サイババが帰って来るよ

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神のレッスンシリーズ(36)節制と奉仕によるコントロール

2018-09-17 04:00:05 | 日記

ポニョ:今週もフィリスクリスタルさんの著書「モンキーマインドの手なづけ方」からの引用です。どうぞお楽しみくださいね。

ババの『節制』のプログラム

 ババは、私たちがモンキー マインドに捕らわれなくなるのを助けるため、非常に単純明快にそのあらましを示してくださいました。ババは、私たちがすぐにすべての欲望や執着を放棄することを期待してはおられません。そうすることはあまりに急激なステップであるということをご存じだからです。ですから、ババは、私たちが、『節制』と呼ばれるプログラムを使うことを勧めておられます。このプログラムによって、欲望を少しずつ削って行き、そうすることによって、ババが「必要以上の荷物」と呼んでおられるものを手放して行くのです。ババは、「欲望は荷物に似ています。≪荷物を減らし、快適さを高めることにより、旅は楽しいものになる≫と、鉄道の標語にあるとおりです。短期間の列車の旅のためにすら荷物を軽くしなければならないのであれば、はるかに長い人生の旅をするときには、荷物を軽くすることの重要性はどれほど差し追ったものとなるでしょう」と言われます。

 ババは、私たちの人生のなかの、いつも欲望にコントロールされている四つの領域について、繰り返し話をされます。すなわち、私たちがお金と、食べ物と、時間とエネルギーをどのように扱っているかということです。ババは、非常に貧しい人を除いた多くの人々の生活のなかで、この四つの領域において、驚くほどの無駄があり、それは最小限に削られなければならないことを指摘しておられます。ババは、誰でも生存するためにある程度の金銭と食物を必要とするのは事実だが、予算の制限を受け入れることのできるほど自制心のある人はほとんどいないと言っておられます。予算という言葉は、多くの人にとって、歓迎されざるものとなり、厳しい自己否定を意味するものだと受け取られています。この態度は、しばしば、子供のころに、理解できる明確な理由もなく、あまりにも厳しい予算が押しつけられていた結果として表れます。

 『節制』のプログラムは、一人ひとりが、ひいては一つひとつの家庭が、より幸せで、より満たされた人生を送ることができるようにとデザインされたものです。このプログラムは、人生と、その贈り物を無駄にすることなく、喜んでこのプログラムに従おうとする人々が、より多くのお金と、食物と、時間とエネルギーを自由に使うことを可能にするものです。したがって、彼らの人生はよりストレスの少ないものになり、結果的に、より健康的でより幸福なものになるのです。私たちは、人生のこの四つの贈り物のうちのいくつかが、もしくは全部が、不必要なまたは不健康な方法で無駄にされてはいないかを意識しなければなりません。そして、それらのものを、自分自身や家族の人々の役に立つように、より賢明な使い方を始めなければなりません。それに伴って、エゴや肉体によって生ずる欲望から、徐々に離れるようになるという恩恵が加えられます。エゴや肉体によって生ずる欲望こそが、私たちのモンキー マインドを非常に活発な状態に保つのです。

 ババは、たびたび次のように言って来られました。「私はあなたの欲するものを与えます。それは、私があなたに与えるためにやって来たものを、あなたが欲するようになることを願っているからです。」私たちは、自分は解脱を望んでいるというかもしれません。しかし、その状態に到達するには、私たちは、自分のエゴやその欲望に対する執着を手放す必要があるのです。

 ババはまた、「一部の人々が私から離れて行く最大の原因は、彼らが私への愛を失ったからではありません。それは彼らの願望が満たされなかったからです。彼らは、もし私についていれば、自分の世俗的な望みや欲が満たされないかもしれないという恐れに捕らわれているのです。だから彼らは離れてしまうのです」とも言われます。しかしこの恐れは、他の大部分の恐れ同様、真実に基づいたものではありません。自分たちはある特定のものが欲しいと主張したり、他のものを受け取ることを拒否したりすることによって、ババが私たちに与えようとするものごとに、しばしば制限を設けるのは私たち自身です。しかし、私たちが理解していないことは、多くの場合、自分の欲しいと思うものが、必ずしも有益でもなければ、ときには快適でないことすらあるということです。同様に、私たちが欲しくないと考えるものが、有益であったり、やり甲斐のあることだったりすることが判って、驚くことがあります。何が必要で、何が不必要であるかという私たちの個人的見解は非常に近視眼的なものです。私たちが、欲望の対象をあくまで追い求めようとしたり、自分が歓迎しないことを避ける努力をするとき、学習のために私たちが最も必要としている体験そのものが、私たちに教えるために私たちの方にやって来ようとするのを、自分で妨げている可能性が強いのです。

