磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

京都祗園 藤村屋さん お買い物メモ 新機能が便利!

2008年04月02日 | おいしいヒント!
京都祗園 藤村屋さん

お買い物メモ
新機能が便利!


いつも、藤村屋さんで買わないと気がすまない商品があります。

うどんだしですね、これを買いわすれると寂しい思いをしました。

夏場は冷やし飴ですね……。

かといって、注文忘れはするものです。

前に、こういうような機能をつけてよと八代目さんに頼んだのですが、やりましたね……。

また、八代目さんは夢を実現させて、うらやましいの一言です!

客の一人のボクも便利になってうれしいです。



くわしくはここをクリックしてください。

いつも、お茶がなくなると、その時は注文しないといけないと思うのですが、注文するころには忘れてしまいます。

でも、お買い物メモがあったら、これで安心!

これで忘れっぽい、おばあちゃんも!

何となく、忘れてしまうおじいちゃんも!

ど忘ればっかりの、磯野鱧男も!

みんな、忘れず注文ができます!

めでたし、めでたし……。

でも、メモを忘れそうですね。










核兵器と科学者の責任

2008年04月02日 | 読書日記など
『核兵器と科学者の責任』
   C.G.ウィーラマントリ(著)/
     原善四郎、桜木燈和(訳)/中央大学1987年

この本を読んで驚いた部分。下「」引用。

「世界は核兵器に三百万兆ドル以上も費やし、核兵器の貯蔵は一九四五年の三発から一九八五年には五万発にも達している。特殊技能を必要とする科学者の人的資源のほぼ五○%が、現在、軍事研究と軍需産業に携わっている。毎年幾百万人の生命を失わせている発展途上国のグローバルな問題解決のために技能を提供している科学者は一%にも及んでいない。一般にそうみられてはいないが、現代の大きな社会問題の一つである。」

50%もの学者が軍事関連を研究しているとは……。

平和をつくりだすことでもある、発展途上国のグローバルな問題解決のために技能を提供している科学者は一%にも及んでいないとは……。




表紙の裏に「著者のことば」が書かれてあります。下「」引用。

「本書はまず、戦争に関する国際法の多面的な事象を法律家でない一般の人々にもよく理解してもらえるよう詳細にわたって論ずる。次に核兵器の現況と“核の冬”に関する最近の研究を照らして、核兵器の使用と製造の違法性を論証し、科学者が意識的にこれに関与することの法律的な合意を吟味しようとするものである。」

あのカーター大統領さえこう語ったそうだ。下「」引用。

「カーター大統領も離任演説のなかで、「万一生き残った者も、自殺行為をおかした文明社会が毒物汚染によって破滅するまっただなかで、絶望して生きのびなければならないであろう」、と述べた。」

オッペンハイマーは水爆に反対して、赤狩りにあう……。下「」引用。

「水素爆弾について科学者たちは良心のもう一つの決断に迫られた。多数のものは前とおなじく憂慮しなかった。一部の科学者は新兵器を熱望する避けがたい政治的勢力に譲歩した。だが、それを防止するためにもてる影響力を行使した科学者もいた。」

「核の冬」--これは避けられないことだろうとボクも思う。下「」引用。

「一九八二年にP・G・クルッツェンとJ・W・バークスは、核爆発によって点火された大量火災が、太陽光線の地表への到達を妨げる多量の煤煙(ばいえん)を発生し、気候に悪影響を与える可能性を示唆した。」

三次元モデルでも確認されたようです。下「」引用。

「TTAPSの“核の冬”のシナリオは、TTAPSが用いた一次元モデルの代りに三次元モデルを用いた研究者たちによって、追試され、確認され、厳密化された。」

カール・セガンは警告する。下「」引用。

「カール・セガン博士は論文「核の冬」のなかでこの問題における自己の立場を次のように要約している。「核戦争は理論的にしか扱えない問題である。それは実験になじまない。われわれがなにか重要な因子を解析から落としていて、そのため実際の影響はわれわれの計算よりも小さなものなることも考えれる。その逆に、われわれの認識が足りない悪影響がはるかに甚大になるということもありうる。従来からの経験ではむしろその方になりそうである。結果がわれわれの計算より良くなるか、悪くなるかの判断に数百万の生命がかかってくるのに、なぜ既成の概念にとらわれるのか?」

ジョナサン・スケルの警告。下「」引用。

「こうした現実の一つをジョナサン・スケルは次のようにきびしく述べている。「自己に偽るところがなければ、集積された核兵器を一掃しないかぎり、大虐殺が--今日でなければ明日、今年でなければ来年--ひょっとしたら起こるかもしれないことだけでなく、起こりうることを認めなければならない。」」

