黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

太田貞宗寄進状・その4(限年紀沽却)

2024-05-29 20:14:59 | 山上保の物語・総集編

2019年6月、獅子丸は7年間暮らした養家に別れを告げて、実家に戻りました

そして、ひめちゃんと、東の牧場に行って、初めてヤギいう生き物を見ました

獅子くんもヤギさんも、お互いに「何じゃろう」という感じでした

でも、楽しかったね

それからよく東の牧場の、ヤギさん家族に会いに行きました

ののこねーちゃん・タバサねーちゃんとも、一緒にお散歩できました

 

 

 

太田貞宗寄進状・その4(限年紀沽却)


597 太田貞宗寄進状
    ○神奈川県 鎌倉中央図書館所蔵神田孝平氏所蔵文書

寄進
 上野国山上葛塚村諏訪両社上下神事幷燈油等料田事
右、當保田部村新平三入道作田屋敷幷葛塚村和泉坊作田屋敷、源六入道跡田屋敷河ハタ田等、限年紀沽却訖、年紀以後、所寄進當社也、以件得分、神事料田不足之時、且令勤行祭祀、且可備當社燈油也、為祝管領可勤彼役也、乃寄進状如件、
     建武元年十一月廿七日
        前美作権守貞宗 (花押25)

 

太田貞宗は諏訪神社に、①田部村の新平三入道作田屋敷、②葛塚村の和泉坊作田屋敷、③葛塚村の源六入道跡の田屋敷河ハタ等を寄進するといってます
でも条件が付いてます


「限年紀沽却訖、年紀以後、所寄進當社也、」

「沽却」とは売り払う事です。
「限年紀沽却」とは、期限を限って売り払うことだそうです
ということは、期限が過ぎたら帰ってくるのでしょね
現代の感覚だと、一定期間貸すというのでしょう


でも、時代によって人々の経済感覚は異なりますから、当時の人には一定期間手を離れるのは売るという感覚なのでしょうか


「訖」は終わるの意味です。
「期限を限って売った期限が終わったら」って、何年契約で売ったのでしょうか


この3ヶ所の持ち主は太田貞宗ですよね。
売ったのも太田貞宗ですよね。
買い手は誰でしょう?

こんな条件が付いた寄進状で現存するものは、他にはなかなかないようです。


一関博物館のサイトで見つけた「骨寺村所出物日記事」の読み下しに、一ヶ所だけ限年紀沽却の文字がありました


「手子四郎跡田屋敷 是ハ先立限年紀沽却之間除之」
手子四郎跡の田屋敷は限年紀沽却の間は、課税免除という事でしょうか
限年紀沽却の間は、買い手が税を負担するという事でしょうか
どちらにしても、荘園領主の中尊寺は、損をするはずありませんものね


限年紀沽却は、全国的に行われていたのでしょうか


太田貞宗寄進状が書かれたのは建武元年(1334)です。
人々の経済感覚は鎌倉時代です。
普通に考えると、太田貞宗が限年紀沽却したのは、建武以前の鎌倉時代になります


長楽寺文書には、鎌倉幕府が土地売買を認めるという文書がいくつもあります。
こんなにも土地の売買がさかんで、幕府は認めていた
太田さん許可もらったのかな

「限年紀沽却の期限がきたら、諏訪神社に寄進するよ」ということは、今はまだ期限が来ていないということです。
今すぐ寄進できる状態ではないのに、寄進の約束をする必要があったのは、どうしてでしょう


諏訪神社は現在も存在します。
ひめちゃんたちも、よく散歩してます。
でも、現在は一社のみです。
中世においては、上下両社だったと言いますけど。
最初からここにあったのか、移ってきたのかも分かりません。
現存の諏訪神社は、膳城&山上城&葛塚城からもほぼ等距離です

 

 

初出 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 カテゴリー 葛塚村考

改稿 2024.05.29

 

2020年の今頃、6月6日常広寺での鄕右衛門忌でもミニ講演会に備えて、以前考察した葛塚村についての記事を読み返してます。

そのときに編集したのが、カテゴリー葛塚村考です。

今回は、「カテゴリー葛塚村考」をメインに、山上保を確認してます

 

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太田貞宗寄進状・その3

2024-05-28 09:48:16 | 山上保の物語・総集編

朝から大雨の予報です

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、今日は一日仲おうち犬です。

貧乏カッパが始まる前の、レインコート姿があるかな?

