黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

此の時、浄土宗西方寺を開く(桐生代々の事、付けたり、細川滅亡の事・その 2)

2024-09-30 21:08:53 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんは、本当に久しぶりに高縄の磨崖仏まで行ってきました

かつては、新里村指定重要文化財、現在は桐生氏指定重要文化財です。

でも、相変わらずに参道には「来るな」と言わんばかりの障害物が置かれていました

 

202年9月の上野国山上・高縄の磨崖仏です。

 

阿弥陀三尊は、はっきりとその存在がわかります

現在は、かなり劣化して、阿弥陀三尊が溶けてしまいそうな危惧を感じます

 

 

 

桐生代々の事、付けたり、細川滅亡の事・その 2(此の時、浄土宗西方寺を開く)

扨(さて)は、綱元の末胤、国綱入道人西と云う。観応元庚寅(かのえとら1350年)、在城をきつき依って天正元年迄凡そ二百二十二年なり。此の時、浄土宗西方寺を開く。人西開基寺なりとて時の世俗、此の寺を御人西とあがむ。

明くる卯年、同国高津戸山に筑後守平則之と云う者、逆心を起こし桐生をうばわんとせしを、入道是れを誅戮(ちゅうりく)す。

扨(さて)入道の末裔に男子なくて、佐野次郎豊綱を乞い請け、其の時また30騎を引きて百三十騎となる。これ中興の祖とするなり。

此の人、仏法に帰依、禅宗に明らかなり。西方寺を禅宗に御替宗なり。頃は応永元年(甲戌きのえいぬ1394)に当りて、同九年の四月二十四日に豊綱卒す。法名を徳玄と号す。


『桐生老談記』は、書写されたものが残っているだけです。
写し間違いかなと思われる箇所もあります。
適宜判断して、読みとっていきます



あらすじです。

桐生綱元の末裔に国綱入道人西という人がいます。
彼が観応元年(1350)、桐生城(柄杓山城)を築いてから、落城の天正元年迄およそ222年です
国綱は浄土宗西方寺を開基しました
国綱入道人西が開基した寺という事で、世間の人はこの寺を御人西とあがめました。


明くる年、高津戸山にいた山田筑後守則之という者が、桐生を征服しようと企てたのを誅戮(ちゅうりく)しました


さてその後、入道の末裔に男子がなくて、佐野次郎豊綱を養子に迎えました。
その時に30騎をつれてきたので、桐生家中は130騎となりました
この豊綱は中興の祖とされています
此の人は仏教に帰依して、禅宗に明るかったのです。
それで、西方寺を浄土宗から禅宗に改宗しました
それは応永元年(1394)で、豊綱は応永九年の4月24日になくなりました。
法名を徳玄と云います。



桐生氏累代の名前が出てきました。
けれども、中世史の研究では、実在が確認できる人はほとんどいないようです

さらに西芳寺の木彫阿弥陀如来像の体内にあった墨書には、大旦那佐野大炊助助綱の文字があり、桐生氏は佐野氏であったことがわかりました

西芳寺、桐生氏累代の墓です。

桐生七福神めぐり・布袋村の寺です。


中興の祖・桐生国綱が攻め滅ぼしたという山田筑後守則之についても、その存在はよく分からないようです。




初稿  2019.09.11

改稿  2024.09.30

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

其の軍功により頼朝公より桐生を給はり(桐生代々の事、付けたり、細川滅亡の事・その 1)

2024-09-28 20:44:51 | 桐生老談記の世界

今朝、ひめちゃんは、堀之内を西に出て、天神田を歩いてきました。

彼岸花が満開でした

 

2020年の9月のある日、ひめちゃんは獅子丸と天神田を歩いてきました。

天神田にある常広寺の新墓地で不思議なものを発見します。

天神様の石宮です

 

字天神の地名は、この石宮に依るのかもしれません。

後に、古い地図で、新墓地の南に天神宮があることを確認しました

今は雑草と雑木に覆われて、跡の確かめようもありませんけど

 

 

桐生代々の事、付けたり、細川滅亡の事・その 1(其の軍功により頼朝公より桐生を給はり)

伝に言う、桐生家の起こりは、大織冠(たいしょくかん)の後胤藤原の綱元という人、治承四年(庚子かのえね、1180年)十月駿州富士川において、源平戦軍の時、綱元、頼朝公の味方なり。

