『怒りをこめて起ちあがれ 核のない世界をめざして』
勝部元・著/マルジュ社1982年
京都生れで、出版当時は桃山学院大学の学長だった方が書かれた本です。著者は、4歳のとき広島に移り住んだという……。
故郷、広島ではなくなったという。下「」引用。
「わたしは四歳のときから、小、中、高校と広島で育ち、広島はわたしの故郷ですが、いまはわたしの“ヒロシマ”はありません。一九四五年八月六日の朝、一発の原爆が、なつかしい街も、通りも、公園も、すべてを吹飛ばし、現在あるものはまったく別の街、別の道路、別の「ヒロシマ」です。」
悲話が無数にあるという。下「」引用。
「たくさんの友人、知人、親戚がこのとき亡くなってしまいました。わたしのもっとも近い親戚でかつ中学(広島高等師範学校付属中学)の恩師でもあったひとは、そのとき、東南アジアよりの留学生を引率して流川町を歩いていました。そして残ったものは靴と足首だけでした。そのひとの奥さんは娘の安否をきづかって、たずね歩き、やっと検疫所のあった似島の病院でさがし出すことができました。しかしそのときはもうその娘は息を引きとる寸前でした。そしてこの奥さん自身も夫と娘を失った二週間後には、亡くなってしまいました。このような悲しい話は、無数にあります。」
原爆を伝えるとき、この悲話は捨てておけないものと思います。
このような人間的感情よりも、イデオロギーが大切なんて、ボクにとっては洗脳された人たちのように思えてなりません……。
イデオロギーというのは、このような人間的感情に奉仕する道具でしかないとボクは思っています。
--もちろん、人類を幸福にすべき道具であるべきです。それに役立たないイデオロギーなど興味ありません。他者から奪い取れるから、持っているイデオロギーなど、盗人のイデオロギーでしょう……。
著者は原爆投下時、牢獄にいたという。下「」引用。
「わたしはこのときジャーナリストの弾圧で有名な「横浜事件」に連座して一年半の獄中生活のあげくをえ、瀕死の状態で、監視つきのまま横浜の日赤病院のベッドで寝ていました。用紙不足で半截になっていた新聞が、「広島に新型爆弾投下」「屋外防空壕に入り白い下着を着ていれば恐るるに足らず」と報じていたのを昨日のように思い出します。」
ヒロシマもきちんと伝えられていませんね。スリーマイル島も、チェルノブイリも……。
国際機関などもその共犯者のような存在でしたね……。
アラン・レネ監督は「ヒロシマ・わが愛」(ざんねんなことにこのすぐれた映画は「二十四時間の情事」というひどくつまらぬ日本語の題名のため多くのひとがみそこねました)について、価値ある映画だということが書かれてありました。
--この映画は予告編をみて、そう見たいとは思わなかったのですが、この文章でみたいと思いました。
「平和屋」「反核屋」という言葉を書かれてありました。下「」引用。
「運動は分裂し、平和をねがうはずの運動と組織が、お互いに他組織に敵意をもち、憎悪と罵詈雑言をくり返すことになったのです。これでは原水禁運動という日本の大衆の独創的なすばらしい運動が次第に色あせ、政党と労組の代行物となり、年一回の催しが職業的「平和屋」「反核屋」が主導する組織動員による行事化してしまうのは当然でした。運動は衰え、国民にソッポをむかれ、広島市民にひんしゅくをかうようになったのはあたり前のことでしょう。」
この批判された相手は、どうやら日本共産党のようです。
そして、こんなことも書かれてありました。下「」引用。
「共産党は六六年に中国と決裂し、ソ連とも何回も接近をはかったにもかかわらず、以前、険悪なかんけいはそのまま続き、いわゆる「自主独立」の立場をとるようになりました。そこでは、もはや原水協と原水禁との間には原則的立場の違いはなくなってしまったのです。」
日米安保はウソだと書かれてありました。下「」引用。
「お人好しの日本人は、アメリカの「核のカサ」で日本を守ってもらつている、と信じてやまないのですが、じつはこれもそもそも始めから真っ赤なウソなのです。
安保条約のもとで、日本にあるアメリカの軍事基地は日本を守るためにあるのではなく、アメリカを守るためにある。それは敵(ソ連)の核兵器の攻撃を「うけとめ、吸収する」(recieve and absorb)ためにあるということは明らかです(新名丈夫『政治』光文社、一○六、一○九頁)。つまり日本人は安保条約によりアメリカのための盾となり、敵の核をすいとる「スポンジ」となる義務を負い、アメリカは日本人をみな殺しにする権利があるといっているのです。」
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勝部元・著/マルジュ社1982年