2020年の5月の写真探してみますけど、ありません

でも、元気な笑顔の写真がいっぱいです

 

獅子丸が実家に帰って丸一年、小次郎パパも七海ママも、まだ健在でした

 

 

 

太田貞宗寄進状の本文の最初に、寄進の対象になった場所が上げられています。


597 太田貞宗寄進状
    ○神奈川県 鎌倉中央図書館所蔵神田孝平氏所蔵文書

寄進
 上野国山上葛塚村諏訪両社上下神事幷燈油等料田事
右、當保田部村新平三入道作田屋敷幷葛塚村和泉坊作田屋敷、源六入道跡田屋敷河ハタ田等、限年紀沽却訖、年紀以後、所寄進當社也、以件得分、神事料田不足之時、且令勤行祭祀、且可備當社燈油也、為祝管領可勤彼役也、乃寄進状如件、
     建武元年十一月廿七日
        前美作権守貞宗 (花押25)


「右、当保田部村新平三入道作田屋敷幷葛塚村和泉坊作田屋敷、源六入道跡田屋敷」の部分です。

まず当保とあるのは、山上保です。
そうすると、この文書の建武元年には山上保という概念は生きていた
実態は分からないけれど、山上保はどこか、みんな知っていた
そして、前美作権守(さきのみまさかごんのかみ)太田貞宗が」支配していた

 


寄進の対象になった第一の場所は、「田部村新平三入道作田屋敷」です。
田部村はどこかよく分かりませんが、旧粕川村の田面(たなぼ)だろうといわれています
上野国山上の西の膳の南です。
そこの「新平三入道」、人名で男性です。
入道とは、お坊さんになってはいないけれど、深く仏教に帰依している人でしょうか?
「新平三」とは「新・平三」かな
もしかして分家

次は「葛塚村和泉坊作田屋敷」です。
葛塚は葛塚城(館)のある、山上です。
「和泉坊」も仏教っぽい男性の人名です

ともに、彼らは作田屋敷を耕し住んでいます


次は「源六入道跡田屋敷」です。
入道した「源六」さんの子孫(たぶん息子か孫)、源六入道がちょっとした人物だったのでしょう

まあ先の二人は、そこそこの年齢、中高年というイメージです。
源六入道跡は若いかもしれません。
仏教に帰依するにはそれなりにお金がかかる事だと思います。
源六入道跡は、まだそちらのほうにお金をつかっていないのかもしれません。


また、田屋敷と作田屋敷は違います


参考になるのが、岩手県一関博物館の「骨寺村所出物日記事」という文書です。
「骨寺村」は中尊寺の荘園です
確か去年行って企画展のコピーとかもらってきたはずですが行方不明です

webサイトを参考に田屋敷と作田屋敷、人名を考えます


骨寺村では、5人が田屋敷分に課税されています。
13人が作田屋敷分に課税されています。

5人の田屋敷分には、米の他に色々課税されています。
13人の作田屋敷分は、2貫文から2百文の課税です。
こちらはお金で払うのでしょうか?


貨幣経済が、中世骨寺村にまで浸透していたということになりそうです
平泉の奧、達谷窟(たっこくのいわや)のさらに奧、厳美渓(げんびけい)の奧なのです

結論をいうと、田屋敷は自作農というか大きな農家です
作田屋敷は小作農というか小規模の農家です


田部村の「新平三入道」は作田屋敷なので、まあ小作農的です
葛塚村の「和泉坊」は作田屋敷なので、小作農的です
葛塚村の「入道源六跡」は田屋敷なので、まあ自作農です

規模の大きい農民を、最後に出しているのは何か理由があるのでしょうか?

3人とも田畑と家がセットです。
ということは、家族もこれから諏訪神社の為の人生になちゃいそうです
仏教に帰依したのに
どこのお寺が世話してに入道になったのでしょう
作田屋敷の2人も仏教と関わりをもっているので、お金どうしたのでしょう、心配です


不思議なことに、骨寺村の人名も山上の人と似たりよったりです
平三太郎入道、平三二郎、三河坊などです。




田部村は現在の前橋市粕川町の田面(たなぼ)といわれています。
葛塚村は現在の桐生市新里町山上(勢多郡山上村)のあたりといわれています。


明治以降何度も合併が繰り返されましたけど、何故か粕川村と山上村の合併はありませんでした

どうしてなんだろう
けれども不思議なことに、山上の常廣寺の檀家は田面にまで存在します
意外な所に山上保が生きているのです

 

 

初出 2019.05.28 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 カテゴリー・中世葛塚村考

改稿 2024.05.28

 

 

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太田貞宗寄進状・その2

2024-05-26 21:20:29 | 山上保の物語・総集編

ひめちゃんの夕方散歩は、ほぼ毎日南の方に行きます。

中学校の信号付近、またはさらに南の町組・集会所付近まで行ってきます。

この集会所付近には、宿(町組)に入る木戸があったといいます。

宿は旅籠はないけれど、酒屋や桶屋・豆腐屋・下駄屋・紺屋などがある商店街だったそうです。

ミニミニの白井宿みたいなイメージかな?

