黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

令和2年の竜・初公開(常広寺龍神堂)

2020-01-16 21:07:57 | 竜骨伝記

夕方、ひめちゃんは小次郎パパと、東の牧場の方に行ってきました。

ヤギさんが、道の近くにつながれていました。

 

ひめちゃんは、今日はヤギさんに、あんまり関心が無いようです。

パパもあまり気にしていません。

バイバイ、またね

すぐ後ろには、深い鏑木川が流れています。

ヤギさん、穏やかな日々のようです

ひめちゃんとパパは、サマンサ坂を通って帰ります。

 

 

 

元・獅子丸家(獅子丸が7年間養子にいっていた家)は、400年前に山上の常広寺を開基しました。

その常広寺には、田中藤左衛門が持ってきた竜骨がありました。

でも、その竜骨は、大正12年1月1日に、常広寺とともに焼けてしまいました。

焼け跡から拾い集められた竜骨は桐の箱に収められ、再建された本堂にずーと安置されていました。

近年、龍神堂が建てられ、今はそちらに安置されています。

何故か、八角のお堂です。

 

この龍神堂には、毎年わら細工の竜が奉納されています。

ある檀家さんが、毎年暮れに新しい竜を持ってきて、古い方は下げていくそうです。

 

昨年の暮れに奉納された、新しい竜です

すごいですね、竜です

ワラでここまで表現できるんだ

この天井につるすタイプは、今回初めて奉納されたそうです

 

もう一体、従来タイプが奉納されています

今までは、このタイプ一体だけでした。

竜骨がどこにあるかと言えば、あの幣束の奥かな?

毎年微妙に違うそうです。

 

ちなみに、昨年の竜です。

少し違います

 

常広寺龍神堂は、毎月18日(8月だけ8日)が縁日だそうです

龍神様は、お酒と卵とお餅が大好きだそうです

あれ、御利益は聞いてません

 

 

 

 

 

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田中藤左衛門の記憶 2 (七ツ梅跡)

2019-11-08 20:57:35 | 竜骨伝記

朝、ひめちゃんは獅子丸と、堀之内を北に出て諏訪神社を通って帰ろうとしました。

、黄色い帽子の集団だ

夕方、ひめちゃんは小次郎パパと、堀之内を南に出て諏訪神社の方に廻りました。

あ、また黄色い帽子だ

今日は朝も夕方も、黄色い帽子の小学生に遭遇してしまいました

しばらく、じっと待機して通り過ぎるのを待ちます。

行っちゃった、ああよかった。

やっと落ち着きました

堀之内に戻って、諏訪神社の方を振り返ります。

浅間山が見えます。

つるべ落としの秋の陽、急いで帰りましょう

 

 

深谷の七ツ梅跡にある、「七ツ梅結い房」のTさんに連絡を入れました。

ところが彼は店を閉じて、今は山口県にいるという事でした

七ツ梅跡のテナントで、七ツ梅の創業者・田中藤左衛門と山上の常広寺の関わりを知っているのは、彼だけです。

糸が切れてしまう

とにかく、様子を見に行こう。

10月のある日、台風19号が去って幾日かして出掛けました。

 

駐車場には車がありましたけど、何か静かです。

建物も痛みが進んでいるようです。

思い切って、深谷シネマを訪ねました

七ツ梅の樽だ

向こうにも、七ツ梅の樽

通り過ぎても、寄ったのは初めてでした。

中に入って、またビックリ

わー、七ツ梅のケースだ

当たり前かも知れませんけど、七ツ梅だらけだ

「田中藤左衛門商店」の文字もいっぱいです。


持参した竜骨伝記の記事をまとめたレジメを渡し、田中藤左衛門と山上の常広寺の関わりを簡単に説明しました。

全く知らなかったということで、早速読んでもらいました

映画は500円で1作品見られると言うことですけど、「今度ゆっくり来ます

 

もと「七ツ梅結い房」の方へ行ってみます。


途中のテナントも留守みたいです。

定休日だったのです。

奥の建物が、「結い房」のあった所です。

今は何もありません。

今年の5月はこんなでした。

寂しい、かなり寂しいです

 

レンガの煙突はライトアップされることがあるのでしょうか?

