黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

筑波山神社・歌垣の面影なしの万葉歌碑

2019-11-30 21:59:34 | つくば紀行

赤城山初冠雪です

ひめちゃんと獅子丸は、岩神沼に着きました。

雪のせいか、いつもはめだつ地蔵岳がはっきり分かりません。

もう少し北に上って、上の沼を廻って帰ります。

ここから見える赤城山は、かなり白いです

左の白いガードレールの向こうは新沼です。

ここからUターンして帰ります。

白鷺(しらさぎ)と鴨(かも)です

朝ご飯中かな?

彼らはまもなく翼を広げて、いつもの芦原に行ってしまいました

赤城山は、しっかりと雪をかぶってます。

鳥たちの競演とでも言うのでしょうか?

たくさんの鳥の姿が見えました

 

 

 

ワープステーション江戸のあと、筑波山神社に向かいます。

車中から見えた筑波山です

右の方に赤い鳥居が見えます

筑波山もみじまつりの旗がはためいていました。

 

バスは参道下の駐車場に入ってくれました。

神社はすぐと思いきや、こんな看板が目立ちます

山頂にはケーブルカーで行くべきなのかな?

御朱印もらって境内散策して、集合時間になってしまいそう。

ケーブルカーはパスしよう。

 

行く手に朱塗りのきれいな橋があります。

神様が渡る橋です。

 

つくば道の碑があります。

筑波山は万葉の昔から神の山と仰がれてきた。近世には江戸城の鬼門を守る祈願所となり、歴代将軍の崇高も厚かった。この道は三代家光の時に参詣道として開設され、往時の信仰の道を今に伝えるものである。

 

随神門が見えてきます。

狛犬です。

左右で製作年代が違うような印象です。

 

階段を上がって、随神門です。

左は、倭建命(やまとたけるのみこと)です

東征の途中、筑波山に登拝したんですか

連歌(れんが)は、倭建命に始まるのですね

そう、連歌は「筑波の道」だったですね。

 

右は、豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)です。

「崇神天皇の皇子で、長く此の地を治めた」とあります。

「下毛君、上野喜美の祖」ともあります

 

門をくぐると、左に万葉歌碑があります。

そう、ここは歌垣で有名な筑波山でした

付近(境内)の案内図もあります。

万葉歌碑を確認です。

あれ、有名な嬥歌(かがい・歌垣)の歌がない

『万葉集』の筑波山の歌といったら、絶対これだと思うんですけど

(巻91759

鷲の住む  筑波の山の  裳羽服津の  その津の上に  率ひて  未通女壮士の  行き集ひ  かがふ嬥歌に  人妻に  我も交らむ  我が妻に  他も言問へ  この山を  領く神の  昔より  禁めぬ行事ぞ  今日のみは  めぐしもな見そ  言も咎むな   

わしのすむ つくばのやまの もはきつの そのつのうえに あともいて おとめおとこの ゆきつどい かがうかがいに ひとづまに われもまじらん わがつまに ひともこととえ このやまを うしわくかみの むかしより いさめぬわざぞ きょうのみは めぐしもなみそ こともとがむな 

鷲の住む筑波の山の裳羽服津の、その和泉のほとりに、つれだって女や男が集まり、歌をかけ合う嬥歌で、他人の妻に私も交わろう。わが妻に他人も言葉をかけよ。この山をお治めになる神が、昔から禁じない事だ。今日だけは監視をするな。咎め事もするな。

(テキスト・講談社文庫『万葉集(二)』中西進)

 

現代のモラルでは、品行方正とは言えないかも知れません。

でも、万葉のおおらかな時代の歌と割り切れば、モラルがどうのという問題ではないように思うのですけど

茂林寺の狸が浴衣を着ているのが、思い出されます。

 

(つづく)

   

 

 

 

 

 

 

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ワープステーション江戸に行ってきました

2019-11-29 19:34:40 | つくば紀行

寒い寒い朝でした。

ひめちゃんと獅子丸がお散歩に出ると、あたり一面霜が降りていました

この秋一番の冷え込みです。

堀之内を北に出ます。

わあー、行く手の畑も霜が降りてる

行く手には、霜柱も立ってました

ひめちゃんたちは、蕨沢川の上流に行ってきました。

蕨沢川は、白いガードレールの左端辺りから流れ出しています。

穏やかな赤城山です

まだ、積雪はないようです。

付近の豚舎は、イノシシ対策でしょうか、また厳重にフンスを廻らせました。

このあたりには、イノシシが出没しているということでしょう。

 

Uターンして田んぼ中を下ります。

葛塚城の西の堀切跡と思われますけど、大昔の川が流れ下ったという印象もあります。

地形を利用して、堀切や館を造ったのでしょう

 

堀之内に戻ります。

うっすらと、雪をかぶった浅間山が見えます

 

 

 

先週、バスツアーで茨城方面に行きました。

まず、つくばみらい市の「ワープステーション江戸」を見学です

江戸時代の町並みが再現されていて、時代劇の撮影にも使われるということです。

撮影がない日だったので、自由に見学できました。

 

