黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

桐生川紀行総集編・細川丹後守の記憶

2019-04-30 15:04:52 | 桐生川紀行
雨は降り続いています。
みんなまたレインコートを着ていくようになりそうです。

桐生川紀行の頃(昨年11月)、菊とひめちゃんです。



菊は生命力の強い植物です。
けれども、ずーっと植えっぱなしだとだめになることもあるとか聞きます。
この菊はここにずーっとあるので、少しどこかに移そうかな?






桐生川沿いに下ります。
菱町3丁目の信号にでました。
宇都宮神社に行きたいので左折します。
文昌寺入り口を通過して菱小前の信号を右折して桐生川と同じ方向に流れます。

菱小学校の校門の所にも菱カルタがあります。
車で乗り付けたりしたら不審者に思われてしまいそうですけど、この間菱ハイキングの帰りにここを歩いたのです
ちゃんと写真に撮ってあります





多行松(たぎょうしょう) 児童とともに百余年

小学校がここに移転したときに植えられた多行松7本が、百年余りたっても元気に茂っているのですね。
多行松って、枝分かれする松でしょうか?



さて、信号を右折して宇都宮神社へ。
ちょっと曲がり角がわかりにくかったけど、なんとかたどり着きました。



菱カルタがあります。



杉木立 菱の鎮守の宇都宮神社

応永19年(1412)菱領主細川丹後守の勧請で建立、宇都宮二荒山神社から分祀して祀ったと伝えられている。
とあります。

菱カルタの説明によると、石の鳥居があるはずですが、ありません。



細川氏が滅ぼされた後、仇討ちのために、膳因幡守が出撃したらしい諏訪神社の石の一の鳥居は、東北大震災の時に崩れ落ちました。
ここの石の鳥居ももしかしたらそのときに崩れ落ちたかもしれませんね。
だとしたら、何かの因縁?
菱カルタの絵に赤い鳥居はないので、石の鳥居の後に建てられたのでしょうか?



地味な拝殿ですが、裏へ回ってみると、立派な本殿がありました。





菱の鎮守ですね



余計なものはないすっきりした広い境内ですが、そろばん教室が奥の方にありました。
杉木立はちょっと見当たりません。

この神社を勧請した細川丹後守は、菱細川氏の初代です
5代目の内膳の時に、名馬小雀が原因で桐生氏に滅ぼされたといわれているのです









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桐生川紀行総集編・偉大な作家の記憶

2019-04-30 14:32:58 | 桐生川紀行
雨の一日です。
小やみになることはありません。
高齢の七海ママと小次郎パパは、一日中室内犬です。
ママは足を痛めてから、行動範囲が狭くなりました。
桐生川紀行の頃(昨年11月)は、ひめちゃん&タバサねーちゃんと3名でよく昼散歩を楽しみました



ひめちゃんとおねーちゃん達は、小屋にもぐって雨が止むのを待ってます。
パパとママは、いびきをかきながらお昼寝です




拷機姫神社(たくはたひめじんじゃ)の階段を降りて、右手に行くと菱カルタがあります。
ちょっとわかりにくい、というか近づきがたい所にあります。








偉大なる 郷土の作家南川潤

南川潤って、誰ですか?
知りません。
偉大なる作家なのに、ごめんなさい

東京生まれで昭和19年に疎開してきて、昭和30年に桐生で永眠とあります。
桐生滞在は10年余りなのですね。
奥さんの郷里桐生に疎開したということですね。
このお宅がそうなのでしょうか?


10年余りの滞在でも、郷土の偉大なる作家と受け入れた菱の人々は心の広い人々です。
ひめちゃんちのおかあさんは、新里村民を30年以上やってますけど(厳密には最近は合併によって桐生市民ですけど)、未だによそ者扱いで蚊帳の外に置かれることがあります
菱の人は心が広いですね
きっと郷土の偉大な作家の作品は読み継がれているのでしょう。


さて桐生川の土手を歩いて車に戻りましょう。





川幅を広くとってます。
大水になると、このくらいないと氾濫してしまうのでしょう。
今では川の氾濫なんてほとんど聞かなくなりました。
ひめちゃんちのおかあさんは子供の頃、何度か体験しています。
実家の近くの石田川が氾濫し、床下浸水になってしまったのです

あの山は桐生が岡公園の山でしょうか?
そうすると、南川潤が眠る円満寺もあの山にあるのです








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東国花の寺・龍真寺

2019-04-29 16:24:35 | 群馬県・旧勢多郡
ひめちゃんは、戦闘モードです




向こうに、勝手にライバルだと思っている黒柴デナちゃんの姿が見えたのです。
朝、獅子丸家に行く前、七海ママのちい散歩につきあった時です。
ひめちゃんは、実戦の経験はありません。
でも、戦闘モードにはよくなります。
ナちゃんは、曲がっていってしまいました。
ママをおうちにおいて、獅子丸を迎えに行きます





前日からの雨があがった25日午前中、龍真寺の前を通りました。




東国花の寺ののぼり旗が立っていました。
でも、駐車場に車はほとんどありませんでした。

用足しを終えて、昼ごろ寄ってみました。
龍真寺は、膳城の北にある龍源寺の末寺です。
龍真寺は、龍源寺第6世輝翁善陽大和尚によって、元和2年(1616)に開山された曹洞宗のお寺です。
龍源寺の本寺は、栃木の大中寺です。
大中寺は戦国時代上杉氏と関係が深く、上杉謙信と北条氏康が会見した寺です。
龍源寺は、関東管領方として行動し続けた膳氏との不快関わりで、本末の関係ができたのでしょう。