こちらの奥に行ったことがありません。

又の機会に。

 

母屋の方に行ってみます。

定休日ですから、いつもの雰囲気ではありません。

5月の営業日です。

 

右の通路の上にある表札が「田中藤左衛門」です。

何度見ても、感動です

正徳4年(1714)、山上の常広寺に竜骨を持ってきた人の名前です

 

この母屋の前の道は、中仙道です。

少し歩いて見ます

 


 

 

 

 

 

 

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竜骨ビジネスの伝授?(藤左衛門證書考・その2)

2019-05-23 16:51:34 | 竜骨伝記

最近ひめちゃんは、朝は蕨沢川(わらびさわがわ)の上流に行くことが多いです。
蕨沢川は常廣寺の脇を流れ、諏訪神社の脇も流れ、さらに遡ってます。

そのうちに、蕨沢川物語も整理するつもりですけど

久留美田橋を渡ってUーターンすると、赤柴ラッキーくんちを通ります。



ラッキーくんがちょうどお散歩から帰ってきました。
ひめちゃん&獅子丸は、初対面です

ラッキーくんとても穏やかに対応しています。
そのうちに獅子丸が「ウーワンワン、僕の方が強いんだぞ」と吠え始めました。
ひめちゃんは、もっと挨拶していたかったけど、獅子丸が止まりません
最初は情報収集していたけれど、どうもライバルだと思ったのでしょう。

「バイバイ、またね


巧橋の所には、サクランボが鈴なりです。



このサクランボはどうなるのかな?

もう少し下ると、見たことある人影と犬影が見えました。



タバサねーちゃんとののこねーちゃんと小次郎パパが、おとうさんを連れて先を歩いています




田中藤左衛門證書考・続きです

「先祖代々受け継いだものだから、おいそれと他人に渡すべきものではありません。そうであるけれども、後の時承るとも候所に、このたび持って行く所です。」
と言ってます。

後の時承るとも候所(のちのときうけたまわるともそうろうところ)」の意味はよく分かりませんけど、「後の時」が死後を意味すると、死後にお世話になるところとか極楽往生を願う所とかになりそうです
なんとなく赤城山を指しているようにも思えます。
そんななか先日あるウェブサイトで赤城山頂にある湿原・覚満淵(かくまんぶち)の由来になった覚満さんの事を知りました。
なんと覚満さんの、父は三條の藤左衛門の尉國満というそうです
允恭天皇(いんぎょうてんのう)の時代に、上皇に味方して打ち殺されたそうです。
不思議な藤左衛門つながりです


「大切な宝物の竜骨を我ら禰宜が管理している時に、仙洞御所様(つまり上皇様)、女院様(皇太后?)、二条御所様や九条御所様(第一級の貴族ですね)、并(ならびに)御宮様方(皇族方)へ奉り御正覧に入る。
皇族や第一級の貴族に持って行って見せたのですね。

そうしたら、後(のち)褒美(ほうび)成り下され候。
あとでご褒美をくれたのです。
何をもらったのか、書いてありません


龍骨之儀に有りて候ふ間、大切に御守成可(なすべ)く候。
これは竜骨なので大切にお守りしてくださいという事です。


屡睡より傳来せる本状を添え、ここに納め令(し)むる者なり。
木食屡睡から伝わった文書を添えて納めます。


後の證(あかし)と為すこと如件(くだんのごとし)
前記のとおり証明します。


正徳四年午(うま)七月日
1714年は午年です。
7月は8月と考えると、真夏にやって来たのです


正親町三条大納言家田中籐左衛門定芳(さだよし) 花押(かおう)
正親町(おおぎまち)三条大納言家の家人・田中籐左衛門定芳(さだよし)とは、田中籐左衛門は正親町(おおぎまち)三条大納言家に仕えていた事になります
サインもあったのです


