サイババが帰って来るよ

Count down to the Golden age

人の名前も言霊なの?

2017-05-15 16:00:06 | 日記
多くの人々は、私の言葉を重視せず軽く取っています。
これは正しいことではありません。
私が話すことは、例え私が軽い調子で話し、冗談として話したとしても、全て真理であり真理のみなのです。
しかし、人々はそのことに気付いていません。
肉体的にスワミの近くにいる人でさえも、このことを正確には理解していません。
その結果しばしばスワミの言うことを無視しています。
私の言葉を真剣には受け取らず、スワミは軽い調子で話をしたのだと思っています。
そして、私の言葉が真理である事を後でそれが現実となった時にようやく気付くのです。
人は未来のことを何も知らないので、私の言葉を軽く受け取ります。
けれども、私の言うことが全て本当だということが将来判明するでしょう。
そうして初めて、人は私の言葉を理解することが出来るのです。
眼の前で、私が歩き、話しているのを見、起こっている事を全て目撃しているのにもかかわらず、人々は私の言葉を理解することも、私の神聖さを認識することも出来ずにいます。
人々の多くは、私の言葉を冗談でかたづけます。12/10/08

ポニョ:サンスクリット語を独学しているって話を以前記事にしたけれど、最近茨城の方でサンスクリット語教室をしておられる方とコンタクトをしたんや。

ヨシオ:へえ〜。サンスクリット語教室なんて日本にあるんか?

ポニョ:その方は大学を卒業してからもサンスクリット語を大学院で九年間も学び続け結婚されてからも自宅で個人やグループでサンスクリット語を学びたいという方に教えておられるんや。

ヨシオ:それは本格的やな。俺も日本にいてたら学びに行きたいな。サンスクリット語の独学は難しいんや。一つの単語に意味がたくさんあるし、発音や文法も難しいし、でも元々は話し言葉やったから、本からではなくテープを聞きながら耳から覚える方が早いけどな

ポニョ:耳から学ぶサンスクリット語ですか。それでその方のペンネームはprthiviiっていうんやけれど、シータラーマというインドの物産を取り扱っているブログに、レベルの高いインドの文化やサンスクリット語のエッセイを時々投稿されているんや。その記事の中に面白い話題があったので今日はそれを紹介しようと思うんや。

ヨシオ:俺も時々そのブログに目を通しているけれど、サンスクリット語に詳しい方が書かれていると思っていたら、サンスクリット語の先生が書かれていたんやな。でもprthiviiって何の意味か知らないけれど、読みにくいペンネームやな。多分プリティヴィーって読むんやけれど。そんな言葉は聞いた事がないな。今度、何の意味か聞いといてくれや。

ポニョ:多分可愛い人なんやろな。プリティなヴィーっていう名前やから。今度からヴィーさんって呼ぼうかな。ところでおいらが面白いと思ったトピックは、今あんたが難しいと言った名前の話なんや。人の名前って言霊と一緒で、他人に自分のフルネームを知られたらまずいっていう話なんや。

ヨシオ:そういやインドの神さんの名前自体がマントラやもんな。だから、元々は神である人の名前も言霊そのものだと言われても納得出来るよな。

ポニョ:でも、以前自分の息子に悪魔という名前を付けた両親がいて、その名前は役所で受け付けてもらえなかったぜよ。あんたの説によると、悪魔という名も言霊なんか?とにかくあんたの解説を聞いていると頭がこんがらがるから、直接prthiviiさんのお話に耳を傾けましょか。

音声としての言葉」には神秘的な力、呪力が宿っている、
と考える文化は古今東西たくさんあります。

インドでは、リグヴェーダの時代から
「言葉」を意味する単語「ヴァーチュवाच् vāc」は
「言葉をつかさどる女神」そのものでありました。
その後、サラスヴァティー(सरस्वती sarasvatī)がヴァーチュと同一視され、
今日に到るまでサラスヴァティーは言葉をつかさどる女神として人気があります。

日本ではそうした言葉の呪力を「言霊」といいました。
たとえば「忌み言葉」も、忌まわしい言葉(またそれを連想する言葉)が
現実になってしまうことを恐れて、発することを避けるものです。
また、平安時代の貴族女性は、本当の名前を他人に
知られないようにしていたことがよく知られています。
「紫式部」「清少納言」などは父親の冠位や部署にちなんだ「あだな」ですし、
鎌倉時代「蜻蛉(かげろう)日記」を残した貴族女性は
「藤原道綱の母」としか名前が伝わっていません。

名前は本人そのものの象徴であり、
相手の名前を知ることで、相手を支配したり
呪いを掛けたりすることができる、と信じられていたからです。

それはインドでも同様でした。
そうした名前にかかわる呪力をモチーフとする説話が
『マハーバーラタ』第13巻93章に挿入されている「七仙人の名乗り」です。

鬼女に名前を問われた仙人たちは、
名前を知られれば鬼女に殺されてしまう、
偽りの名を名乗れば自分自身が破滅する、というジレンマに悩みます。
そこで仙人たちは、本名を述べながらも、知能の劣った鬼女に
名前を悟られない巧妙な言葉遣いで名乗ることで
危機を脱しました。