ニュールンベルグ憲章第6条は次のように定めるという。下「」引用。

「(a) 平和に対する罪 すなわち、侵略戦争または国際条約、協定もしくは保証を侵犯する戦争の計画、準備、開始、または遂行……。
(b) 戦争犯罪 すなわち、戦争の法規慣例違反。かかる違反行為には……都市、町村または村落の理由なき破壊、または軍事上の必要性によって正当化されない惨害を含むものとする。
(c) 人道に対する罪 すなわち、戦争以前、または戦争中、一般住民……に対しておこなわれる……絶滅点その他の非人道的行為……」
 「戦時における文民の保護に関する条約」(一九四九年八月一二日の「ジュネーブ第四条約」)も一般住民に対する犯罪に同様の訴追権を与えている。」

ジェノサイド条約










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生きもののうた 第二集

2008年04月02日 | 読書日記など
『生きもののうた 第二集』
   大沢栄・編/黒古一夫・解説/
     生きもののうた文学会1988年

原発のことなども書かれてありました。やはり、原爆のことを真剣に見つめたら、原発のことも捨ててはいられないとボクも思います。



原発のことが書かれてありました。下「」引用。

「■特別寄稿
  芦浜原発について  錦米次郎
 芦浜原発といってもそれがどこにあるか、三重県内に住む人にさえ無関心の向きにはまだよくつかめていない。これが県外の人々となると皆目見当もつかないのではないか。」

反対運動があったようです。

芦浜 Ashihama

「いま語るひと」石川逸子・作。下「」引用。

「-略-

で 私は久保山さんと同じ病室だったからわかるんだけど
ばたばた逝った仲間の死にかたがね 久保山さんと同じふうなんです

  焼津にいられないで
  漁師は無理といわれて
  いま クリーニング屋の大石又一さん

(私たちは きっと未来の話をきいているのかもしれない
 蛇のように核に巻かれた星のなかで 辛うじて呼吸しながら)

-略-」

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「ヒロシマを未来」として「チェルノブイリ事故」が起きたという人もいる……。

そして、「チェルノブイリが未来」という人もいる……。


こんな詩も掲載されていました。下「」引用。

「原発の電気は買いたくありません

原子力発電所でつくられた電気を 私は買いたくありません
服とか時計、首飾り、食物なんかには
買う自由、選ぶ自由があるのに
電気は選んで買う自由がどうしてないのでしょう

原発の電気は買いたくありません
水力、火力の電気を私は買いたいのです
少しくらい値が高くてなっても買いたいのです

-略-」

原発は高い、プルサーマルはさらに高くて危険であるという人もいる……。

そちらの人のほうが理屈があっている……。

合成洗剤追放運動についても書かれてありました。

「長岡弘芳」さん宛ての「平和の砦『野の花文庫』会館に向けて」生きもののうた文学会」というのが添付されていました。








もくじ

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ヒロシマを生きて

2008年04月02日 | 読書日記など
『ヒロシマを生きて』
  石田明・著/労働教育センター1998年

帯に書かれてあります。下「」引用。

「インドが核保有国に…、核兵器時代に、新たな乱れが生まれている。いま世界は核被爆の原点、広島に目を向け、広島で生きた被爆者石田さんの警鐘の声に耳を澄ませたい。そこには洗練されたヒロシマの哲学がある。
  広島県原爆被爆教職員の会 空辰男」



表紙の説明。下「」引用。

「母子
乳房を探すこの子は
母の死を
知っているのか
  表紙・画 増田勉」

会をつくった理由。下「」引用。

「私が育った戦前の軍国教育は、生命を投げだすことを美徳と教えられました。私はそれを信じ、進んで戦争に参加して、その挙げ句、原爆地獄に突き落とされました。そのような誤った教育の怖さを身をもって知る私に、兄をはじめ多くの原爆犠牲者が、教師として「平和を尊び、生命を大切にする人づくりのためにその身を捧げよ」と、遺言しているように思えるのです。私はそういう思いにかられて、ありったけの力を「ヒロシマ」に注ぎこんできました。
 一九六九年(昭和四四年)には、仲間の被爆教師たちと広島県原爆教師の会(現・広島県被爆教職員の会)をつくりました。原爆の風化に抗して、私たちの被爆体験をもつ教師が、「平和教育の先頭に立とう」との思いからでした。」

戦時中は……。下「」引用。

「当時、私は朝鮮にあった会寧(かいねい)航空隊に所属する陸軍少年航空特別幹部候補生でしたが、たまたま広島市郊外の実家に里帰り中でした。-略-あの日、武運長久を祈願するため、兄と一緒に電車で厳島(いつくしま)神社(広島県宮島町)に行くところでした。その途中で原爆に遭ったのです。」