わー、江戸時代の町並みだ

 

ちょっと戦国時代です。

向こうの門は、江戸時代のようです。

 

左に見える門(江戸城の大手門とか)をくぐります。

 お堀には鯉がいます。

それで受付で鯉の餌を売っていたのです

 

門のむこうには、戦国時代のような風景が見えます。

うまく使い分けて撮影が行われるのでしょう。

 

門を入って少し行くと池があります。

お姫様とお殿様が散策していそうな雰囲気です。

 

さっきの門を出ます。

お城ですね

江戸城の風景のようです

おや何かいます

アオサギです。

人工の風景が生き生きしてきます

 

町並みに戻ります。

 

明治の町もありました。

 

都電?

路面電車ですね

昔々、仙台市民をしていた頃、仙台には路面電車の市電が走っていました

あれから、幾星霜、たくさんの時が流れました

 

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嵐山紀行番外編総集編・畠山重忠公史跡公園

2019-11-28 20:10:44 | 嵐山紀行

すっきりとしない朝でしたけど、雨の心配はなさそうです。

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を西に出て、諏訪神社の向こうの高台を歩いてきました。

赤城山は、その姿をはっきりと見せています

ここには、懐かしいサイロがいくつもあります。

ブロッコリー畑のそばを通ります。

ブロッコリー畑の向こうには、榛名山が見えます

榛名山の南側に見えるはずの浅間山は、その姿を確認できません。

獅子丸が、落ちているブロッコリーの葉っぱを食べ始めました

起用に両手(前足)を使って、おいしそうに食べます

ひめちゃんは、全く関心を示しません。

獅子丸は軸の部分を食べきると、やっと動き出しました

 

 

2018年12月18日

うぐいすの瀬から満福寺の駐車場に戻ります。

まもなく、畠山重忠公史跡公園に着きました。

畠山重忠ではなく、畠山重忠公なのです

地元の人々にとって誇りなのですね。

 

まずやはりこの像が目に入ります。

「こんにちは、お久しぶりです

嵐山の菅谷館跡の穏やかな重忠像とはまったく異なります。

鵯越(ひよどりごえ)の時、愛馬を背負って崖を下りたというシーンですね。

 

像の周りを回って、カルタに気づきました。

かわもと郷土かるたが3枚もあります。

この前来たときはなかったような?

 

畠山重忠公の墓と説明板があります。

畠山重忠公墓並館跡とあります。

鎌倉時代の関東武士を代表する武将である畠山重忠公は、長寛二年(1164)秩父庄司重能の二男として、現在のこの地の畠山館に生まれ幼名を氏王丸と言い、後に畠山庄司次郎重忠となった。

剛勇にして文武両道にすぐれ、源頼朝に仕えて礼節の誉れ高く県北一帯の支配のみならず、伊勢国沼田御厨(三重県)奥州葛岡(岩手県)の地頭食を兼ね、鎌倉武士の鑑として尊敬されたが、頼朝なきあと北条氏に謀られて、元久二年(1205)六月二十二日に二俣川にて一族とともに討たれた。

とあります。

 

畠山重忠が生まれたのはここなのですね

 

重忠の父重能は、大蔵合戦で秩父重隆とその婿・源義賢を討ち、やがて大蔵館に移ったと言います。

菅谷館(嵐山史跡の博物館付近)は大蔵館から近くです。

源義賢の子・2歳の駒王丸は、斉藤実盛が信濃へ逃がします。

駒王丸は後に木曽義仲となるのです。

やがて駒王丸と実盛は悲しい対面をするのです

 

 

五輪塔群はかなり大きいです。

人の背丈と比べると大きさが見当がつきます。

 

おじさん、ちょっと邪魔

でも、大きさがわかります

 

配置図があります。

そうすると、左の大なのが伝・畠山重忠の墓ですね

配置図の1.2.3です。

配置図の5、6はかなり古く感じられます。

 

なんだか笠懸天神山(群馬県みどり市)の凝灰岩みたいです

 

館跡ということで、わずかに土塁の跡が残り説明板もあります

 

重忠の産湯の井戸です。

菅谷館と畠山館の関係が少しわかりました

最後にこの方にご挨拶します

さようなら、そしてまた逢いましょう

 

 

 

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嵐山紀行番外編総集編・井椋神社とうぐいすの瀬

2019-11-27 15:39:38 | 嵐山紀行

今朝、空にはどんよりとした雲が垂れ込めていました。

でも、雨は降ってません。

ここのところの運動不足の解消で、ひめちゃんと獅子丸は、蕨沢川(わらびさわがわ)の流れ出す童沢沼(どうざわぬま)を目指します。

途中に、牛舎があります。

子牛たちの牛舎のようです。

獅子丸は、何故かこんなポーズを

 

この先に、隣り合った二つの沼があります。

西が童沢沼、東が新沼です。

新沼に到着です。

案の定、赤城山はうっすらとしかその姿を見せてくれません

おや、何かが飛んで行く

白鷺(しらさぎ)です

飛んでるときは、まるでグライダーのようです

いつもの止まり木(?)を目指してます。

おや、また何かが飛んできます

 

おやおや、さらにもう一羽

みんなパトロールの時間だったのかな?

