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黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

魚鱗につらね、鶴翼に開き(家綱討ち死に前裏の事、付けたり、家中友軍の事 ・その 2)

2025-03-26 20:13:18 | 桐生老談記の世界

晴れて暖かい一日でした

でも風が強い

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、昼間はテラスの自分のお部屋(サークル)で過ごしました。

演技派女優のひめちゃんは、最初はブルブル震えます。

おかあさんがどうしてもおうち犬させてくれないとわかるまで震えます。

見事な演技派女優です

 

2020年5月の黒柴家族です。

ひめちゃんは、まだ演技派女優開眼前です。

獅子丸は実家に帰って11ヶ月です。

パパもママもいて、賑やかな黒柴家族でした

 

 

 

 

家綱討ち死に前裏の事、付けたり、家中友軍の事  続きです。


去る程に家中、主の行衛を見失い互いにせんかたなく、同二日の暮れ時に、越中が宿所へ立ち寄りて、声高に云う、「御辺は足利に縁者ありけるは、長尾方と一味して、主の御出馬を留め、敵を城の辺りに防ぎ置きたかりしを、君ご存じありて、かんどう仰せられける談、御かんどうなるとも、家老の身として主の先途、見届け申さん事、是れ逆心にうたがいなし」と、口々に呼ばわり、時を作りて乱れ入る。

越中少しもさわがず、元心明らかなれば、「君の御行衛知らずなりは追い腹切って、冥途の御供にと思い宛、汝等も後にせん道連れよ」と、「扨(さて)も眼前の主の敵討ち居ずして、忠義を勤むる家老を討たとは、うろたえ者の名、世の常の人にふれけるなり。喧嘩にまけて妻子を討つにことならず。主君の敵は汝等なりと、出て物見せん」というままに、三十余人、魚鱗につらね、突いてかかれば、心得たりと二百余人、鶴翼に開き引き包み、殊に正月二日夜闇の事なれば、手先まかせの闇打声をしるべにおつまへり。

川十文字に破る巴の如く押し廻り、火花を散らして切結ぶ。その内に風上より火をかけ、その上、越中を初めて良等ども大半討たれ、手負い、死者数知れず。

越中も今は是れ迄鳴りと火中に飛び込み、腹切ってほのおにこけて失せにけり。

折節風はげしく大火におよび、いらざる火事を求めて、火中町に至る迄類火あるこそあわれなり。

その後、越後より虎房を宗綱と改名して、家督相続せられたり。

 


あらすじです。


家中は主君の行方を見失ってどうしようもなく、二日の夕方大貫越中守の宿所にやって来ました。


そして、「あなたは足利に親戚があるから長尾とつるんで、御主君の御出馬を留めたのだ。家老の身として、たとえ勘当されても、主君の行方を見届けるべきだ。そうしないのは、逆心を抱いているということだ。」と、みんなで叫んで、鬨の声をあげて乱入した。


越中守は少しもさわがず、「御主君が行方不明になってしまったので、追い腹を切ろうと思っていたところだ。おまえらも道連れせよ。」と云い、また、「目の前の主君の敵を討たずして、忠義の家老を討とうなんて、うろたえ者だと世間に自分たちでいっているのだぞ。御主君の敵はお前達だ。」


激しい戦になりけが人や死者がたくさん出ました。
そのうちに火が風上よりかけられました。
越中守も今はこれまでと、火中に飛び込み切腹して果てました。
折からの強風にあおられて、火は街中にまで燃え広がってしまいました。

その後、越後から虎房を迎えて、宗綱と改名して家督を相続させました。

 



本文は、ここまでです
ああ長かった
やっと終点にたどり着きます
このあと、家臣団の名簿があります。
そのあと、後書きで終になります。
あと2~3回かな?
もう少しだけ『桐生老談記』にお付き合いくださいませ


何という結末でしょう
宗綱が見つからないのは、大貫越中守のせいと攻めてきたのです
これでは、この家中はうまくいくはずなどありません。

「その後、越後から虎房を迎えて、宗綱と改名して家督を相続させました。」、こんなことありましたっけ?