非核三原則に対して。下「」引用。

「私たち被爆者団体をはじめ国内の平和団体は、政府の態度に業(ごう)を煮やして、これまで再三にわたり、非核三原則を明文化するように要請してきました。国会でも野党議員がそのことを要求しましたが、歴代内閣は「国是というのは、国によって立つ基本理念」として明文化を拒否しつづけています。非核三原則が法律にまさる国の基本理念であるのなら、どうして核持ち込み疑惑をきちんと調査するなど、もっと真摯(しんし)な対応をしないのでしょうか。言うこととすることが矛盾だらげです。」

著者は訴えます。下「」引用。

「訴訟は、私の名前をとって「石田原爆訴訟」と呼ばれました。「原爆訴訟」とはよい命名をしてくれたものです。訴訟の趣旨は認定申請却下処分の取り消しを求めたものですが、私は原爆投下の国際法違反と被爆者に対する国の責任を根本から問う決意でいました。」

原爆映画『ひろしま』の製作にも参加。

ビデオカセットも製作。下「」引用。

「一九八四年(昭和五九年)には「ヒロシマ」「ヒバクシャ」「炎の中に」の三本のビデオを平和学習のビデオセットとして製作しています。」

YouTubeで公開してもらうとありがたいのだが……。


「入試にでない余計な授業」
一 わたしは人間です。自分の不利益にはけっしてだまっていません。
二 わたしは人間です。なぜ、どうしてといつも大きな目をひらいて考えます。
三 わたしは人間です。いけないことははっきり「いけない」と批判します。
四 わたしは人間です。働くことを何よりも大切にします。
五 わたしは人間です。みんなで手をつないですばらしい仕事をやりとげます。








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原爆前后V

2008年04月02日 | 読書日記など
『原爆前后V』
   思い出集世話人・編/白井秀雄1971年

三菱には、他では手に入らない薬も、もらえたようです。



--名古屋航空発動機製作所に転勤していて、長崎原爆にあわなかったという。
しかし、空襲は原爆と比べものにならないが、回を重ねるにしたがい恐怖心が増したという。

この本でも、戦艦・武蔵が、「化物」と書かれてありました。

「邀撃戦闘機・秋水-その秘密基地を大村に作るの記-」という文章がありました。

ここでも海洋投棄されたようです。下「」引用。

「私が原爆で負傷し、約一月有余休養し、九月中旬出勤したときは、第三船殻工場には職員四名(内女子二名)と工員二二名しかおらなかった。工場長からは、今後の作業に対するなんらの方針も無い様子である。その内、米国兵が造船所内に進駐して来て、工員はその雑役に出ていたようだ。ある日、大きい兵士二、三名が事務所に入って来てロッカーを開け、工場団体旗を持出して行った。こけを見て誰もなんにも言わない。ただ彼等の行動を見守るばかりである。
 やがて、八軒家の本工場の建物が進駐軍に接収されることとなり、早急の整理を要求され、加藤三郎技師が指揮を取り工員を動員して一晩で片付けた。その時、特攻機・橘花に使用されるべき素材のジュラルミン板、約五○機分が格納されていたが、その大部分が海中に投げ捨てられたことを思い出す。」

旅行証明書をだしたという。下「」引用。

「造船所に出勤するとその日から、食堂跡の仮事務所で、旅行証明書の発行係の仕事に従事しました。鮑ノ浦の第一事務所の裏の空地で焼かれた死屍の、なんとも言えない臭気の中での仕事でした。
 次つぎに証明書を貰いに来られる人々は、みなさん怪我をしたり、火傷をした人ばかりでした。手当を受けられた繃帯の上にまで血が滲み、実にいたいたしい程でした。」

テレビもない時代、童話は受けたのかもしれませんね。下「」引用。

「私はよく挺身隊の寮を訪ねて、盆踊を教えたり童話を話したりして慰問して来た。従って挺身隊の人達は、私を懸賞係の技師としてよりも、踊りやお話の先生として親しんでくれたのであったが、こんなにひどい目にあって三十五名の美しい命を散らすのかと思うと、じーんと胸がつまった。」

サルゾールという薬があったという。下「」引用。

「昭和二十年春三菱化成黒崎工場に工事打合せに出張した時、サルゾールを二オンス程土産に頂戴した。当時夏になると徴用工の間に日本脳炎が流行し、その特効薬として発明されたものであるが、化膿を防ぐ薬として外傷にもよく利くという説明であった。サルファ剤の走りであるが、頂戴した時は左程貴重な薬とは考えていなかった。八月九日被爆の時、私は硝子の破片で背・肩等に傷ついたがすぐサルゾールを塗布したため、出血も止り化膿もしなかった。又長男も額に硝子による切傷を受けたが、これもまたサルゾールのお蔭で大したことにならずに済んだ。」









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