黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

細川内膳の物語・総集編(名馬小雀と八条殿)

2019-04-11 20:09:02 | 桐生川紀行
昨日の朝は、雨でした。
雨はそのうちに雪に変わりました
4月の雪です。
さすがに4月の雪なので、積もりませんでしたけど。

ひめちゃんは小次郎パパと、この道で堀之内を北に出て、西側の堀切跡の田んぼを回って帰りました。
やはり、今朝の赤城山には雪がしっかり残っています。



堀之内から見た赤城山です。
画面左奥が内曲輪です。


堀之内の西側から見た赤城山です。



花散らしの雪にもめげず、桜の花は咲いています。

ひめちゃんの足下にわずかに、雪の名残があります。



今日は、いっぱい濡れたひめちゃんたちのバスタオルを洗濯しました。





細川内膳の物語総集編、名馬小雀と八条殿です。


細川内膳は、名馬小雀を桐生氏に渡さずに、攻め滅ぼされたと云います。
菱郵便局の隣に、小雀を祀った小雀観音があります。





菱カルタがあります。



小雀も主君の後を追い舌をかみ切って死んだとあります。




生花と水があがってました



ところで、小雀とは馬の名前にしては、どうして?と思う名前です。
その名前の由来は、小雀を細川内膳に下賜した八条殿にありそうです。


八条殿は、実は大変な有名人であるようです。
扇谷上杉朝顕(おおぎがやつうえすぎともあき)は、現在の埼玉県八潮市八条に館を構え、八条上杉氏を称したといいます。
その曾孫が、八条近江守房繁(はちじょうおうみのかみふさしげ)です。
彼は馬術の卓人として、独自の八条流をなしたそうです。
そうすると、細川内膳も馬術の達人だったことになりますね

八条殿は達人だっただけではなく、永正5年(1508)に『糠部九ヶの部焼き印図』を著したといわれます。
青森から岩手にわたる南部地方に、かつて糠部(ぬかべ)郡がありました。
あまりの大郡であるため、9つの戸(へ)に分けたといいます。
この地方は名馬の産地として有名で、どこの戸の産であるかを示すため、馬に焼き印を押したといいます。

残念ながら、『糠部九ヶの部焼き印図』の原本は失われたようですが、『七戸町史』第2巻第六篇中世に、馬焼き印想像図があります。



(なぜか横向きで、回転してくれません

名馬小雀には、雀の焼印があったのですね


そして、なんと雀紋印の馬印(すずめもんじるしのうまのかね)が、昭和61年に一戸城跡(いちのへじょうせき)から出土しています

一戸町のHPによると、「この糠部の馬産を示す唯一の文献が、永正5年(1508)八条近江守房繁の作といわれる馬焼印図です。それによると岩手県北地方では、一戸7ヶ村の馬には左右に雀の焼印、二戸7ヶ村の馬には雀と二文字を押した事がわかり、それぞれの略図もつけています。」とあります。
雀紋印の馬印の写真もあります。


名馬小雀は、雀の焼印がたぶん左右にあったのでしょうね。
だから、すずめ、すずめちゃんという意味で、小雀と呼ばれたのでしょう



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