 

ひめちゃんが大好きだったケンくんちは、商店街からちょっと外れます。

今日は、ケンくんアーカイブでいきましょう

2022年の6月、ひめちゃんとタバサねーちゃんは、朝散歩の帰りによくケンくんちに寄りました

時には道で感激の出会いもありました

タバサねーちゃんも、いつの間にかケンくんが好きになってました

 

 

 

太田貞宗寄進状・その2

 

597 太田貞宗寄進状
    ○神奈川県 鎌倉中央図書館所蔵神田孝平氏所蔵文書

寄進
 上野国山上葛塚村諏訪両社上下神事幷燈油等料田事
右、當保田部村新平三入道作田屋敷幷葛塚村和泉坊作田屋敷、源六入道跡田屋敷河ハタ田等、限年紀沽却訖、年紀以後、所寄進當社也、以件得分、神事料田不足之時、且令勤行祭祀、且可備當社燈油也、為祝管領可勤彼役也、乃寄進状如件、
     建武元年十一月廿七日
        前美作権守貞宗 (花押25)


まず冒頭の「上野国山上葛塚村諏訪両社上下神事幷燈油等料田事」をしつこく考察します


山上は山上保(やまがみほ)だったところという事でしょう。
範囲はどこらへんまでかよくわかりませんけど、西は旧粕川村の膳・田面(たなぼ)、東は旧新里村新川(にっかわ)あたりまでだったとする見解があります
保は国の荘園という事なので、山上氏は最初は朝廷に寄進して、その保を管理していたのでしょうか
山上保についての研究というか、保についての研究が、待たれるところです。


葛塚村とは普通に考えると、古墳がいくつもあって葛が生い茂っている村と考えられます
ひめちゃんちのあたりには、桜塚・塚越など塚のつく地名が残っています。

桜塚は、堀之内のすぐ東です。
かつて大きな桜の木がある塚(墓地)があったそうです。


堀之内の南・塚越には今も古墳があります。
地元では庚申塚古墳と呼んでいます。
墳丘上から滑り降りて遊んだという老人もいます


葛はつる性の植物で、今はあまり歓迎されていません。
けれど、かつては飼料として重宝されました。
牛馬を飼うには重宝な植物だったのです。
葛が豊富だということは、たくさんの牛馬の飼育ができます。
また、肥大した根のデンプンはくず粉として食用になりました。
さらに葛の繊維で編んだ葛布は新石器時代から存在するという事です。(ウイキペデイアより)

葛が生い茂る村は、産業がいっぱいある豊かな村だったかもしれません

諏訪神社は、山上高光が諏訪まで行って勧請してきたというのが定説になっています。
でも、証明する文書は存在しません
いつからそう言われているのかもわかりません
上下二つの諏訪神社が、建武元年には存在したのです。
諏訪神社は大きな力を持っていたようですが、この時代山上氏はどうしていたのでしょう?


この時代諏訪神社と共に大きな力を持っていたのは、太田貞宗です。
山上の諏訪神社に太田貞宗が大きな影響力を持っていたのです
諏訪神社は本当に山上氏が勧請したものなのでしょうか?


山上六郎左衛門が新田義貞に従って鎌倉責めに出陣する際は、絶対に戦勝祈願をしていなければなりません。
そんな話聞いた事ありませーん

それに、山上さんは新田義貞に鎌倉責めに誘われるような勢力を持っていたのでしょうか???

ええッ、上野国山上に山上六郎左衛門さん存在したの

危うし、山上六郎左衛門の存在


神社としてやっていくにはそれなりの収入が必要ですから、税金を納めてくれる田んぼ等が必要です。
燈油料とは、御灯明や屋外の灯篭の油を買う資金用という事でしょうか?