山門前の鶏亀地蔵(けいきじぞう)と六地蔵です。
(都合で2名様だけのご出演ですけど、6名さまです。)



いただいたチラシによれば、
この鶏亀地蔵は天明元年(1781)に11世住職鏡水が建立。建立の際に悪疫が退散し、付近の鶏が大声で鳴き、亀がそばに来た事から「鶏亀」と名付けられた。
この鶏亀地蔵の脇が本来の山門です。


おや、車がどんどん増えます
しっかり雨があがって晴れてきたので、人々が出だしたようです。




しだれ桜はもうおしまいですね。
こうならないと牡丹の季節にならないようですね。
下に小さなお堂があります。
気になるけど、開けるわけにはいきません

きれいに咲いていました。




子育て地蔵のそばはまだです。
少し裏手になるせいでしょう。




本堂にお参りです






御朱印をお願いして、さらに散策です











いくつかの牡丹には、傘がさしてありました。
今年は花散らしの雨がふったのです


新緑の中に一輪の椿、いいですね



紅葉の季節も良さそうです。


白いシャクナゲです。



さりげなく、それでいて存在感あります


こちらのシャクナゲは、少しピンクを帯びています。



牡丹のピンクや牡丹色や赤と重ならないのがいいですね



牡丹満開にはまだ少し早いですけど、さすがに東国花の寺です。
牡丹以外にもいい雰囲気の花や木々があります





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひめちゃん、花ざかりの葛塚を行く!

2019-04-27 16:26:00 | 群馬県・旧勢多郡
冷たい雨は、今朝はあがっていました
ひめちゃんは、一足先に獅子丸を迎えに行きました。
堀之内を北に出ようとすると、向こうから見たことある3名様がやって来ます。



小次郎パパ&タバサねーちゃん&ののこねーちゃんです。
ひめちゃんは、遊ぼの姿勢で待ちます。



パパとちょっと絡んで、みんな一緒に堀之内を出て、高縄(たかなわ)の摩崖仏の方に向かいます。
葛塚城の堀切北端あたりが、花ざかりです
ピンクのジュータンを背景に記念撮影です。








少し行くと、よく手入れされたガーデンがあります





牡丹とシャクヤクと薔薇です


高縄の摩崖仏の後ろを回って帰ります。
うわー、藤がきれい



花盛りです

堀之内に戻ります。
しだれ桜も葉桜になってます。



こうなると牡丹が咲く季節なのですね。
ひめちゃんちのは、咲いてるかな?


ひめちゃんちのガーデンで、最初に目に付いたのはダッチアイリスでした。



雨上がりできれいな青です


色が変わっていく不思議なチューリップです。



雨に打たれてしなだれた風情もかわいい


牡丹が咲きそうです
この牡丹は数年前に、新田の牡丹寺・大慶寺で購入してきたものです。



2時間後に行くと咲いていました



今日咲いてよかった
昨日だと、花散らしの雨に、泣かされたかも知れません。
一昨日行った龍真寺(りゅうしんじ)の牡丹に、傘がいっぱいさしてあったのもうなずけます







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桐生川紀行総集編・紋織り弥兵衛の心意気

2019-04-26 16:35:42 | 桐生川紀行
今日は雨でうすら寒い一日でした。
お天気のよかった先日の朝散歩です。





小次郎パパは、子供達の後ろを気ままにお散歩する事が多くなりました。



パパは、この夏13歳になります。





普門寺から、桐生川沿いにさらに下ります。
カーブを曲がりきらないうちに神社があります。

今回は、選挙戦のまっただ中で、選挙カーがいて駐車できませんでした。

前回は、道の反対側の空き地にちょっと駐車て探検できました



石の鳥居ではありませんね。
何か金属のようですけど?


階段を上りきると、左手に菱カルタがあります。



ときはすぎ いろか残して機(はた)の音  [菱町全体]

西陣の織物師中村弥兵衛が伝授した高機の技術により、江戸時代の桐生は、紋織物の発展と地方活性の礎を築く。以来菱村でも、撚糸、染色、機を家業とする人々が多くなった。

下野の国・菱村でも桐生の織物を担っていたんですね。


草をかき分け、拝殿に出ます。



近年の再建でしょうか?
わりとシンプルです。
また、菱カルタがあります。



よみがえれ 紋織り弥兵衛の心意気

京都西陣の織物師中村弥兵衛が元文3年(1738)に一色に来て、周東平蔵のもとで紗綾機(高機)を組み立てて、紋織りの技術を伝授した。その偉業をたたえ弥兵衛を祀る神とした生祠機神神社を元文4年9月一色に建立した

とあります。


その後仁田山の山機神社と合祀して、拷機姫神社(たくはたひめじんじゃ)としてここに再建した
とあります。


裏に回って本殿に参拝です。




りっぱな石宮です。
幣(ぬさ)も新しそうですけど、周囲から雑草が侵入しています

戻る途中もひっつき草に悩まされました
境内から桐生川を望みます。



あれから、雨も降りました。
この紅葉ももう散ってしまっているでしょうね。
この日は11月30日でした。

桐生お召しを検索すると、
江戸時代の享保5年(1720)に当時の織物の最大産地西陣は大火で焦土と化し、多くの織工たちが各地に流れ、桐生には弥兵衛と吉兵衛の二人が流れ着いた。彼らは高機と染色技術を桐生にもたらした。その技法によって、柳条縮緬つまり桐生お召しが生産された。(「染と織」地域別辞典より)

と出てきます。


それは、生き神様として祀るでしょう
でも吉兵衛さんはどうして祀られなかったのでしょうか?



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする