龍の声

龍の声は、天の声

「太平洋戦争におけるエース・パイロット 坂井三郎とは、」

2016-04-24 12:41:46 | 日本

◎パイロットになるまでの経歴

坂井三郎(さかい さぶろう、1916年(大正5年)8月26日 - 2000年(平成12年)9月22日)は、日本の海軍軍人。ポツダム進級により最終階級は海軍中尉。太平洋戦争におけるエース・パイロット。著書『大空のサムライ』で有名である。

1916年(大正5年)8月26日、佐賀県佐賀郡に生まれる。坂井が5歳のときに一家は祖父の家から夜逃げ同然で出奔して貧しい生活を送った。父は、坂井が小学校6年生の1928年(昭和3年)秋、36歳で病没。残された母と6人の子供の生活は困窮した。
坂井は東京に引き取られる形で上京した。坂井は新宿府立六中を受験したが落ちて青山学院中等部に進学したが、成績不振で落第して退学処分となった。

その後は実家に帰され約2年間、農作業に従事した。この頃から自身の将来について真剣に考えるようになった。スピードへの憧れがあった。農作業をしつつ仰ぎながら見た速い物としての飛行機に憧れた。

「海軍少年航空兵」募集のポスターを見て二回受験したが、不合格になった。
海軍の志願兵に受験し合格、周囲は反対したが1933年(昭和8年)5月1日、四等水兵として佐世保海兵団へ入団する。1933年10月1日、戦艦霧島に配属され、15センチ副砲の砲手となる。

それでもめげずに年齢的に最後となる操縦練習生を受験して合格。
1937年(昭和12年)3月10日、霞ヶ浦航空隊に入隊、4月1日初飛行。練習生の中では、操縦が上手いほうではなく単独飛行が許されたのは卒業も近い最後だった。卒業後の延長教育の射撃も上手くはなかった。首席を目指して勉強に励んだ結果、希望どおり艦上戦闘機操縦者として選ばれ、同年11月30日に第38期操縦練習生を首席で卒業。

卒業式では昭和天皇名代の伏見宮博恭王より、恩賜の銀時計を拝受し、海軍戦闘機搭乗員としての道を歩み始める。佐伯航空隊付、戦闘機操縦者としての延長教育を受ける。この佐伯航空隊時代に、操練の三期先輩に当たる原田要が空戦訓練の相手に組まれ、切磋琢磨した[6]。1938年(昭和13年)4月9日、大村航空隊に配属。5月11日、三等航空兵曹に昇進。高雄航空隊付。

その後、支那事変、台南空、比島・蘭印方面、ラバウル方面に転戦。重大な負傷後も硫黄島にて戦う。


◎空戦法には特徴がある。

坂井は戦闘機乗りが最後の頼みとするのは自分だけであるという。格闘戦で一騎打ちをやる場合、徹底的な頑張りがなくてはいけない。必ず勝てるという信念で頑張りぬいた者が空中戦で敵に勝つ人で、辛いと思うときは互角かむしろ勝っている方が多い。その苦しい最後のとき、へばったものが落とされる運命であるという。また、坂井は空中戦の鉄則はまず見張りであり、敵を発見したら自分は撃てるが相手は撃てない位置に潜り込め、空中戦は牧羊犬の動きと考えよという。格闘戦に入ったら自分の得意の技に引き込むごとく操縦せよ。相手の尾部が目に入ったらわれ勝てりだという。格闘戦とは自分が不利に立たされた最後の手だと思え、相手を動かさない据え物切りこそ空中戦の極意ともいう。晩年に行われた加藤寛一郎の取材では、格闘戦とは窮地に入ったときの脱出法と心得よ、空戦は据え物斬りと心得よという点を強調していたという。坂井は、目を鍛えたことで2万メートルから2万5千メートル先の敵が見えるようになったことが割と格闘戦をやらないで撃墜できた理由と主張している。ドッグファイトでは自分もピンチになることがあるので、圧倒的有利に立った奇襲一撃で先手を取るという。著書には「左捻り込み」で撃墜する描写がみられるが、最晩年の坂井はただの一度も実戦では使ったことがないと主張している。坂井は、死角であり、気づいてダイブする敵も翼を傾け背面になって絶好の標的になるとして後下方からの攻撃を好んだという。坂井は、空戦空域に入った際の見張り方を「前を2、後ろを9」の割合で索敵するという。坂井は水平線より上の索敵を得意としていたという。

空戦指導に関して坂井は、初心者には相手に食らいつきいよいよ機銃発射という直前には後方を確認するように教え、その上の者には追ってくる次の敵の未来位置を想定して攻撃をかわすように教え、さらに上の者にはかわすだけではなく巻き返してカウンターで撃墜するように教えると語っている。

視力に関して、笹井の手紙にある「坂井三郎という男あり、片目0.8ながら、なおかつ私よりも敵を早く発見し・・・」という記述について聞かれた坂井は、支那事変で一度負傷した際に破片が目の瞳孔のど真ん中に突き刺さり、ワセリンで拭いてもらい見えるようになったが、左目が飛行機乗りで最低の0.8になったからで、右目は鍛錬でぐんぐん視力がよくなり、今度はガダルカナルで右目をやられると左目がぐんぐん見えるようになったと語っている。坂井は昼間に星を見て視力を鍛えたと主張しているが、加藤寛一郎は「昼間に星が見えた」とは、南の島で上を向いて頭を固定して、星座表で星の位置をあらかじめ確かめておき、午後二時から三時ごろ、五つか六つ星が見えるという意味であろうという。

零戦の最大の武器は20mm機銃という説に対し、坂井は「20mmは初速が遅く、ションベン弾」と低い評価をしており、命中率が悪い上に携行弾数も7.7mmより少なく、弾倉に被弾したら機が四散するほどの誘爆を起す危険を指摘している。しかし「敵機の翼付け根に一発でも命中すれば、翼が真っ二つになった」ともいい、その威力に関しては評価もしている。自身のスコアのほとんどは機首の7.7mm機銃でのものだったと語っている。また、「前縁いっぱいに一三ミリ砲の火を噴くアメリカ軍の戦闘機を羨ましく思った」と語っている。

特攻作戦に赴く特攻隊員に対しては、「遅かれ早かれ我々も行かなきゃいかん。遅いか早いかだよ。ただし、どうせ行くんだから命中したいなぁ。それには俺の言うことを聞け。それには(角度を)絶対に深く行っちゃ駄目だよ」と声をかけて送り出していた。

戦後、坂井は硫黄島で特攻を命じられたことについて(実際に命じられた記録はない)、特攻を名誉に思う反面、「なぜおれが」という気持ちがあったと語っている。また、「特攻で士気があがったと大本営は発表したが大嘘。『絶対死ぬ』作戦で士気があがるわけがなく、士気は大きく下がった」とも答えている。







最新の画像もっと見る