 私たちの真実の自己は内在の神ですが、ババは、人間の姿をとって、その内在の神を表しています。ですから、私たちが何を必要としているかということに関して、ババのより賢明な判断にお任せして、私たちのエゴが欲しがるものを追い求めることをやめる方が、はるかに容易で、しかも間違いなく安全です。というのも、過去の体験から判るのですが、私たちの選択は、最初に我々がそれを心に抱いたときには非常に魅力に富んだものに見えるにもかかわらず、長い目で見れば、失望するものであるのが普通だからです。

第8章 無私の奉仕──モンキー マインドの解毒剤

 『節制』のプログラムを通じて無駄を省くことに加え、四つの領域において、このようにして節約できたものを、私たちよりも恵まれていない人々を助けるために使うようにと、ババは助言しておられます。助けを必要としている人々を探すことは、決して難しいことではありません。特に今の時代においてはそうです。このようにして、ババが大事にしておられる≪『節制』のプログラム≫と≪無私の奉仕≫の二つのプロジェクトを結び付けることができます。ババは、それは白己関心の結果として与えるものではなく、文字通りの無私の奉仕でなければならないという条件をつけておられます。自己関心は奉仕をけがし、奉仕する人自身を解脱に向けて高めるのではなく、奉仕を汚した報いが、その本人に返って来ます。

 多くの人々は、飢えた人、ホームレス、不幸な人、病人、虐待された人、等々を援助することによって、もっと世の中の役に立ちたいと言います。しかし、彼らの善意はしばしばそこで終わってしまいます。罪悪感や他人の批判から免れようとして無数の言い訳が用意されます。例えば、家族を養っていて、一円玉に至るまで、細かく予算に組み込まれているので他人の援助ができないと言います。あるいは、白分白身と家族が必要とするものを整えるのに、あまりにも忙しく働いていて、疲れてしまうので、毎日の日課として要求されるもの以上のことをする余分の時間もエネルギーもないというのです。実にこれは、全世界を通じて共通した状況です。ところが、『節制』のプログラムを実践すると、大部分の人が、白分たちが余分にお金を持つようになるばかりでなく、より栄養のある物を食べ、余分な時間を持てるようになることに本人が驚くのです。そして何よりも素晴らしいことに、エネルギーの無駄が省かれるので、自分の節約したものを、困っている人々と分かち合う元気が残っているのです。その上、人類に対する何らかの奉仕に携わるようになれば、人々は、決まって、そのような行為によって最も恩恵を受けるのは自分たち自身であって、それを受ける人々よりもはるかに大きな恩恵を受けていると述べています。例えそれが金銭であれ、食物、時間、エネルギー、あるいは知識や洞察であれ、私たちが持っているものを他の人々と分かち合うことは、想像の及ばない見返りをもたらします。

 そのような無私の奉仕からは、さらに予期していなかったボーナスが生じます。私たちが、他に与えることに忙しく係わっているときは、モンキー マインドの方向は完全に逆転しています。自分たちが望むものを何でも求め、掴み取ることではなく、他の人々の苦悩を軽減することに集中することにより、モンキー マインドは、ハヌマーンのように、内在の「神の魂」に向けられるのです。なぜなら私たちは、他に奉仕することにより、実は万物に内在する神に奉仕しているからです。その次元では万物は一つです。

 「あなたは誰ですか」と尋ねられれば、いつもハヌマーンは、すぐに「私はラーマ神の召し使いです」と答えました。ですから、無私の奉仕に携わることによって、私たちもまた、欲で一杯の肉体の中に住んでいる魂の方を向き、万物に内在する、ラーマや、キリストや、ババや、仏陀や、あるいは私たちが万物に内在する「神の魂」を指す、その他の名前に奉仕することができるのです。この「神の魂」は、私たち自身と、私たちが助けようとするすべての存在…人間であれ動物であれ…に内在しています。