京都生れで、出版当時は桃山学院大学の学長だった方が書かれた本です。著者は、4歳のとき広島に移り住んだという……。
故郷、広島ではなくなったという。下「」引用。
「わたしは四歳のときから、小、中、高校と広島で育ち、広島はわたしの故郷ですが、いまはわたしの“ヒロシマ”はありません。一九四五年八月六日の朝、一発の原爆が、なつかしい街も、通りも、公園も、すべてを吹飛ばし、現在あるものはまったく別の街、別の道路、別の「ヒロシマ」です。」
悲話が無数にあるという。下「」引用。
「たくさんの友人、知人、親戚がこのとき亡くなってしまいました。わたしのもっとも近い親戚でかつ中学(広島高等師範学校付属中学)の恩師でもあったひとは、そのとき、東南アジアよりの留学生を引率して流川町を歩いていました。そして残ったものは靴と足首だけでした。そのひとの奥さんは娘の安否をきづかって、たずね歩き、やっと検疫所のあった似島の病院でさがし出すことができました。しかしそのときはもうその娘は息を引きとる寸前でした。そしてこの奥さん自身も夫と娘を失った二週間後には、亡くなってしまいました。このような悲しい話は、無数にあります。」
原爆を伝えるとき、この悲話は捨てておけないものと思います。
このような人間的感情よりも、イデオロギーが大切なんて、ボクにとっては洗脳された人たちのように思えてなりません……。
イデオロギーというのは、このような人間的感情に奉仕する道具でしかないとボクは思っています。
--もちろん、人類を幸福にすべき道具であるべきです。それに役立たないイデオロギーなど興味ありません。他者から奪い取れるから、持っているイデオロギーなど、盗人のイデオロギーでしょう……。
著者は原爆投下時、牢獄にいたという。下「」引用。
「わたしはこのときジャーナリストの弾圧で有名な「横浜事件」に連座して一年半の獄中生活のあげくをえ、瀕死の状態で、監視つきのまま横浜の日赤病院のベッドで寝ていました。用紙不足で半截になっていた新聞が、「広島に新型爆弾投下」「屋外防空壕に入り白い下着を着ていれば恐るるに足らず」と報じていたのを昨日のように思い出します。」
ヒロシマもきちんと伝えられていませんね。スリーマイル島も、チェルノブイリも……。
国際機関などもその共犯者のような存在でしたね……。
アラン・レネ監督は「ヒロシマ・わが愛」(ざんねんなことにこのすぐれた映画は「二十四時間の情事」というひどくつまらぬ日本語の題名のため多くのひとがみそこねました)について、価値ある映画だということが書かれてありました。
--この映画は予告編をみて、そう見たいとは思わなかったのですが、この文章でみたいと思いました。
「平和屋」「反核屋」という言葉を書かれてありました。下「」引用。
「運動は分裂し、平和をねがうはずの運動と組織が、お互いに他組織に敵意をもち、憎悪と罵詈雑言をくり返すことになったのです。これでは原水禁運動という日本の大衆の独創的なすばらしい運動が次第に色あせ、政党と労組の代行物となり、年一回の催しが職業的「平和屋」「反核屋」が主導する組織動員による行事化してしまうのは当然でした。運動は衰え、国民にソッポをむかれ、広島市民にひんしゅくをかうようになったのはあたり前のことでしょう。」
この批判された相手は、どうやら日本共産党のようです。
そして、こんなことも書かれてありました。下「」引用。
「共産党は六六年に中国と決裂し、ソ連とも何回も接近をはかったにもかかわらず、以前、険悪なかんけいはそのまま続き、いわゆる「自主独立」の立場をとるようになりました。そこでは、もはや原水協と原水禁との間には原則的立場の違いはなくなってしまったのです。」
日米安保はウソだと書かれてありました。下「」引用。
「お人好しの日本人は、アメリカの「核のカサ」で日本を守ってもらつている、と信じてやまないのですが、じつはこれもそもそも始めから真っ赤なウソなのです。
安保条約のもとで、日本にあるアメリカの軍事基地は日本を守るためにあるのではなく、アメリカを守るためにある。それは敵(ソ連)の核兵器の攻撃を「うけとめ、吸収する」(recieve and absorb)ためにあるということは明らかです(新名丈夫『政治』光文社、一○六、一○九頁)。つまり日本人は安保条約によりアメリカのための盾となり、敵の核をすいとる「スポンジ」となる義務を負い、アメリカは日本人をみな殺しにする権利があるといっているのです。」
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