江戸時代中期には、たくさんの通俗軍記物語が書かれたという事です。
語られたり、演じられたり、読まれたようです

「魚鱗につらね、鶴翼に開き」を検索すると、『前太平記』の一節がでてきました。
大貫越中守の最期の場面、『前太平記』の一節とよく似ています
平将門の最期の場面、7人の将門が「魚鱗につらね、鶴翼に開き」戦っています

『桐生老談記』の作者・高橋守行(1716~1766)は、『前太平記』の熱心な読者だったかもしれませんね

 

 

初稿  2020.05.18

改稿  2025.03.26



( 家綱討ち死に前裏の事、付けたり、家中友軍の事  終 )

 

 


白狐一疋走り来り(家綱討ち死に前裏の事、付けたり、家中友軍の事 ・その 1)

2025-03-21 18:14:25 | 桐生老談記の世界

晴れて暖かい一日でした

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、昼間はお外のサークルで過ごしました。

昨日、ひめちゃんとタバサねーちゃんは、女淵城址に行ってきました。

早咲きの桜が咲き始めていました

 

2020年3月、タバサねーちゃんは、女淵城址に行きました

 

元気溌剌、熟女のタバサねーちゃんでした

 

 

 

 

『桐生老談記』 新しい章です。
家綱討ち死に前裏の事、付けたり、家中友軍の事・その1

去る程に、評定に云う、宗綱短気を起こして元朝に駆けだし給う時に、家老の大貫越中留めて云う、今日は元朝と云い、庚申の次の日、俗に言う大悪日の当たり候えば少し御延慮の旨申されければ、宗綱怒って、おろかなる敵に矢を打ちかけられ、悪日なれどもその場を免れ、後日に吉日を見て善の失い返す法やあらん、汝が様なる愚か者は、我が家には勘当なりと、つきはなしてで給う。

不思議や其の時、白狐一疋走り来り、道をさえ切り、或いは馬の尾に取り付き、馬は内に駆け入ること、三度なり。

斯くの如く、さまざまの不思議ありしを、短気に任せ押して出給いしが、はたして相なく失せ給うこそ、あさましけれ、寔(まこと)や宗綱のの給うも一理あり、また越中が云うも、全く其の日ばかり延引すにもあらず、心静かに勢を揃え、打ち立つべきとの心底なりしを、宗綱思慮なくしてかんげんを待ち得ず、かやうの主、才心のたかいの事、是一つの前後なりしが、一城の主たる身、軽々しく一人で出で失い給う事、さながら疋夫の振舞いと、悪名を浮世にまで流し給うぞ、はかなけれ。



題名の家綱は、宗綱の間違いでしょう
宗綱として、あらすじの確認です。

元日に、領主佐野宗綱は出陣しようとしました。
家老の大貫越中は、留めようとしていいます。
「今日は元日で、まして庚申の次の日で大悪日です。少しお待ちください。」
宗綱は怒り、「お前のようなおろか者は、我が家中から勘当する。」と云って出陣してしまいます。
その時不思議なことに、一匹の白狐が現れました。
狐は道を遮ったり、馬のシッポに取り付きました。
馬は三回も戻ってしまいました。
このような不思議なことがあったのを、宗綱は短気にまかせて出陣し、亡くなってしまいました。
宗綱の行為は、まことに匹夫(つまらない人間)の振る舞いでした。

 



家綱と宗綱を作者が間違えたのでしょうか
それとも、書き写していく中で、間違えたのでしょうか

まあ、元日に出陣したのは宗綱なので、宗綱で間違いないでしょう



庚申信仰は、江戸時代にはとても盛んでした。

人間の体内の三尸(さんし)が、天に昇って寿命を司る神にその人の過失を報告するのを防ぐ為に、庚申の夜は眠らないで夜を明かす「庚申待」が行われたのです。

三尸は人間が眠らなければ天に登れません。

したがって寿命を削られることもありません。

戦国時代には、どうだったのでしょう


天正11年(1583)の大晦日は、庚申の日だったのでしょうか?
天正12年(1584)は、甲申(こうしん、きのえさる)の年でした。
宗綱の討ち死にの一つの原因として、庚申の次の日で大悪日だったことがあげられています。



白狐が現れたんですね

なんと神の使い白狐が現れて、出陣を妨害したのです

白狐は、稲荷大明神のお使いで、江戸時代以降は、憑きもの落としや開運出世・商売繁盛の御利益があるとして庶民の信仰を集めていたそうです

 

 

 

 

初稿  2020.05.14  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.03.21

 


( つづく )

 

 


宗綱行衛を尋ね、佐野合戦延引の事

2025-03-19 15:36:40 | 桐生老談記の世界

霙(みぞれ)予報が出ていましたけど、昨夜は雨でした。

朝起きてみて、びっくりです

白い世界です

ひめちゃんは貧乏カッパで、霙雪の中をお散歩です。

春になったと思ったのに、今日もまた一日中おうち犬で過ごします。

 

 

 

 

