磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

シリーズ●日本の教師3 人類の未来への証言

2008年04月24日 | 読書日記など
『シリーズ●日本の教師3 人類の未来への証言』
   全国原爆被爆教職員連絡会・編/労働旬報社1980年

教師といっても、いろいろな人たちがおられるものです。いい先生が多くおられるんじゃないでしょうか?
--原爆をテーマでなくても、教育としても素晴らしいのではないでしょうか?

一番印象に残ったのは障害児教育である。下「」引用。

「成人ろう者の集まりの席で、私が広島で原爆を受けた被爆者であると話した時、彼らはこう言いきったのである。
「障害者は戦争を嫌います。戦時には障害者は役に立ちません。人間扱いされません。言ってみれば、障害者の福祉をすすめない政府は戦争屋になる可能性を持っているのです」
 このことばは、ろう者が歴史的に置かれてきた立場、現在置かれている立場を、ほとんうによく学んだ者のことばと思った。」

手話で『原爆の子』を……。下「」引用。

「七月の教材に『原爆の子」の詩の一篇を取り上げられた時、すばらしい手話の表現に気がついた。「平和」「平等」「あたりまえ」という三つのことばが、一つの同じ形で表わされるのである。人間の歴史の中で、教育を受けられず、家畜同様に扱われてきたろう者のことば、手話が、みごとな真理を表わしている! この発見は私を有頂天にするに充分であった。」




教師の人間愛……。伝えるべきもの、それも人間愛が一番大切なのではないでしょうか? 下「」引用。

「--地獄のような瞬間にあってもなおかつ愛する生徒を救おうとして遂に斃れたこれらの教師達の人間愛、教育愛を吾々は見逃してはならない--『原爆の子』序文より」

人間愛にたいしたら、イデオロギーなど小さなものだろうとボクは思う。

キリスト教でも、その他の宗教でも、ボクはもちろん、この部分しか信用していない……。もちろん、人間には……。

教師たちも、当時は学徒だったりする……。下「」引用。

「私は当時、長崎師範学校予科二年生在学中で三菱兵器製作所に動員されていました。三交代制八時間労働から二交替一二時間勤務と労働時間も延長されていましたし、空襲が激しさを増すとともに大橋工場から道尾(みちのお)のトンネル工場へと退避させられて、そこで魚雷のピストンピンの穴仕上げをさせられていました。」

「御真影」というのも、これは本人にとっても嫌な物でしかないとボクは思うが……。戦争の犬たちにはそうは思えないようです……。下「」引用。

「それは家族を失った悲しみを押え、それを乗りこえて学生・学徒の死者や負傷者の面倒を見ておられる先生がいらっしゃるなかで「御真影--天皇の写真--をお守りしたぞ!」と意気揚揚とどこからともなく現われた先生がいらしたということです。被爆後の二日間か三日間だったと思います。背に「御真影」をかついだいかにも不格好(ぶかっこう)でしたが、誇らし気な先生の顔と回りのひどい状況とはいかにも不釣り合いといった感じで、いかに軍国主義教育を叩き込まれた者といえども釈然としない感想をもったことを覚えています。」

左眼を失った16歳の少女だった空フミコさん。下「」引用。

「一六歳の少女にとって片眼が見えない不自由さより、みにくい顔に一編したことのほうがより深い痛手であった。その後、広島周辺に疎開していた数々の専門医にかかったが、「これは手のほどこしようがない。義眼もはいらない」という返事であった。」

畑教授から、ドイツ製の義眼を入れてもらったという。日本製のは駄目だったという。

--昭和21年4月、広島女学院専門家学校の保育科(家庭科)に入学。
そして、広島女学院にも四年生の新制大学ができ入学。
ウイルソン女史の指導する聖歌隊に入る。
そして、蒲刈中学校の教員となったという。

--昭和39年、アメリカからクエーカー教徒で大学教授のデイビット・ブルーナー夫妻が来広。
戦災孤児の援助や若者との交歓、広島の原爆投下の実態調査をしていたという。
クエーカー教徒の「ノーモア・ヒロシマズ」の活動の一つ。
--ここでバーバラ・レイノルズと知り合う。
そして、バーバラさんの運動に参加される……。

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長田新も戦時は天才教育に参加していたようだ……。下「」引用。