 

 

 

(2018年12月18日)

神社の方に行ってみます。

満福寺の脇から出たので、二の鳥居をくぐります。

 

鳥居の横に説明板があります。

井椋(いぐら)神社は、畠山氏が畠山にやって来たときに秩父から勧請したものだとあります。

社殿の裏の荒川の断崖に鶯(うぐいす)の瀬の碑があるとあります。

 

ええ、うぐいすの瀬はこの神社の裏だったんですか

 

まずは神社にお参りです

拝殿は明るくきれいでした

けっこう新しいかも。

周りには合祀されたいくつもの神社がありました。

 

 

裏へ回ると、うぐいすの瀬の碑と説明板があります。

思いがけず到着できました

この地を鶯の瀬といい、増水時でも川瀬の変わらない浅瀬である。

畠山重忠公が榛沢六郎成清のもとに行き、帰路豪雨に逢い、洪水で渡れないでいるときに一羽の鶯が鳴いて浅瀬を教えてくれたと伝えられており

 とあります。

 

「かわもと郷土かるた」もあります。

郷土の史跡を大事にしているのですね

川本町だったのですね

この故事によって鶯は町の鳥になったともありました。

 

 

前方に満福寺の本堂と観音閣も見えます

 

上流には重忠橋が見えます。

あの橋の少し左に畠山重忠公史跡公園があるのです。

畠山重忠公史跡公園からの帰路は、あの橋を渡りました

 

碑のあたりは公園になっているようです。

少し下に降りられそうです。

川までは降りられませんでしたけど、ベンチやガゼボもありました。

鶯につきものの梅の木はなかったような?

 

この故事の季節はいつなのでしょう?

豪雨で川が増水するのは、梅雨時から夏にかけてのようです。

鶯はいつ頃まで鳴いているのでしょう。

鶯は春に鳴くものというイメージですけど、実は初夏に鳴くのを聞いたことがあります

ずーとずーと昔、仙台の青葉城で聞いたのです。

大手門を入り坂を上りる途中の、木立の中から聞こえたのです。

 

 

二の鳥居を出て、一の鳥居に向かいます。

 

一の鳥居から、満福寺に戻ります

 

 

はからずも、畠山重忠が再興した満福寺に寄り、畠山氏が秩父から勧請した井椋神社に参り、うぐいすの瀬にたどり着き、上流に重忠橋をのぞみました。

偶然かもしれませんが、何かに導かれているような気もします

そのうち、秩父の椋神社(むくじんじゃ)にも行ってみましょう

 

 

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嵐山紀行番外編総集編・白田山満福寺

2019-11-26 15:05:22 | 嵐山紀行

雲の垂れ込める寒い日です。

ひめちゃんと獅子丸は、七海ママの昼散歩につきあいました。

獅子丸が先頭きって、帰ってきました。

7年ぶりに実家に帰ってきたのに、本当に全く遠慮がありません

ひめちゃん、ちょっと浮かない顔です。

ママと二人の時は、子どもに帰れたのに

そのうちに、ママと二人だけでお散歩しようね

 

 

 

(2018年12月18日)畠山の水神様の後、元の道に戻り、畠山重忠公園に向かって走行していると、お寺があります。

赤いクラシックな山門に誘われて、寄り道です。

畠山満福寺

否、白田山満福寺でした。

意味深な山号です

 

山門を入ると、これまた曰くありげな方が

 

 こちらもまたクラシックな本堂です。

 

本堂斜め前に、古い墓石が積まれていました。

 

板碑がたくさんですね。

武蔵国ならではの光景です

 

 

左手にお堂が見えます。

お堂の前に説明板がありました。

「畠山重忠が寿永年間に再興し菩提寺とした」と、あります

やはり白田山は畠山です

「観音閣には重忠の守り本尊が安置されている」と、あります

観音堂ですね

向拝の双龍が、生き生きしています

 

 

すぐ右手に、重忠廟がありました。

 

 

観音閣の左前方には、巨大な板碑があります。

 

やはり武蔵国ですね

 

おばさんは、ちょっと後ろに回りました。

あれ、首のない6地蔵が

 

やはり武蔵でも、廃仏毀釈の時に被害に遭ったお地蔵様が、いっぱいなのですね

 

巨大な板碑の後ろには、武州男衾郡畠山と嘉永元年(1848)の文字が見えます

 

 

庫裏に寄ってみます。

「こんにちは。御朱印いただけますか?」

「うちはやってません。」

「失礼しました。あの、隣に鳥居がありましたけど、こちらの関係ですか?」

「いいえ、関係ありません。秩父の椋神社(むくじんじゃ)の関係らしいですよ。」

「ありがとうございます。ちょっと車を置かせていただきます

 

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