『桐生老談記』 新しい章です。
宗綱行衛を尋ね、佐野合戦延引の事

去る程に、佐野の城にては、大将無法に出給え候えば、家中の騒ぎ夥しく、早鐘をつき太鼓を打って、人を集めけれども、元朝の事なれば、諸人の心調はず、集まる人もなし。

去れども在城の人々には、赤見、大貫、富田、羽佐間、皆川、竹川、新里、芦畦(とぐろ)、吉沢、山口、栃本、川久保、荒井、松村、茂木、前原、津布久先として、時刻を移さず大将の軍に続かんと、馬を乗りて出るもあり、また歩行にて出るもあり、思い思いに続きける。

斯くて上飛駒にはせ付き見れば、城は炭となりて跡形もなき有様なり。

此の上は下飛駒の城に取りかかり、勝負を決せんというもあり。

また、大将の行衛を尋ね請け、後日に旗を揚げんというもあり。

敵陣に向かわん事は千に一つも誤りては、何と悔やむとも帰るまじ。

先づ御行衛を思い思いに尋ね給う

明くる二日の晩に、宗綱討ち死にと聞きければ、佐野勢思いけるは、御連枝公へ達し下々に至る迄、大将の討ち死にを深く包み、宗綱公病気と領分へ相触れ、鳴り物を留め門戸を閉じ、人をも入れず他出もなく、慎みある様、実に病気と見えけれども、悪事千里に隠れなく、臆病ものの使い方は尤も左様にあるものと、世の人是を笑いける。


其の時の落書に云う。
「佐野衆は臆病神の氏子にて霊むも早く逃げよとぞ見る」
「主討たせ家来はぶじで正月を致すも神の利生なりけり」


斯くの如く正月二日の早旦に大手の左右に立てにけり。

 


あらすじです。


元旦に、佐野の城(唐沢山城)では、城主の宗綱が十分準備もしないで、飛び出て行ってしまいました
早鐘や太鼓で人を集めようとしますけれど、元日なのでだれも来ません
けれども在城の人々は、赤見、大貫、富田、羽佐間、皆川、竹川、新里、芦畦(とぐろ)、吉沢、山口、栃本、川久保、荒井、松村、茂木、前原、津布久といって人々を先頭として、すぐに大将の軍に続こうと、馬に乗て出る者あり、また歩行で出る者ありで、思い思いに続きました。
翌二日の晩に、宗綱討ち死にと伝わりました
佐野家中は、討ち死にを隠し病気だとしました。
けれども、悪事千里を走るのように、世間に知れ、佐野衆は臆病者と笑われました

正月二日の早朝、城の大手門の左右に
「佐野衆は臆病神の氏子にて霊むも早く逃げよとぞ見る」
「主討つたせ家来は無事で正月を致すも神の利生なりけり」
という落書が掲げられました。

 

 



佐野家中が宗綱の討ち死にを知ったのは、二日の夕方でした。
落書が、唐沢山城の大手門の左右に掲げられたのは、二日の早朝でした

落書(落首)は、政治風刺、政治批判、揶揄(やゆ)の目的で人々の目に触れる場に掲示される文書(ウィキペディア)です。そして、江戸時代に盛んだったのです。

戦国時代の話なのに、まるで江戸時代のようです
城主を死なせてしまって、家来がお正月してるという批判です。

でも、時間的に見ると、城内の家中がの死を宗綱知らないうちに、もう落書(落首)が大手門にあったのです
そんなばかな

 

 

初稿  2020.05.09

改稿  2024.03.19

( 宗綱行衛を尋ね、佐野合戦延引の事  終 )

 

 


流石の猛将目もくらみ(宗綱短気に依って不慮の最後の事 ・ その 3)

2025-03-13 15:22:03 | 桐生老談記の世界

晴れて暖かい一日になりました

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、昼間はテラスのお部屋で過ごします。

厳しい冬で、ほとんど室内犬の日々でした。

これからは昼間は、お外犬で過ごしてもらいましょう

 

2020年4月の、小次郎パパと獅子丸です。

似てなくはないけれど、やっぱりママ似かな

獅子丸の足は、七海ママの足です

 

 

 

宗綱短気に依って不慮の最後の事 ・ その 3


やぐらに上より是を見て、敵か味方かと声懸けるに、返答なくば討ち取ると、口々に呼ばわれども、しころをかたむけ、既に番所へ乗り懸けたり。

番所にも防がんと、或いは丸木または薪をなげ、弓手馬て(ゆんでめて)になげ打てば、馬もすくんで立つところに、屋ぐらの上より打つ鉄砲真首に当たれければ、流石(さすが)の猛将目もくらみ、馬よりどうと落ちけれども、漸くにおき上がり、田畔(たぐろ)に越を懸け、今は是までなりと思い定めて、指添え(わきざし)を抜き、鎧の引き合いに押し立て、無体に自害なされしはいたわしさもまた、あさましき有様なり。

