やぶさかじゃない・・・と言う日本語があるが、非常に難解な日本語だと思う。
轆輪眞山
天智天皇は敗戦処理の天皇で唐の圧力と大和の国民との間で、苦労の絶えない天皇であったと
考えます。しかも百済義慈王の子、余豊として、この苦難の時に天皇になったのですから、中国と
国内との板挟みで、政治的に失墜しました。
大和国内の反天智運動は広がり、天智天皇は、生きたまま息子の大友皇子に天皇位を譲ろうと
します、このとき、大友皇子の后は、孝徳天皇と額田王の間にできた娘・・・十市皇女でした。
この譲位は、国内の反対勢力に火を注ぎ、ついに元孝徳天皇の許可のもと、蘇我入鹿の息子の
高市皇子が反乱を起こします。
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壬申の乱がこれです。・・・・高市皇子は日本書紀では天智の息子とされ、歴史家の小林恵子氏
は天武(大海皇子)の子だとされていますが、私は蘇我入鹿の息子、聖徳太子の孫だと考えます。
高市皇子のクーデターは成功し、壬申の乱で、天智~大友(弘文天皇)の天智近江朝は
倒壊しました。
高市皇子は大友(弘文天皇)の后の十市皇女と額田王を救出します。その後、高市皇子
は天皇に即位したと私は考えます。これが天武天皇の真実の姿なのです。
ここで、ひとこと言っておきますと、天武天皇は日本書紀によれば、大海皇子が壬申の乱以後に
即位して、うち立てた政権であると書かれ、古今東西、これを疑う人は狂気だと見なされるほど
確固として信じられています。これに反する説を出したのは私だけだと思います。
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大和国内の反天智運動は広がり、天智天皇は、生きたまま息子の大友皇子に天皇位を譲ろうと
します、このとき、大友皇子の后は、孝徳天皇と額田王の間にできた娘・・・十市皇女でした。
この譲位は、国内の反対勢力に火を注ぎ、ついに元孝徳天皇の許可のもと、蘇我入鹿の息子の
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は天武(大海皇子)の子だとされていますが、私は蘇我入鹿の息子、聖徳太子の孫だと考えます。
高市皇子のクーデターは成功し、壬申の乱で、天智~大友(弘文天皇)の天智近江朝は
倒壊しました。
高市皇子は大友(弘文天皇)の后の十市皇女と額田王を救出します。その後、高市皇子
は天皇に即位したと私は考えます。これが天武天皇の真実の姿なのです。
ここで、ひとこと言っておきますと、天武天皇は日本書紀によれば、大海皇子が壬申の乱以後に
即位して、うち立てた政権であると書かれ、古今東西、これを疑う人は狂気だと見なされるほど
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