「河野教授が命拾いされたのは、文理大学長であり、ペスタロッチ研究の第一人者・後、日本子どもを守る会会長として、平和のために尽された長田新先生と共に、広島県東城町へ疎開していた天才教育の状況視察に出かけられたためである。
 天才教育とは、日本が科学戦で負けてはならぬと、市内各中学校の優秀生を選んで、他中学生が軍需工場で働いているのに、東城でしっかりと科学教育に打ち込んだことを言う。戦後、旧制三高(現京都大)受験、合格発表の時、天才教育生の合格率が、ペンをハンマースパナにかえ、粗食で、灯火管制下で勉学した学徒動員生より下まわった皮肉な現象が生じた。天才教育に対する批判と、働きながら勉学する強みを感じた。」

今じゃ、実際には役立たない偏差値教育というゲームの天才教育というのもあるのではないでしょうか?


「西瓜が食べたい」広島テレビの番組を教材として使われたという。








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原子炉被曝日記

2008年04月24日 | 読書日記など
『原子炉被曝日記』
   森江信・著/技術と人間1979年、1980年4刷

今でも、新しく原発を建てるということは、新しい被曝労働者を生むという……。差別社会の象徴でもある原発が世界の潮流となっていたら、それは人類にとっても不幸であろう……。



--1976年4月4日(日)にB社に入社。下「」引用。

「B社は原発関連サービス会社で、福島原発、敦賀原発、島根原発、玄海原発、東海村、大阪に事業所を置いている。研修先の福島第一原子力発電所のサイト内にある福島営業所が一番大きく、約二○○名が常駐して働いている。」

女房役といえば聞こえはいいが……。下「」引用。

「昨日の教育の続きで、各事業部門の説明をうけた。B社はもともと「ビル管理会社」、ひらたくいえば「そうじ会社」である。原発内の作業もそれに近い内容である。福島営業所の業務は大きく四つにわかれており、工事部門、保安助勢部門、ランドリー(洗濯)部門、および清掃・発電助勢部門となっている。話を聞いただけではよくわからないが、要するに原発内で日常的に発生する小さな作業を請負っているようだ。助勢という言葉が出てきたが、これは電力社員の手助けをすることだという。「うちは電力会社の女房役のようなものです」という説明を受けたが、よろず雑役係ということなのだろうか。」

--日記が書かれている。
初めての被曝作業は四月七日(水)だという。
まだ、入社から日も浅い……。

床除染作業



各所で集められた汚染服は管理区域入口近くのランドリー室へ。下「」引用。

「すぐそばに洗濯物専用の放射能測定機が置いてあるが、全然使おうとしない。作業員に「汚染はちゃんと落ちたんですか」と聞いたら、「さあ、どうかね。どれも合格しないんじゃないかな」と言う。この測定機は汚染が基準を超えるとランプがつくそうだが、以前使っていてあんまり不合格の洗濯物が多いからやめてしまったそうだ。」

会社はボロ儲け? 下「」引用。

「管理区域外の清掃のおばさん二人で月に百万円くらい稼ぐという。本当だろうか。おばさんたちの給料は月に約五万円だから、ボロもうけだ。」

線量計をはずす……。下「」引用。

「彼も線量計をはずして作業したことがあるという。「今から考えると馬鹿なことをしたなァ」と言いながら、そういう場合の心理を説明した。
「放射線は痛くも痒くもないからね。あれが悪いんだ。ちょっとぐらいごまかしても何ともないと思ってしまう。それに現場の雰囲気もある。被曝が嫌だと言うと勇気がない人間に見られる気がするんだ。マスクにしたって、みんながはずしているのに自分だけ着けるのはみっともないという感じがするんだな」

安全神話の闇に葬られる原発被曝労働者


今もロボットは使用不可能なのだろう……。


講談社文庫 原発被曝日記








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原爆と人間 被爆者援護法とは何か

2008年04月24日 | 読書日記など
『原爆と人間 被爆者援護法とは何か』
   石田忠・著/機関紙連合通信社1983年

このころは、著者は明治大学教授であり、日本被団協専門委員だったようです。



〈表紙写真〉嵐の中の母子像(作/本郷新)広島平和資料館前 撮影/機関紙連合通信社写真部

著者は被爆者ではないという。下「」引用。

「わたしくは被爆者でありません。したがって、自分の直接の体験として原爆や被爆者の苦しみを語ることはできません。
 わたしがとりあげるあらゆる事実、あらゆる論理はすべて、たくさんの証言や手記などを通して、わたしくが被爆者から学んだものにほかなりません。少なくとも、そうであるようにわたくしとしては努力するつもりです。」