一番に川を渡して逃げる平盗(?)を討ち取り、其の軍功により頼朝公より桐生を給わり、これに依り此の時より家名を定め、桐生小太郎と号し百騎の家なり。

文治二年(丙午ひのえうま、1186年)に入部して、天正元年(1573)迄凡そ三百八十七年なり。

その昔頼朝公お召の馬池月という名馬、桐生の谷より出たり。綱元献上なりという。

下総国小金原輿葉塚(こがねはらよばづか)と云う所より出たりとも云う。小金原にも池あり。依って家康公入国以来も、小金原に野馬を差し置き、今に至る迄年々駒を取り給うなり。

また、する墨という馬は野州より出たり。宇都宮殿の献上なり。即ち馬の出所は其の時より飛駒という。

この桐生の飛駒両所の馬の出所は頼朝公分限帳に分明なり。

また小金ヶ原出所の事、其の所の里人の話なり。

 


あらすじです。

桐生家の起源は藤原鎌足の子孫で、藤原綱元という人が、治承四年(1180)10月富士川の合戦の源平合戦の時、頼朝方でした。
一番に川を渡り、逃げる兵士の平盗(?)を討ち取りました。
その功績により、頼朝公から桐生をいただきました。 
この事によって、桐生と家名が決まりました。


文治2年(1186)年に初めて桐生綱元が、領国桐生にやって来てから天正元年まで、およそ387年です。


その昔、頼朝公の使っていた名馬池月は、桐生の谷の生まれです。
桐生綱元が献上したということです。


池月は、下総国小金原輿葉塚(こがねはらよばづか)と云う所の生まれだともいいます。
小金原にも池があります。
それで、家康公が関東入部以来、小金原は野生馬の放牧地になってます。


また、する墨という馬は、下野の生まれです。
宇都宮氏が献上したのです。
それから、する墨の出身地は飛駒(ひこま)というのです。
(「この桐生の飛駒両所の馬の出所は」は、「この桐生と飛駒両所の馬の出所は」でしょうね。)
桐生と飛駒両所の馬の出所は、頼朝公分限帳に書いてあります。


小金ヶ原から出たというのは、そこの里人の話です。



桐生氏が、桐生にやって来たのは富士川の合戦で一番乗りをして功績を挙げ、頼朝に封ぜられたからだそうです
そのころ、桐生には藤姓足利氏の家臣の桐生六郎が、梅原にいたはずです  

どこの藤原さんがやって来たのでしょう?

名馬池月は、桐生綱元が頼朝に献上したとあります 
宇治川の合戦は寿永3年(1184年)、池月は摺墨(するすみ)と先陣を争います。
足利忠綱をはじめとする藤姓足利氏は、平家方として、宇治川の合戦に参加したはずです

摺墨も隣の下野飛駒の出となってます



桐生には、池月の育ったという高園寺があります

桐生川紀行総集編・御朱印がほしい池月の寺(高園寺)



駐車場に、りっぱな説明板があります。




古い石造物がいっぱいあるお寺です。



本堂脇の、池月が育ったという池です。



見所いっぱいロマンの寺ですけど、残念ながら御朱印がありませんでした
ぜひ、御朱印がほしいところです

 

 

初稿  2019.09.09  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.09.28

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天正元年三月十二日に桐生七代繁栄一時に亡ぶるなり(桐生合戦の事、木村、岩下、広瀬、山越討ち死にの事、付けたり、桐生落城の事・その 5)

2024-09-27 21:04:06 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんは、赤柴の超老犬・プーちゃんの前を通って、堀之内の西を歩いてきました。

プーちゃん、ひめちゃんのパパ&ママと同世代だと思いますけど。過酷な酷暑を生き抜きました。

 

2019年の秋、ぬいぐるみを大切にするタバサねーちゃんと獅子丸です。

タバサねーちゃんのこのヌイグルミ、まだお外のサークルで生存中です。

このころは、小次郎パパもまだ元気で、ののこねーちゃん&タバサねーちゃんの娘2人と3名でよくお散歩していました。

 

 

 

桐生合戦の事、木村、岩下、広瀬、山越討ち死にの事、付けたり、桐生落城の事・その 5


親綱には津布久と前原を召し連れられ、軍(いくさ)の中場(なかば)に金沢山の麓に忍び給い、其の日の暮れ方に及んで貝沢に懸り給いて、佐野に落ち給いし事、世常の謗(そしり)もはずかしきことなり。

この日はいかなる日ぞや、天正元年(癸酉みずのととり、1573年)三月十二日に桐生七代繁栄一時に亡ぶるなり。



あらすじです。

桐生(柄杓山)城主親綱は、津布久と前原を連れて、戦の最中に金沢山の麓に密かに脱出し、その日の夕方、桐生川の向こうの貝沢(皆沢)に渡って、佐野に落ちていった事は、世間に恥ずかしいことです。

この日は、いったいどんな日だったんでしょうか?