上野州勢多郡前橋領山上村常廣寺
江戸時代、山上村は前橋藩領だったのです。




田中藤左衛門の履歴は本当でしょうか?
本当だとすると、焼けて堂宇のない寺にはりっぱすぎるお客様です
京都での話は確かめようもありません。


懇願されてしかたなく、常廣寺に納めたように見せかけています。
もうすでに商才をいかんなく発揮しています

常廣寺では、竜骨を削って売っていたと伝わっています。
でも大正12年1月1日に焼け落ちるまで、竜骨はしゃれこうべのようなその形を保っていたとも言います。

田中藤左衛門も大切に守りなさいと言いました。


常廣寺で削って売っていて、万病にきいたのは何だったのでしょう?
やがて、辛口の銘酒「七ツ梅」で大成功をする田中藤左衛門のことですから、常廣寺に竜骨ビジネスの指南もしたことでしょう

竜骨伝記には、日向国(宮崎県)から来た蛇骨を取って商売をしている人が出てきます。
関西というか西日本では、竜骨ビジネスが行われていて、田中藤左衛門はそのノウハウを学んでいたかも知れませんね


何を売っていたのかな?
高津戸で常廣寺の和尚が大蛇を買ったという話が、まことしやかに伝わっています
まあ、体に毒ではない漢方系の何かでしょう




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田中藤左衛門も渡った元町橋(藤左衛門證書考・その1)

2019-05-19 16:40:28 | 竜骨伝記

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を西に出て諏訪神社の方に行こうとしていました。
ひめちゃんが突然、「ウーワンワン、ウーワンワン」と吠え出しました。



獅子丸も合唱します



耳がピンと立って、警戒態勢です。
何がいるのでしょう?
人間の視界には不審者は見えません。
2名で警戒警報を出し続けています。
あ、いました



ずーと向こうの豚舎の影に、白い見慣れない離れ犬がいます。
白柴のタバサねーちゃんは、まだおうちのサークルにいたはずです。
離れ犬です
人間と一緒でない、一人で勝手にお散歩している子には、「不審犬じゃ、注意せよ」と、警戒するのです。


彼(?)が去った後、ひめちゃんたちは諏訪神社の前で左折して、山上城の西側の田んぼ道を下ります。
途中、2度犬に逢いましたけど、静かにすれ違いました。


城跡公園(三の丸)の南側の通路を通って、公園入り口に出ます。




元町橋を渡って帰ります。
橋のたもとの供養塔が、やはり目に付きます。



この供養塔は、元禄14年(1701)石の橋になった記念に建てられた橋供養の塔でした。
その永遠と思われた橋も、近年コンクリートの橋に架け替えられました。
その時、付近に住むSさんが、リヤカーにつんで石橋を持ち去ったという情報があります



田中藤左衛門が常廣寺にやって来たのは、正徳4年(1714)なので、彼は石の元町橋を渡っています
田中藤左衛門は、「竜骨伝記」の外に鑑定書というか、保証書というか、證書というものを残しました。
現在に伝わっているのは、なぜかその證書の写しです。


その證書の最初で、「この竜骨は祖先の木食屡睡(もくじきろうすい)から、相伝(代々受け継いだ)のものだ」と言ってます。
木食屡睡の発見の経緯を書いた文書(竜骨伝記)の日付は、宝永7年(1710)1月3日です。
普通に考えると、田中藤左衛門が竜骨を譲られたのが宝永7年(1710)です。

そして、常廣寺にやって来たのが、證書の日付から正徳4年(1714)です。
彼は手に入れてから4年しかたっていないのです
ちょっと仲人口かな


そして、だから「何の異地義納め申すべからず。」といいます。
「何の異地義」とはよく分かりませんけど、相伝の反対の意味のようです。

つまり、「先祖代々受け継いだものだから、おいそれと他人に渡すべきものではありません。」くらいの意味かな?

