い人が3人、お付きをいれて10数人、役人が700人、兵士が500人です。
多賀城の南門から入ってメインストリートを歩けるのは、都から来た3人だけです。」
その後再建されます。
けれども、貞観11年(869)の大地震で被害を受けます。
伊治砦麻呂のその後については、よくわからないそうです。
政庁跡の正殿に昇ります。
礎石が元の位置に並べられています。
「この石の中に、伊治砦麻呂によって、焼き討ちされた石があります。それを見付けてその上に立つとパワーがもらえます パワースポットを探してみてください。ヒントは焼き討ちですよ。」
見付けました
焼き討ちされたから、黒っぽいんですよね。
多賀城のパワーストーン、パワーいただきまーす