 「奉仕は家庭の中から始まる」という古い格言は、私たちが採用すべき素晴らしいモットーです。ある人が、いわゆる「他人」に対しては奉仕の天使となって、人々の変わらぬ感謝と称賛を受けているのに、その一方で、自分の家族を無視し、その要求には応えず、家族が助けを求める声は、無視されるか、短気、怒り、苛立ちの混じった反応を「人気者の天使」から受けるというようなことは、珍しいことではありません。しかし、ババは、私たちが人生の大部分を共に過ごす人々こそ、私たちが学ぶ必要のあることを教えてくれることのできる人であると言われます。私たちは、この事実を認め、学習の余地を設けさえすれば良いのです。ですから、私たちと密接なつながりを持っている人々は、私たちにとって、最大の教師となり得るのです。もし、彼らの助力によって、家族関係のなかで、私たちが忍耐、寛容、不動心、自制心を身につけることができれば、人生は、私たちが最も必要としている霊的教育を提供する点から言えば、修行僧や隠遁者の人生と同じくらい有益なものになります。

 奉仕は、それが家族に対するものであれ、その他の人々に対するものであれ、正しい目的のために行われるべきであり、何らかの思惑があって行うようではいけません。そのようなことをすれば、奉仕の効果が削られてしまうからです。奉仕がエゴの影響を受けないためには、その奉仕が、人々の苦しみの原因となっている痛み、飢え、拒否されたという感情、喪失感などに対する深い同情から生まれたものでなければなりません。そのようなときにはじめて、奉仕は、それを受ける人と施す人の両方にとって有益なものとなるのです。ですから、自分が重要であるとか価値のある人間だと感じたいために特定の奉仕をすることに決めたり、もしくは、奉仕を受けた人から認められたり、感謝される等々の報酬を求めたり、何らかの個人的利益や霊的利益のために奉仕をしようと考えないように、よく気をつけなければなりません。奉仕は、例えば、退屈を紛らわしたり、毎日の日課や日常の責任を免れるというような、利己的な動機とは無関係でなければなりません。

 忘れてはならないもう一つの最も大切な点は、成功や失敗といった、奉仕の結果にこだわってはならないということです。ババは、「成功で得意になったり、失敗で意気消沈してはなりません」と言われます。

 モンキー マインドにとって最良の解毒剤は、ハヌマーンの示した模範を見習うことです。それは、本当の自分、すなわち神の召し使いになることです。神をどのような名前で呼んでも良いのです。ババは、「ハヌマーンを奉仕の見本としなさい。彼は、神への献身的奉仕の最高の見本として傑出しているからです。彼は武術に長け、学識もあり、高い徳を備えていましたが、慢心のひとかけらもありませんでした」と力説されます。ババはまた、奉仕こそは、カリユガ(私たちの住む四つのユガ≪時代区分≫のうち、最も暗いユガ)の時代の影響と戦うための唯一の手段であり、霊性向上のために設けられたそれ以外の手段は、どれも無私の奉仕には劣るとも言っておられます。さらにババは、「神の御名を唱えることや、瞑想や、ヤグナと呼ばれる儀式や、聖典を読むこと、聖地巡礼などは、無私の奉仕に匹敵するものではありません」と説明を加え、「愛に満ちた、奉仕という形の活動は、神に至る様々な道のすべての目的を成就します。奉仕は、瞑想、バジャン、ヨーガなどのような、それ以外の道よりも高尚な、霊的向上の手段です」と言われます。

 ですから、私たちは、ハヌマーンのように、私たちが奉仕しようとしている人に内在している神に、自分が奉仕していることを思い、また、自分自身に内在する神にも奉仕しているのだということを心に留めて、奉仕の必要や機会に気がついたときはいつでも、それを受け入れるのに、一瞬たりとも無駄にすべきではありません。

私たちは習慣的に、「私」とか「私のもの」と考え、「私たち」とか「私たちのもの」とは考えません。私たちのエゴに力があるという誤った信念のもとに、私たちは悩みます。
しかし私たちが、「私」を見ることをやめて「あなた」を見ることを思い出しさえすれば、
一生続いた習慣に別れを告げて、内なる光を輝かすことができるのです。



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