この物語の背景には、「名前が持つ呪力」と同時に、
「真実がもたらす呪力」の存在があります。

サティヤ(सत्य satya)は「真実」を意味し、

真実だけを語ったり行なったりすること、誓ったことを守り通すこと、「誓戒」を

サティヤヴラタ(सत्यव्रत satyavrata)

真実の言葉、「真実語」を

サティヤヴァチャナ(सत्यवचन satyavacana)

といいます。

どんな儀式を行なうよりも真実を語ることの方が善果をもたらします。
また、サティヤヴラタは聖人たる証でもあり、
さらには聖仙に具わる神通力の根拠でもあって、
真実の誓いを破ってしまえば、たちまちに
神通力もなくなってしまう恐れがあります。

しばしば、インドの神話や説話では、
願望を叶えるために、神に対して苦行の誓いを立てた登場人物が
誓いを有言実行することによって神の恩寵を得る、
というモチーフが数多くあります。
これとは逆に、登場人物が不注意で聖仙や仙人を怒らせ
呪いの言葉をかけられ、言われた通りの悪い出来事がおきる、
というモチーフも同じくらい多数あります。

一度発せられた「呪いの言葉」は言った本人(聖仙)であっても
決して取り消すことができず、代わりに、
「こうこうこういうことが起きたとき呪いが解ける」という
未来を予言することしかできません。

「嘘をつかない」といった道徳的なレベルを超えて、
インドではそれほどに言葉の持つ真実性、言葉の呪力、
真実の呪力が信じられてきました。

古代に限らず、現代は個人情報保護や防犯意識の高まりもあって
簡単に名前を知られないように注意する人が増えていますが、
全く知らない相手から本名をフルネームで呼びかけられたときに
一瞬で心に隙ができてしまう状況も、
一種の「名前の呪い」といえるでしょう。

参考:

中村 史「『マハーバーラタ』第13巻第93章の説話の考察 : 七仙人の名乗り」
印度學佛教學研究 62(1), p.273-268, 2013

(文章
:prthivii)

ヨシオ:なかなか秀逸な記事やったな。さすがサンスクリット語の先生やな。レベルが高い。俺が面白いと思ったのは、平安時代の貴族の女性達は自分の本名を明らかにしなかったという話や。というのも名前は本人そのものの象徴であり、相手の名前を知ることで、相手を支配したり呪いを掛けたりすることができる、と信じられていたからという下りやな。

ポニョ:それって本当に面白い話やぜよ。おいらが面白いなと思ったのは、どんな儀式を行なうよりも真実を語ることの方が善果をもたらすってとこやぜよ。そしてそういう真実を話す事が、聖仙に具わる神通力の根拠でもあって、真実の誓いを破ってしまえば、たちまちに神通力もなくなってしまうって面白いよな。

ヨシオ:サイババさんは元々は名前は無いって言うか、全てがサイババさんの名前やけれど、今回人の肉体を取ってこの世に来られた時に、自らの名前を真理を意味するサティアと名付けられた意味は大きいよな。

ポニョ:サイババさんが言われた事はどんな事でも成就するって意味やもんな。だからサイババさんが言われた、将来大空に現れるとか、何千もの身体を取って世界中に現れるとか、大きな山脈を持ち上げると言われた事は全て実現するんだってばよ。

ヨシオ:突然、ナルト言葉を使うなよ。

ポニョ:でもこういうトピックを交えてサンスクリット語を学んだら頭によく入るぜよ。

ヨシオ:でもポニョやったらサンスクリット語ではなく、先生が寄り道して話してくれたトピックしか頭に残らんやろな。

美徳の花は、真理(真実)です。
単にあなたが真実を語ること、すなわち事実をあるがままに語ることは、現世的な真理もしくは相対的な真理でしかありません。
実際、「真理」という言葉が意味するものはこのようなことではありません。
この言葉は、はるかに深い意味を持っています。
真理という言葉の本当の意味は、永遠に変わらないもの、いかなる時も変わらないものということです。
それは永遠の真理です。現世的な真理は、もっと低い次元のものです。
それは、その瞬間のみに真理であるもののことです。
次の瞬間には、それはもはや正当性を失い、一瞬前にはそうであったものがそうではなくなります。
あなたの目に映る、この世のすべての物質は、一瞬一瞬絶えず変化を続けており、すべてがいつかは崩壌してしまいます。
この変化してやまない移ろいやすい世界の中で、私たちが見たり聞いたりするもののうち、一体いかなるものが正当で永遠なる真理であり得るでしょうか?
 真理とは、本当は神のことなのです。
これが礼拝の八番目の花です。
真理は神の姿です。
この世界と自然界の中で、私たちが真理として体験し、真理であると受け取るものは相対的なものに過ぎません。
化学や物理学の真理はどのくらい永続するでしょう? 
それらの正当性は、相対的な価値しかありません。
その重要性は相対的なものでしかありません。
 しかし、霊的な真理、すなわち神の真理は永遠に正当性を持ち続けます。
いかなる状況の下でも正しく、あなたがそこに火を持ってこようがどうしようが、決して変わることがありません。
つまり、真理とは決して変わることのないものであり、永遠に同じであり続けるもののことです。
それが真理であり、それが神なのです。 KSH