--以前紹介した文章が掲載されていました。
一人の被爆者の体験だけでは、原爆の実相を伝えることはできないという。
そして、その一人一人が違った苦しみや、人生を背負っている……。

巨大な原爆像……。下「」引用。

「そうだとすれば、一人ひとりの被爆者が体験したこと、観察したことが、すべて、原爆についての貴重な証言であり、わたくしたちが原爆や被爆者について語ろうとする場合、その依拠するところはこれよりほかにはないわけではありますが、その一つ一つをこえたさきに巨大な原爆像を描くことが大切だということになります。」

東京の被爆者が次のように語っているという。下「」引用。

「被爆の惨状に深刻な精神的ショックをうけた。『私にはもうこれから生きていく未来がなくなった』という気持ちが当時からいまにつづく心の苦しみとなっている。からだとくらしの苦しみがある程度まで分かってもらえるでしょう。心の傷痕、苦しみこそ私は訴えたい。被爆の惨状に接して、『人間が人間に対して、このようにむごいことを行った』という事実を、私自身として、どのように受けとめ、理解し、そして生きて行くべきかに悩み、苦しみ、考えつづけています。」

老後が心配……。下「」引用。

「単純な事務労働で生計をたててきましたが、転職六回、結婚することもなく、いま不安な老後を迎えようとしています。「年をとってからだが利用なくなったら、もし寝たきりの病人にでもなったら、と思うと不安でたまらない」といっています。」

被爆者でなくても、心配な人は多いと思う世の中になりましたネ……。

しかし、やはりさらになる苦しみがある……。下「」引用。

「この〈原爆症の不安〉は、一九七七年NGO被爆問題シンポジウムの際の生活史調査の結果によれば、調査客体の七八%に認められました。そしてこの〈不安〉が急性症状のなかった者よりは急性症状のあった者の方には強いのは当然でしょう。それは、これらの被爆者には自分が原爆放射線の影響をうけているであろうことが否定できないからです。」

病気→家や土地を売り払う→治療しても治らない→生活が苦しいので無理して働く→死亡。

--今の世の中では、これにサラ金地獄が……。
ネットカフェ難民などの影にもサラ金が……。
--政府の委員会のメンバーにサラ金の社長までいたのを思い出します……。









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原爆回想記

2008年04月24日 | 読書日記など
『原爆回想記』
  広島市安佐北区白木公民館・白木町老人クラブ連合会(編)/
    広島市安佐北区白木公民館白木町老人クラブ連合会1985年

老人クラブ会員を中心にしてかかれた原稿をまとめられたようです。



このような一般の人たちの文章を読んでいると、ホッとします。

それはイデオロギー信仰をされている方など、ほとんどいないからです。

イデオロギー信仰されている人たちは、その世界では権威であられるようですし、名誉も地位もあられる方が多いのですが、ボクにはそれが平和につながる行動とは思えないのです。

それはなぜか? ゼロサムゲームという戦争につながるゲームをされている人がいるからです。
--こう書くだけでも、彼らは無茶な論理で非難してくるでしょう……。

「多様化を認めろというのに! 我々は認めないのか!」某イデオロギーの人たちには言われそうです……。
--あなたたちが多様性を認めないから、もし多様性を認めない、あなたたちを認めたら、私も多様性を認めない人になるんですよ。
子供に諭すように書かないといけないのに、彼らは権威的に上からみるのです。
誠に疲れる相手です……。

それに比べて、ボクと同じで権威もない人たちの文章です。
--ただ、戦争は御免こうむりたいという人たちの文章は、うんうん、そうだ、そうだ……と、すらすら読めてしまう……。



「原爆体験回想記の発刊にあたって」という文があります。下「」引用。

「白木町老人クラブ二十周年記念事業の一環として、何か後世に残るものをと色々企画されました。その結果原爆回想記を発刊することになり、白木公民館と共催で、老人クラブ会員を中心に被爆者の方の御協力により原稿を募集しました。
 被爆四十周年を迎えようとしている今日、被爆体験の風化が進行している現状を見るとき、被爆の体験を原点として、その惨状を次の世代への継承していきたいという被爆者としての使命感に燃えて、投稿された心情がひしひしと迫ってきます。-略-」