この発言は、竜骨に付加価値がかなり付きます


「そうであるけれども、後の時承るとも候所に、このたび持って行く所です。」
彼は竜骨をどこかに持って行く所だったのです。
後の時承るとも候所は意味が分かりません。
後の時とは、死後の世界のようでもありますけど。


ところで、田中藤左衛門はどんな格好で、元町橋を渡ったのでしょう?
『上野国志』で毛呂権蔵は竜骨の大きさを、「長さ二尺、頸の廣一尺五寸、其の状甚奇なり」と言ってます。
彼は実際に見たのです
まあ、ランドセルくらいの荷物でしょうか?
やはり背中にしょってきたのでしょうか?

この文書(證書寫)の次の文に、「我等禰宜(ねぎ)所持の間」とあります。

文字通りとらえれば、このとき田中藤左衛門は神職の端くれだった事になります
神仏混合の時代ですから、山伏とか修験者風のいでたちで、背中に彼らが背負う籠をしょってその中に竜骨が入っていたかも知れません
そうすると、常廣寺に寄りやすいし、信用も得やすかったことでしょう



ひめちゃんは、田中藤左衛門とは逆方向に元町橋を渡って、獅子丸家に寄ります
獅子丸とバイバイして、ひめちゃんちのアイリス畑に寄ります



今朝もきれいに咲いています
さあ、早く帰って朝ご飯にしましょう


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田中藤左衛門の證書寫(しょうしょうつし)

2019-05-18 15:59:55 | 竜骨伝記

昨日の夕方、ひめちゃんは、小次郎パパ&タバサねーちゃんと獅子丸家に向かいました。
タバサねーちゃん、このあいだシャンプーやさんに行ってきたので、白柴満開です



おや、向こうからソルくんがやって来ます。
ひめちゃんはちょっと知らんぷり



向きを変えて、襲っちゃうぞ
何おー





ソルくんは、異性というより、遊び友達のようです。
パパは静かに見守っています。

獅子丸に対しても、以前のように威嚇したりしなくなりました。



パパは、もうじき13歳になります





常廣寺に納められた竜骨には、「證書寫」というものが添えられていました。
いわば、鑑定書というか、保証書というか?
もちろん、毛呂権蔵の『上野国志』や鶏足寺文書に記録されていました。
(理解しやすく、句読点を付けます。)


一(ひとつ)此の龍骨の儀先祖木食屡睡より我等に相傳せり。
何の異地義納め申すべからず。
候さ候へども、後の時承るとも候所に此度もち行く所なり。
全て宝物に候右龍骨、我等禰宜(ねぎ)所持の間、仙洞御所様女院様二条御所様九条御所様并(ならびに)御宮様方へ奉り、御正覧に入る。
後褒美(ほうび)成り下され候。
龍骨之儀に有りて候ふ間、大切に御守成可(なすべ)く候。
屡睡より傳来せる本状を添え、ここに納め令(し)むる者なり。
後の證(あかし)と為すこと如件(くだんのごとし)

正徳四年午(うま)七月日
正親町三条大納言家
      田中籐左衛門定芳(さだよし) 花押(かおう)
上野州勢多郡前橋領山上村常廣寺



現代語訳をしてみます

この竜骨は先祖木食屡睡(もくじきろうすい)から、代々受け継いできたものです。
そうであるけれども、後の時承るとも候所に、このたび持って行くところです。
貴重な宝物である竜骨は、我ら禰宜が所持している間に、仙洞御所様や女院様、二条御所様や九条御所様并(ならびに)御宮様方へ、持って行って御覧に入れました。
みなさま、ご褒美をくださいました。
これは大切な竜骨なので、大切にお守りしてください。
屡睡から伝来した本状(竜骨伝記)を添えて、ここに納めます。
前記のとおり証明します。

正徳四年(1714)午(うま)七月日
正親町三条大納言家に仕えている田中籐左衛門定芳(さだよし) 花押(かおう)
上野州勢多郡前橋領山上村常廣寺様へ

この文面だと、竜骨は常廣寺側から、積極的に譲ってほしいと言ったような雰囲気がありますね
意味の取りにくいというか、意味不明な所もあります
次回内容を掘り下げて検討します





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