と言っても、当然のごとく本人が我が家を訪問したわけではない。またレコードの“ジョンの魂”や“イマジン”という形でやってきたのでもなかった。
最初にやって来たのは、なんと“ビートルズ革命”というハード・カバーの単行本であった。なんでも、親戚の人が出版社に入社し、どうもこの本の出版に関わっていたようで、初版出版の記念の送呈本として我が家にやってきたのである。
その時に、その本を読んだかどうかしっかりとした記憶がないため、確実なことは言えないのだが、当時ビートルズというグループは知っていても、ジョン・レノンという個人にはあまり関心がなかったし、また本のタイトルに“革命”と言う文字が刻まれていたので、少なくとも私を含めた我が家のメンバーがその本に対してほとんど興味を示さなかったことは間違いがないと思う。
70年代の始めには、学生運動が過激な方向に行き、当時の一般的な家庭では保守的な思考を持つ風潮だったので、彼らの行動は受け入れられなかった。そのため、当時彼らの活動を連想させる言葉には、やはりネガティブな印象があったのだろう。
また1972年といえば、我が家にもステレオが購入され、ロック入門としてビートルズ、サイモンとガーファンクルや英ハード・ロック・バンドなど定番と言えるレコードが集まり始めたばかりで、ビートルズの多くの未購入だったアルバムを差し置いて、ジョンのソロアルバムを先に購入することは有り得なかった。 そして、ビートルズ時代末期にオノ・ヨーコと制作した前衛3部作の評判や、1969年のトロントでのライブのサイド2の曲の出来から、“ジョンの魂”や“イマジン”の購入は特に急ぐべきものでもなかったと判断したのであった。
と言う状況で 、最初に家にやってきたジョンのレコードは、1973年のソロ4作目(サム・タイム・イン・ニューヨーク・シティーを含めて)のマインド・ゲームだった。かなり後になって 、“ジョンの魂”や“イマジン”を購入し、それらがジョンのソロ活動におけるベストの作品であったことを知る。
特に1971年に発売されたイマジンは、少数の気心の知れたミュージシャンを起用し、ウォール・サウンドで有名なフィル・スペクターも制作に名を連ねていたがストリングスは控えめで、少し力を抜いたボーカルなどにより、派手さのないシンプルな作品に仕上がっため、メロディの良さがさらに際立ったと思った。
その中で、イマジンやジェラス・ガイなどの超有名曲の陰に隠れていた、美しいメロディーを持ったオー・マイ・ラブが個人的な好みで、この曲の延長上に後のナンバー・ナイン・ドリーム(数字の前に#がついた場合、欧米ではそれをNO.と読む)やウーマンと言う名曲が生まれたのではないかと考える。
それ以外にも、アイ・アム・ザ・ウォラスのような歌い方で始まる“真実が欲しい(GIVE ME SOME TRUTH)”や例の豚の耳をつかんだ写真と共にポールを揶揄したと言われる“ハウ・ドー・ユー・スリープ”、アップテンポのクリップルド・インサイドとオー・ヨーコなどバラエティーに富んだ内容にも注目が行った。
“ハウ・ドー・ユー・スリープ” は少しやり過ぎた印象もあるのだが、1957年ジョンがクオリーメン時代にポールと知り合って以来長い間行動を共にしていたので、各々の性格はよく掴んでいたと思う。だから第三者の目にはシリアスに対立しあっているように感じても、当の本人達は、それほどでもなく単にキツ目のジョーク合戦を楽しんでいたのではないかとさえ思えるのである。
本当にお互いを憎々しく感じていたのであれば、何もアルバムの貴重な1曲のスペースを個人攻撃の目的に使うような無駄なことはしないと思うし、後にジョンは、俺がポールとヨーコを選択したことは間違いのない判断だったなどと言ってたみたいだし…… “ジョンの魂”や“イマジン”の出来からジョンを神格化する必要もないし、音楽に関してはジョンあってのポールだし、ポールあってのジョンというごく普通の二人の立ち位置があったのではないだろうか?
そういった意味では、前出の単行本でのビートルズやソロに置けるジョンの活動を“革命”という言葉で括り付けることは 今となっては非常に違和感がある。やはり70年代初めの頃の情勢がそうさせたのだろうか?