「テント張りの中三田収容所」白木町三田 溝口登
--中三田駅にも被災者が続々と降りてくる。
救護班を編成し、看護婦や婦人会の人を召集し、応急手当。

この本とは関係ありませんが。
--中曽根元総理のような人物は救援などしないし、この悲惨さを見ようともしない。
--これからは原爆の時代と思う、無責任な人物、そんな人が戦後日本の政治をおこなってきた……。

この表現もきついです。下「」引用。

「目玉はどこにいったのか、その中にうじ虫がビッシリ立ち込んでいる。この人達は歩いておられます。」

子ども4人を亡くされた親もおられます。下「」引用。

「後の子供四人は家の下敷になって妻がガスを吸って居て戸外に出した時は死亡して居たので火の中四人を積重ねて、骨の変りに頭の髪を切って形身として持って居ましたこんな可哀想で悲しいことはないと涙がとめどもなく出るばかりでした。」

「愛国美談」で、これをクリアーされては許せません!











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原発安楽死のすすめ=エネルギーと環境

2008年04月24日 | 読書日記など
『原発安楽死のすすめ』
   槌田敦・著/学陽書房1992年

『エネルギーと環境 原発安楽死のすすめ』
   槌田敦・著/学陽書房1993年

*本書は『原発安楽死のすすめ』を改題し、発行したものである。

水俣病では共産党系の組合は、被害者の立場ではなく、企業の労働者のために働いたという。原発ではどうなんだろうか?

帯に書かれてあります。下「」引用。

「現代石油文明は、水の循環も大気の循環も含め、自然の循環をことごとく破壊して、現在の人類を含む生命活動を収束させようとしている。(中略)「むかしに比べれば不便になった。しかし、子孫を困らせないためには仕方がない。ほどほどの暮らしで満足しよう」と社会倫理を明確にし、原子力を安楽死させ、環境の汚染と破壊を防ぎ、豊かな自然の循環のなかで暮らしたいと思う。」

原発も文化的なものではありませんね。
リサイクルなんていっても、きちんと循環するものではないようです。

共産党系の労組について書かれてありました。下「」引用。

「共産党系の労働組合や学者の一部に「原発は反対。だが、原子力平和利用は推進」という理解しづらい主張をする人たちがいるが、その本音はやはりこの雇用問題にあると思われる。
 雇用問題がもっとも真剣に議論されたのは、チェルノブイリ事故の直後であった。現在は連合といっているが、その母体となった全日本民間組合協議会(全民労協)で「原子力推進」を決議したことがあった。これはその中核であった全日本電機器労働組合連合会(電機労連)の提起によるもので、チェルノブイリ事故によって原発が下り坂になると、三菱、日立、東芝を中心に電機労連加盟の組合で首きり問題に発展する心配があったからである。」

・原子力発電 石油→ウラン燃料など→電力
・太陽光発電 石油→半導体など→電力
・水力発電 石油→ダムなど→電力
・石炭 石油→石炭など→電力

この本では、天然ガスが主流になるそうです? 下「」引用。

「今後の電源構成としては、おそらく、天然ガスによる自家発電が主流になると思われる。発電方法は、内燃機関でも燃料電池でもよく、送電設備が不要な分だけコスト安である。それに廃熱を利用して湯が沸かせるから、普及するにちがいない。」

ひ弱な構造が幸運したと、チェルノブイリのことを書かれていました。下「」引用。

「鉛によって事故が収束できたのは、チェルノブイリ事故で格納室と建屋の上部構造がすべて吹き飛んでいたからである。幸運なことに、ソ連の格納室の上部はたまたま周囲や下部の構造に比べてひ弱にできていた。そのため、爆発エネルギーは上の方向に集中し、いわば大砲のように上部構造が吹き飛ばし、そこにすっぽりと穴をあけてくれたのである。
 もしも、爆発が中途半端だったり上部構造が頑丈だったりすると、事故の様相はまったく異なり、鉛の投下など不可能であった。その場合、チェルノブイリ原発は長期間にわたって放射能を放出しつづけ、原子炉を含む「石棺」をつくる作業はとても困難だったであろう。」

今、お金をかけて、安全・安全とやっていることが、裏目にでることもあるのかもしれないと思いました……。

チェルノブイリでも差別があったと書かれています。

「公害と原発のあるところに民主主義はない」
「戦争は究極の差別」

差別的な原発、それをすすめる人たちが平和的勢力などとはボクには思えない。






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