それは、天正元年(1573)3月12日、桐生家七代の繁栄があっけなく滅んだ日でした。



本来ならば、城主は最後まで陣中指揮を取るのでしょうけど、桐生(柄杓山)城主親綱は逃げたのです

そのルートは、県道66号線です

桐生市梅田町から梅田湖(桐生川ダム)を通り、皆沢(かいざわ)を通り、山道の悪路を佐野に向かいます
道なりに行けば、佐野氏の居城・唐沢山城付近に出ます


数年前、唐沢山城からの帰りに、このルートを逆に来ました

梅田湖は近年に桐生川をせき止めてできたもので、湖底にはたくさんの人家やら何やらが沈んでいます。


親綱の頃は、桐生川を渡ったのです。
渡った先は、皆沢です
あの足利忠綱終焉の地という皆沢です


2018年10月、梅田から皆沢八幡宮に行きました。
皆沢はかつては下野の国だったはずですけど、今は桐生市です

 

足利忠綱もここから上野に逃れ、山上の龍奥までたどり着いたかもしれません。

足利紀行総集編・足利忠綱終焉の地?(皆沢八幡宮)

 

この山道は、上野と下野を結ぶ道なのです

桐生から佐野に行く、また逆に佐野から桐生に来るには、この山道を行くことは普通の選択肢であるようです

 

 

初稿  2019.09.06

改稿  2024.09.27

 


「桐生合戦の事、木村、岩下、広瀬、山越討ち死にの事、付けたり、桐生落城の事」 終

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忽ちに落城したりけり(桐生合戦の事、木村、岩下、広瀬、山越討ち死にの事、付けたり、桐生落城の事・その4)

2024-09-26 22:22:21 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんは、今夜はぐっすり眠れそうです。

おかあさんが、ちょっと旅行に行ってきたのです

この夏は、暑さも何のその、夜は室内犬を目指して奮闘してました。

おかあさんがいないと、おうちに入れてもらっても、なんとなく落ち着かなかったようです

今夜は、早々と、おかあさんのベッドの隣のひめベッドで爆睡中です

上野国山上の彼岸花も満開です。

 

5年前、みんなで高縄の磨崖仏までお散歩した記憶です

最近行ってないけれど、磨崖仏の彼岸花どうなったかな?

 

 

 

桐生合戦の事、木村、岩下、広瀬、山越討ち死にの事、付けたり、桐生落城の事・その4(忽ちに落城したりけり)

去る程に搦手おさえたる須永、柴崎両人は兼ねてあい図の事なれば、主(あるじ)の屋形を後になし、寄せ手の勢と一手になりて、新田勢大形山の谷合いより、大山の崩れる如くついて出で、城の西北の谷合い、要害の切通し際まで押し寄せ、或いは谷より竹たばを押し立て、ゑびらをたたき、おめきさけんで責め登りける。

在城の人々には岩水、前原、根本、片山、遠藤、垣上、小曽根、村上等を初めの百騎ばかり踏み留まり、石弓張りかけ大いわ、大石、大木などを打ち倒し、さんざんに敵を討ち悩ますと云えどもとうまちくいことごとく、取り囲みたる敵なれば、さしもの人々もたまりかね、石垣を崩し、かけ鐘かけを崩し、鉄砲をしきりに打ちかけ仂(はたら)くとも、玉薬も及ばず矢種もつきければ、鑓(やり)、長刀、太刀先に打ってかかれば、龍虎のいきおいにて切って懸かり、本城に籠もりし人々、命限りに防げども、寄手大勢なれば、ついにかなわず、本城まで責め登られ寄手勝ち鬨(かちどき)あげて責めければ、遠藤、片山、小曽根、村上を初め上下五十六人討ち死にす。

残る人々八方へ逃げ去れば、忽ちに落城したりけり。


あらすじです。

新田勢は柄杓山の西北から責め登りました。
城にはまだ百騎ばかり残っていました。
必死になって防戦するけれども、寄手が大勢なので防ぎきれず、五、六十人が討ち死にしました。
残った人々は八方に逃げ去あったので、桐生城(柄杓山城)は、たちまちに落城しました。

 



「柄杓山の西北」というと、やはり今一般的なハイキングコースになっているルートの後半でしょうか?



