磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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長崎の証言 第8集

2008年01月17日 | 読書日記など
『長崎の証言第8集』
   長崎の証言刊行委員会・編/
     長崎の証言刊行委員会1976年

原子力船「むつ」のことが書かれてありましたが、今では廃止されていますね。原発も必要ありません。いろいろなソフトエネルギーの方が安全で安いです。利権をもっているいつものことに関わる人たちは、マスコミも含めて原発を強力に推進していますね……。




広島市より名誉市民称号を贈られたバーバラ・レイノルズのことが書かれてありました。下「」引用。

「広島・長崎記念コレクションの献納式
 八月三日の晩さん会において、バーバラ・レイノルズ女史から正式にウィルミントン大学平和資料センターへ資料が手渡された。これらの資料の中には、広島・長崎両市に投下された原爆関係の書類、書籍、新聞、雑誌の記事、映画、その他視聴覚教材等が含まれており、なお投下後の影響に関する資料も集められ、日本国外では唯一のものである。」

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三菱のことを、韓国の人が、「死の商人」と訴えておられます。下「」引用。

「被爆韓国人徴用工の証言と告発-三菱工業株式会社を告発する-」韓国原爆被害者援護協会理事・中央支部長 姜壽元(カンスウォン)。
 被爆韓国徴用工たちの死と“死の商人”三菱の繁栄
 -略-三菱の場合、広島・長崎だけで六千五百名をこえていた。この徴用工たちは「愛国貯金」などの名目で労賃ももらえず、強制酷使させられているうちに、あの残酷極まりない原子爆弾により被爆、五千名余が惨殺されたのであった。」

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「怒り悲しみを国境をこえて-長崎捕虜収容所被爆の証言-」田島治太夫(語り手)。
--学徒兵として召集、捕虜収容所へ。
8月1日の空襲でも捕虜3人死亡。

そして、訴えておられます。下「」引用。

「長崎にはいまだに彼ら外国人捕虜たちの慰霊の碑さえ建っていないのです。まず、長崎の人びとが考えを改めてほしい。長崎の証言の会がとりあげてくださるように訴えます。これが実現すれば、外国人にとっても、長崎は単なる観光地ではなく、同じ自分たちの仲間が原爆によって殺された受難地として、鮮烈に印象づけられ、彼らもまた世界平和と核兵器全面禁止のため頭を下げて反省することになると信じます。」

この碑はできたのでしようか?
有意義な碑ですね……。

「道ノ尾駅であった少女」山下熊一(十一日、救護団員として市内に入る。)では、悲惨な様子が描かれていました。下「」引用。

「松山と大橋の中間ぐらいの所だったと思う。ここにも六、七名の死体があった。その中には母親の太もももを枕にして親子が死んでいた。見ればその子のヘソの緒が、母親の腹に連がっている。数多くの死体を見てあまり感じなくなっていた私は、これを見た時、何か電気に打たれたように、全身身の毛のよだつ感がした。おそらく臨月の母親から原爆の爆風でその胎児が飛びだし、そのまま母の腿を枕にして死んでしまったのであろう。ああ、この子は、原爆のためにこの世に生まれながら現世に一呼吸したかどうか。何ということかなしい運命だったのか。私は作業の手を止めて静かに合掌したのであった。」

「浦上第一病院受難の記録」岩永富一郎(当時、浦上第一病院勤務。現在聖フランシスコ会本原教会修道士、69才)では、浦上修院の校医は故永井隆博士と書かれてありました。


秋月辰一郎の発言が書かれてありました。下「」引用。

「そしてもう一つは、終戦後、被爆地をアメリカ兵が視察に来るという時、現在の夫である医長の秋月さんらは、女子供は何をされるかわからないどこかに避難するように言われたが、「こんなケガをした人や看護している者を、そんなひどいことすることはないだろうから、私はここにいます」と言って、そのまま看護をつづけた」

「単なるアレルギーではない」というタイトルの文書がありましたが、アレルギーでは100%ありません。きちんとした理性と教養のある反応です。間違えないでいただきたいものです。「原子力と人類が共存できることはない」ということを否定することはできないとボクは強く思う……。

(※)要するに共存できない! と書いています。ややこしい文章ですみません。








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