磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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久保山愛吉物語〈付〉焼津/ビキニガイド

2008年05月06日 | 読書日記など
『久保山愛吉物語〈付〉焼津/ビキニガイド』
   飯塚利弘・著/かもがわ出版2001年

タイトルどおり、久保山愛吉さんの人生をおったものです。戦争でもマーシャル諸島に行かれていたことを知りました。



カバー絵「死んだ彼 : He Who Died」ベン・シャーン画(第五福竜丸平和協会提供)

安斎育郎さんが、『序文』を書いている。下「」引用。

「私は、科学者の社会的責任の重大さを痛感するようになった。」

焼津のことを説明。
--焼津駅南口を出ると、そこに「小泉八雲像」が立っているという。

愛吉さんもいたずら坊主であったようだ。

趣味はレコード鑑賞。

--徴用船でマーシャルへ
軍属とてして第五福吉丸(ふくよしまる)乗艇を命ずぜられたという。

1941(昭和16)年1月13日、愛吉は第三福吉丸の兄弟船である第五福吉丸(一一九・八一トン)の通信士となる。

昭和16年12月6日、マーシャル群島に向け横須賀発。
昭和17年1月9日、マーシャル群島(クェゼリン島)着、本隊に合同。

黒潮部隊に配属されたという。下「」引用。

「この第二二戦隊(監視艇隊)は別名・黒潮(くろしお)部隊という勇ましい名前で呼ばれたが、海軍の軍人の間ではひそかに「お墓(はか)部隊」の名でささやかれていた。第三福吉丸はこの黒潮部隊の第三監視艇隊に配属された。」

すずとの結婚生活で、愛吉はその生活ぶりを大きく変えていったという。

--2歳年下の弟と兄・栄太郎の戦死。

そして戦後、第五福竜丸で被爆し、闘病生活。

モートン博士の診断を断った理由が書かれてあった。
--モートン博士は、1人3時間の診断を要求したという。

死因についても書かれてありました。下「」引用。

「熊取敏之主治医は手記のなかで愛吉の死因にふれて、「根本は飽くまでも放射能症の続発症が、久保山の命を奪った」と述べている。さらに剖検報告「放射能症による死亡例の病理学的研究」(国立東京第一病院研究検査科病理・大橋成一)を部分的に引用しつつもう少しくわしく見てみよう。-略-」

ロバート・キャパ、ラルフ・E・ラップ、ベン・シャーンが焼津に訪れたという。

アンネのバラ」と「愛吉・すずのバラ」が立命館大学平和ミュージアムにあるという。










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