明治時代に電気が来るまで、あかりは菜種油を燃やしてとっていたようです。
ところが菜種油が、一般的になるのは江戸時代になってからです。
それ以前はエゴマ油でした。
諏訪神社もこの時代はエゴマ油を使っていたと思われます。

エゴマは最近健康食品として注目されているようです。

 

初出 2019.05.25 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 カテゴリー中世葛塚村考

改稿 2024.05.26

 

(つづく)

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太田貞宗寄進状・その1

2024-05-25 14:53:12 | 山上保の物語・総集編

爽やかな朝です

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内を西に出ます。

タバサねーちゃんも、今朝は調子がいいようです

タバちゃん、あと一ヶ月ちょっとで16歳です

 

 

 

「角川日本地名大辞典(旧地名編)」の「葛塚村(中世)」で、葛塚村関連の文書として5つの文書があがっています。
 1、太田貞宗寄進状(建武元年11月27日)
 2、宇都宮氏綱宛鎌倉公方足利基氏書状(南北朝期年未詳3月18日)
 3、赤堀上野介宛上杉顕定書状(年未詳3月16日)
 4、由良成繁事書案(永禄10年)
 5、赤堀上野介宛上杉顕定書状(年未詳12月18日)

3の文書は『群馬県史資料編7』では、長享2年3月18日としています。
そして、5の文書は『群馬県史資料編7』では、長享元年12月18日としています。

そうすると、葛塚村関連の文書を年代順に並べ替える必要があります。

 1、太田貞宗寄進状(建武元年11月27日)
 2、宇都宮氏綱宛鎌倉公方足利基氏書状(南北朝期年未詳3月18日)
 3、赤堀上野介宛上杉顕定書状(長享元年12月18日)
 4、赤堀上野介宛上杉顕定書状(長享2年3月16日)
 5、由良成繁事書案(永禄10年)

この5つの文書を確認していきます

 

 

「太田貞宗寄進状」から始めます

「太田貞宗寄進状」は『群馬県史資料編6中世2』にあります
なぜか桐生市立図書館の蔵書検索になかったので、古本で手に入れました。

届いて開いたら、いきなり「太田貞宗寄進状」の写真がありました



まるで開けるのを待っていたようです
花押もあります


597 太田貞宗寄進状
    ○神奈川県 鎌倉中央図書館所蔵神田孝平氏所蔵文書

寄進
 上野国山上葛塚村諏訪両社上下神事幷燈油等料田事
右、當保田部村新平三入道作田屋敷幷葛塚村和泉坊作田屋敷、源六入道跡田屋敷河ハタ田等、限年紀沽却訖、年紀以後、所寄進當社也、以件得分、神事料田不足之時、且令勤行祭祀、且可備當社燈油也、為祝管領可勤彼役也、乃寄進状如件、
     建武元年十一月廿七日
        前美作権守貞宗 (花押25)



まず遠い(といっても関東ですけど)、鎌倉にあった文書だという事が、ビックリです。
太田貞宗については、ほとんどわかりません


太田氏は鎌倉幕府の事務官僚三善氏の流れということです。

『花押かがみ5』(2002吉川弘文館)に、「太田貞宗、別名千熊丸、民部七郎、美作権守」とあるようです。
残念ながら、桐生市立図書館にもありませんし、出回っている古書もないようです。

美作(みまさか、岡山県)とは、またずいぶん離れたところで、山上の人々はどこだか見当も付かないのでは?

権守(ごんのかみ)とは、だいたい守(受領)と同じということです。
「権」には、定員外とか、仮のという意味が元々あったらしいですけど。
そうすると、太田貞宗さんはかなりの実力者ですね。
でも「前美作権守」ということは、今はそれ以上の肩書きを持っていないということになります。

 

新里の人が大好きな山上氏には、肩書きというか官位がありません

鎌倉時代に、富を蓄えた御家人たちは、官位を買ったと言うことです

最近読んでいる本『買い物の日本史』(本郷恵子 角川ソフィア文庫)で知りました

官位のある山上さん、いませんね

 

 

(つづく)

 

初出 2019.05.25 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 カテゴリー 中世葛塚村考

改稿 2024.05.25

 

まとめてしまおうかとも思いましたけど、細かく検討した足跡を残しておくことにしました。

しばらくまめに更新します

山上ロマンで真実の見えなくなっている、中世山上保(葛塚村)の姿を、少しでも明らかにできればいいなあと思います

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中世葛塚村考

2024-05-21 14:06:10 | 山上保の物語・総集編

晴れました

強い日差しの中で、ひめちゃんは天神田(字・天神の田んぼ)を歩いてきました。

 

昨日はお天気が悪く、ひめちゃんとタバサねーちゃんは、夜は室内犬をしました。

でも、廊下で寝たり、犬用ベッドで寝たり

そろそろ毛皮を着たひめちゃんたちには、お外のお部屋の方がいいみたいです。

 

5年前の5月、みんないました

七海ママも小次郎パパも、ののこねーちゃんも獅子丸も。

大勢の犬家族で暮らせてよかったね

 

 

 

中世葛塚村考

 