エルトン・ジョンやデビッド・ボウイーらとのコラボはその後ポールと一緒に何かをするための予行演習だったような気もする。それだけに、突然の死去は本当に残念なことだったと思う。
ジョージ、フィル・スペクターやニッキー・ホプキンスそれに小野洋子氏も出てきます。
Oh My Love - John Lennon
最初にやって来たのは、なんと“ビートルズ革命”というハード・カバーの単行本であった。なんでも、親戚の人が出版社に入社し、どうもこの本の出版に関わっていたようで、初版出版の記念の送呈本として我が家にやってきたのである。
その時に、その本を読んだかどうかしっかりとした記憶がないため、確実なことは言えないのだが、当時ビートルズというグループは知っていても、ジョン・レノンという個人にはあまり関心がなかったし、また本のタイトルに“革命”と言う文字が刻まれていたので、少なくとも私を含めた我が家のメンバーがその本に対してほとんど興味を示さなかったことは間違いがないと思う。
70年代の始めには、学生運動が過激な方向に行き、当時の一般的な家庭では保守的な思考を持つ風潮だったので、彼らの行動は受け入れられなかった。そのため、当時彼らの活動を連想させる言葉には、やはりネガティブな印象があったのだろう。
また1972年といえば、我が家にもステレオが購入され、ロック入門としてビートルズ、サイモンとガーファンクルや英ハード・ロック・バンドなど定番と言えるレコードが集まり始めたばかりで、ビートルズの多くの未購入だったアルバムを差し置いて、ジョンのソロアルバムを先に購入することは有り得なかった。 そして、ビートルズ時代末期にオノ・ヨーコと制作した前衛3部作の評判や、1969年のトロントでのライブのサイド2の曲の出来から、“ジョンの魂”や“イマジン”の購入は特に急ぐべきものでもなかったと判断したのであった。
と言う状況で 、最初に家にやってきたジョンのレコードは、1973年のソロ4作目(サム・タイム・イン・ニューヨーク・シティーを含めて)のマインド・ゲームだった。かなり後になって 、“ジョンの魂”や“イマジン”を購入し、それらがジョンのソロ活動におけるベストの作品であったことを知る。
特に1971年に発売されたイマジンは、少数の気心の知れたミュージシャンを起用し、ウォール・サウンドで有名なフィル・スペクターも制作に名を連ねていたがストリングスは控えめで、少し力を抜いたボーカルなどにより、派手さのないシンプルな作品に仕上がっため、メロディの良さがさらに際立ったと思った。
その中で、イマジンやジェラス・ガイなどの超有名曲の陰に隠れていた、美しいメロディーを持ったオー・マイ・ラブが個人的な好みで、この曲の延長上に後のナンバー・ナイン・ドリーム(数字の前に#がついた場合、欧米ではそれをNO.と読む)やウーマンと言う名曲が生まれたのではないかと考える。
それ以外にも、アイ・アム・ザ・ウォラスのような歌い方で始まる“真実が欲しい(GIVE ME SOME TRUTH)”や例の豚の耳をつかんだ写真と共にポールを揶揄したと言われる“ハウ・ドー・ユー・スリープ”、アップテンポのクリップルド・インサイドとオー・ヨーコなどバラエティーに富んだ内容にも注目が行った。
“ハウ・ドー・ユー・スリープ” は少しやり過ぎた印象もあるのだが、1957年ジョンがクオリーメン時代にポールと知り合って以来長い間行動を共にしていたので、各々の性格はよく掴んでいたと思う。だから第三者の目にはシリアスに対立しあっているように感じても、当の本人達は、それほどでもなく単にキツ目のジョーク合戦を楽しんでいたのではないかとさえ思えるのである。
本当にお互いを憎々しく感じていたのであれば、何もアルバムの貴重な1曲のスペースを個人攻撃の目的に使うような無駄なことはしないと思うし、後にジョンは、俺がポールとヨーコを選択したことは間違いのない判断だったなどと言ってたみたいだし…… “ジョンの魂”や“イマジン”の出来からジョンを神格化する必要もないし、音楽に関してはジョンあってのポールだし、ポールあってのジョンというごく普通の二人の立ち位置があったのではないだろうか?
そういった意味では、前出の単行本でのビートルズやソロに置けるジョンの活動を“革命”という言葉で括り付けることは 今となっては非常に違和感がある。やはり70年代初めの頃の情勢がそうさせたのだろうか?
エルトン・ジョンやデビッド・ボウイーらとのコラボはその後ポールと一緒に何かをするための予行演習だったような気もする。それだけに、突然の死去は本当に残念なことだったと思う。
ジョージ、フィル・スペクターやニッキー・ホプキンスそれに小野洋子氏も出てきます。
Oh My Love - John Lennon
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