時に大勢打ちかさなり、いまだ御息もたえざれば、名のれ名のれとせむれども、終に息切れ失せ給う。

さては死骸をよく見るに、白綾に練り絹の裏を打ったる下着し、鎧は五色の糸をとじ、竜頭の兜を着し、金作りの達をはき、鹿毛なる駒のたくましきに乗り金覆輪の鞍を置く、其の出で立ちのはなやかさ、何様常の武者ならず。

一方の大将とみえたり。

後日、子細は知れるべしと、戸嶋七右衛門という者に、此の馬預け起きて、死骸を片付け鳴りを静めて居たり。

 



あらすじです。


鎧兜に身を固めた武者がただ一騎で、飛駒の城にやって来ました。
ただ突進してきます。
足利方が櫓の上から撃った鉄砲が武者の首に当たりました。
さすがの彼も馬から落ちて自害しました。
その死骸のいでたちの華やかさは、ただの武者ではなく、かなりの大将とみえました。



あまりにお粗末すぎる、佐野宗綱の最期です
飛んで火に入る夏の虫以下の、こんな戦国武将はいないでしょう
ちょっと作者が、ストーリーを簡単に作りすぎていますね

須花の正光寺、昨年11月30日に再訪しました。

正光寺には、佐野宗綱と家臣団の五輪塔群があります。

願はくは花の下にて(須花正光寺・佐野宗綱の記憶2)

このあたりは須花城出城の正光寺城であったということです

一般的に言われる佐野棟綱討ち死にの地は、もっと足利より、大将の須花トンネルの上です。

 

 

初稿  2020.05.05  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.03.13

 


( 宗綱短気に依って不慮の最後の事 終  )

 


元日辰の刻ばかりに、物の具したる武者一騎(宗綱短気に依って不慮の最後の事 ・ その 2)

2025-03-11 13:13:39 | 桐生老談記の世界

ようやく寒い冬も終わりそうです。

上野国山上(こうずけのくにやまがみ)は、いつもより厳しい冬でした

クリスマスローズも、3月になってようやく開花しだしました

 

2020年3月の黒柴家族です。

七海ママと小次郎パパは、服を着ています。

けっこう寒い日があったかも。

末っ子のひめちゃんと獅子丸は、よく一緒にお散歩しました

獅子丸は、タバサねーちゃんとも相性よかったね

菜の花が咲いても、赤城山がうっすらと雪化粧していることもありました。

 

 

 

 

宗綱短気に依って不慮の最後の事 ・ その 2

不思議や馬小道に切れて、本光寺の墓所にかけ入り、宗綱怒って手綱をかいぐり引き返せども、三度迄こそかけ入りしかば、後にこそ不思議と知られたり。

かくて宗綱供もなく、ご近所の人四五人物の具もせず、はかまも抜かず、取り刀にて駆け出したれども、馬は元より名馬なれば、歩行武者既に息を切り、遅れて追いつく人もなし。

かくて足利勢夕べの夜討ちに勝利を得、飛駒の城に引きこもり、定めて佐野より討っての勢の向かわんと、門、木戸堅め待つ所に、元日辰の刻ばかりに、物の具したる武者一騎、駒に白砂はませ飛び来る。

 


あらすじです。

宗綱が乗り出した馬は、不思議な事に本光寺の墓地に駆け入りました。
宗綱が怒って引き返したけれど、三度も駆け入りました。
本当に不思議なことでした。

宗綱に騎馬武者の供はなく、歩行武者が4,5人刀を腰に差す余裕もなく、わしづかみにして駆け出しましたけれども、馬が名馬なので、息が切れて追いつく者もありませんでした。

一方、足利方は、昨夜の勝利に下飛駒の城にこもって、きっと佐野から追っ手がやってくると、門や木戸を閉めて待っていました。
すると、元日の辰の刻(午前8時前後)鎧兜に身を固めた武者一騎がやってきました。

 


地図を見ると本光寺は唐沢山城の北の方にあります。


由来等はわかりません。

足利勢が籠もっていたのは、須花の須花城だと思われます

佐野市のHPでも、
須花城跡は、標高約200メートルの山城です。本丸周辺に土塁を巡らせた削平地と堀切が残ります。
皆様ご存じのように、須花周辺は、佐野宗綱が天正13年(1585)、足利長尾方に討たれた地としても知られています。

あれ、佐野市のHPでは、佐野宗綱の討ち死には天正13年(1585)とあります。
『桐生老談記』では、天正12年(1584)の元旦としています
いろいろ検索してみると、宗綱の死は天正13年(1585)というのが一般的のようです

 

 

 

初稿  2020.05.01  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.03.11

 

 

(つづく)