ひめちゃんちのあたりは、中世には葛塚村(くずづかむら)と呼ばれていました。

それ以前には、山上保(やまがみほ)と呼ばれる、国の荘園だったと言います。

山上保の記事を集める前に、山上保・葛塚村について確認しておきましょう

山上保・葛塚村については、FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」に、いろいろ書いてます

整理しながら、山上保・葛塚村について確認していきましょう。

ちょっと遠い総集編から始まりですけど、まあ「ひめブログ」なのでご容赦くださいませ

 

 

平安時代後期、天仁元年(1108)7月21日、浅間山の大噴火が起こりました。

火山の噴出物で、赤南麓南麓の田畑は壊滅的な被害を受けました

そんな状況の中で、藤姓足利氏の武士団は復興に立ち上がりました。

そして、開発された土地は、有力貴族や寺社に寄進されて荘園と成、国衙領(保)になりました。

上野国山上(こうずけのくにやまがみ)のあたりは、山上保(やまがみほ)となりました

山上保は、旧勢多郡新里村の山上・新川から旧勢多郡粕川村の田面(たなぼ)あたりまで及んでいたようです

 

そしてこの区域の中に、中世には葛塚村と呼ばれる村が出現したのです。

「角川日本地名大辞典(旧地名編)」の「葛塚村(中世)」で、葛塚村関連の文書として5つの文書があがっています。


 1、太田貞宗寄進状(建武元年11月27日)
 2、宇都宮氏綱宛鎌倉公方足利基氏書状(南北朝期年未詳3月18日)
 3、赤堀上野介宛上杉顕定書状(年未詳3月16日)
 4、由良成繁事書案(永禄10年)
 5、赤堀上野介宛上杉顕定書状(年未詳12月18日)

3の文書は『群馬県史資料編7』では、長享2年3月18日としています。
そして、5の文書は『群馬県史資料編7』では、長享元年12月18日としています。

そうすると、葛塚村関連の文書を年代順に並べ替える必要があります。

 1、太田貞宗寄進状(建武元年11月27日)
 2、宇都宮氏綱宛鎌倉公方足利基氏書状(南北朝期年未詳3月18日)
 3、赤堀上野介宛上杉顕定書状(長享元年12月18日)
 4、赤堀上野介宛上杉顕定書状(長享2年3月16日)
 5、由良成繁事書案(永禄10年)

1の太田貞宗寄進状(建武元年11月27日)と2の宇都宮氏綱宛鎌倉公方足利基氏書状(南北朝期年未詳3月18日)から、南北朝期に、この葛塚を支配(領有)していたのは、太田氏だと知れます


そして、後者の文書から、葛塚には違乱の輩(いらんのやから)がいて、太田氏の支配に反抗していた事がわかります。
それは、たぶん山上氏のことだと思われます。

平安時代の終わり頃に、山上にやって来た山上さんは、没落していたけど、「おらっちは古りーうちなんだから」と、太田さんの言うことをきかなかったのです。

3の長享元年(1488)12月18日の書状は、長享元年12月14日、善・山上の地へ長尾蔵人と佐野周防守が攻めてきた時、赤堀上野介が駆けつけて活躍した報告書にたいする返信です。

 

4の長享2年(1489)3月16日の書状は、葛塚の要害へ佐野周防守が攻めて来た時、前回と同じように赤堀上野介が駆けつけて活躍した報告書にたいする返信です。


葛塚の地は長享の乱の戦場の一つだったのです

 

5番目、永禄10年(1567)の由良成繁事案書は、上杉謙信と袂を分かち北条氏邦の陣に駆け込んだ時、善・山上氏について「あいつらいいったいなんなんだい?」と聞かれたときの報告書です。

 

山上には古墳がいくつもあったようです。
現存するのはわずかですけど


弘安8年(1285)、安達騒動で上野の国の御家人達は没落します
得宗勢力連なる実務官僚の三善氏は、安達氏が守護だった上野・武蔵の御家人領や生活が困窮して売られた土地などを手に入れ、あちこちに進出してきます。
山上さんの土地も三善さんのものになったのでしょう


やがて、三善さんは太田さんとなり善さんとなったのでしょう。
もしかしたら最初から三善さんの一族の太田さんがやってきたのかもしれませんね。
善に住んで善さんとなりました。
よく三善から善になったと言われますが、太田さんが善に住んで善さんになったのです。
ちゃんとした文書もあるのに、太田さんのことは、忘れられているようです

 

これらの5編の文書をじっくり眺めてみたいと思います

素人なりに、でも地元の強みで眺めてみます

 

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