まだ百騎も残っていたんですね
いったい桐生家中は、どのくらいの規模だったのでしょう
家臣団の構成はどうなっていたのでしょう

先に打って出た山越さんたちが奮戦して、新田勢の藤生紀伊守危うしとなったとき、小金井四郎左衛門は梅原から駆けつけました。
梅原には梅原館跡があります。



右上のかすんでいる山のあたりが、城のある柄杓山(ひしゃくやま)だと思います。(訪問は2019年8月)

説明板によると、桐生城主の館はここでななく、居館(柄杓山南麓の謂雲寺のあたり)にあったとあります。



ここは、もともとは桐生六郎の館跡だったといいます
桐生六郎は主人の足利俊綱の首を持って頼朝の所に行ったのでした
その後、嫡男忠綱は逃れて、山上の竜奥(たつおく)に潜み、のち西国に落ちていったともいいます。
山上の竜奥が、葛塚城ではないかとも言われています
ひめちゃんは、葛塚城堀之内に住んでいるのです

桐生城(柄杓山城)はあっけなく落城してしまいました
城主はどうしたのでしょう?

 

 

初稿  2019.09.05

改稿  2024.09.26

 

 

(つづく)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小金井四郎左衛門、加勢にはせ来たりて(桐生合戦の事、木村、岩下、広瀬、山越討ち死にの事、付けたり、桐生落城の事・その 3)

2024-09-20 20:31:07 | 桐生老談記の世界

暑い暑い一日でした

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、お風呂場でおうちシャンプーです。

そのあと今季初めての焼き芋でお昼ご飯です

 

2007年の夏、三四郎・サマンサ・七海・小次郎の4名で、赤城南面にあったドイツ村のドッグランに、よく行きました。

プールで遊ぶのは、なぜか七海と小次郎だけでした。

 

 

 

 

桐生合戦の事、木村、岩下、広瀬、山越討ち死にの事、付けたり、桐生落城の事・その 3

 

是阿修羅王韋駄天夜叉明王、獅子奮迅の荒れたる勢い、爰にあらわれかしこにひしめき、飛鳥のごとく切って廻れば、

紀伊守しどろになりて備えを追い崩され、既に危く見えける所に、

梅原より小金井四郎左衛門、加勢にはせ来たりて前後左右を取りかこみ、新手を入れ替え入れ替え責め立て、何にかはいとたまるべき。

大将山越討たれければ、木村、岩下、広瀬も叶わずして、行人塚の前にて立ち腹を切りて死にたりけり。

「大将山越並びに木村、岩下、広瀬も討ち取りたり」と大声にて呼ばわり、寄せ手勝ち鬨(かちどき)を作り、大手の戦は敗れけり。



あらすじです。

山越は、獅子奮迅の勢いで戦います。

そのさまは、まるで阿修羅、韋駄天、夜叉明王のようです。

あちこちで、飛ぶ鳥のように敵を切って廻るので、(藤生)紀伊守はしどろもどろになって危うくなりました。
そこに梅原から小金井四郎左衛門が加勢に来て、前後左右を取り囲んで、新手を入れ替え入れ替え責めるので、さすがの山越もたまりません。

大将山越が討たれたので、木村、岩下、広瀬も行人塚(ぎょうにんづか)の前で、立ったまま切腹しました。


「大将山越並びに木村、岩下、広瀬も討ち取りたり」と、寄せ手(由良勢)は勝ち鬨をあげました。
桐生勢は、大手口の戦に敗れました。



寄せ手の大将は、藤生紀伊守だったのですね。
「自害なんてとんでもない、討ち死にするべき」とのアドバイスで、獅子奮迅の戦いをした山越は討ち死にしました
それを見た木村、岩下、広瀬は、行人塚の前で立ったまま切腹しました
山越には、「自害なんてとんでもない、討ち死にせよ」と、言ったのに

救援に来た小金井四郎左衛門の館跡は、新田小金井町にあるようです。
そして、小金井四郎左衛門が中興開基という東雲寺が、新田小金井町にあります

哀しき新田百観音

そして、何とこの寺の開基は古河公方足利成氏(あしかがしげうじ)だということです

成氏の墓もありますけど、現在は無住のようです。


近くには新田の史跡や、茶臼山古墳もあります。
なぜか、最後の桐生(柄杓山)城主佐野親綱が隠棲した由良も近くです

 

 

初稿  2019.09.02   FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.09.20

 

 

 

    

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする