林間教育通信(「東大式個別ゼミ」改め「シリウス英語個別塾」)

私立中高一貫校生徒を対象とする英語個別指導塾。小田急線の東林間駅(相模大野と中央林間の隣駅)から徒歩3分。

マックのコーヒーは60円

2010年09月14日 | 教養英語
最近の私は、よくマクドで珈琲を飲む。何といっても家の家のすぐ近くにあって料金もやすいので、気分転換には最適だからだ。珈琲だと、おかりを何杯飲んでも良いのも魅力だ。その上、申し込みさえすれば、無線 LAN も可能だという。

さらに良い話がある。コーヒーの通常価格は100円だが、ディスカウントチケット屋だと珈琲券が50円~60円で売られていることである。写真は相模大野で購入した1枚60円のもの。ただし、使えるのは2週間くらいと限定されている。


昼間のマックは、老人が読書をしている姿がしばしば見られるのが興味深い。もちろん、主婦やサラリーマンもいる。ただしマックで受験勉強している生徒あまり見たことはない。

受験生が多いのは、どこでもなぜかドトールの方だ。町田あたりだと受験生ばかりという感じになる。ただし、東林間のドトールコーヒーには受験生はあまりいない。

さて、今日もこのチケットを使ってマクドでコーヒーを飲んだ。読書をするためだ。二つの本を持っていった。1冊は Rebecca Brown, The end of youth というもの。日本では柴田元幸の翻訳で有名になった。簡潔でちょっと不思議な文体の小説家だ。もう1冊は、西岸良平の『3丁目の夕日』。どちらもノスタルジックな光景が描かれていた。


付録(だるまさんが転んにゃ)

「二十四の瞳」ー唱歌によって子供たちの協調精神を描く

2010年09月13日 | 教養英語
(6)唱歌に頼る「二十四の瞳」の手法では、現代人には通じにくい。

前回、木下恵介監督の「二十四の瞳」は一種の群像的ドラマであり、一人一人の子供たちの境遇の違いなどを描き分けよとしていると評価した。確かにそういう意味でも貴重な映画である。しかし、実はそれ故に、致命的な弱点をも抱えているのである。

私は、子供たちの境遇には様々な違いがあり、単純な「貧困」の一言によって要約されないような描写があると書いていた。しかし、予備知識を持っていない普通の現代人にとっては、12人もの子供の境遇の状況を想像するのは、ちょっと難しすぎるのである。

当時の人にとっては、例えば、「将来嫁になることを前提に都会に働きに出される」という説明があっただけで、その意味するものは明白だったのだろう。だから、簡単な説明だけで、その女の子の厳しい境遇が想像できてしまう。あるいは、ブカブカの靴を履いている男の子の映像が出てきたとしても、説明は必要ないだろう。しかし、今の子供たちには、説明されなければぶかぶの靴の意味は意味不明である。

現代人が鑑賞するという観点から見れば、1人の子供なり1人の時代に絞って詳しく丁寧に描写してもらわなければ、ちょっと困ってしまうのである。そういう意味でも、ちょっと賞味期限が切れているというわけである。だが、それは問題の一つにすぎない。


今回の記事で書きたいのは、むしろには2番目のことである。

これも前回書いた事であるが、坪井栄原作の小説の方では、子供たちの間での優越感だとか劣等感だとか、我を貼ったり相手をバカにしたりとかするような描写があるのに、映画の方でおそれが感じられなかった。これは私の勝手な思い込みなのかと思ってインターネットで調べたところ、名古屋女子大学の荒川志津代という方の2009年の紀要論文「映画『二十四の瞳』に描かれた子ども像  -戦後における子どもイメージの原点についての検討」にも同じ趣旨の事が述べられていた。

そこで自信を持って再度述べるが、木下恵介監督の映画の方では子供たちの間の対立や葛藤が覆い隠されているのである。原作の小説における子供たちの間の対立的場面が描かれていないというだけではない。むしろ、積極的に子供たちの協調と相互扶助の精神が強調されているのである。そのためのもっとも大事な手法が、当時の日本人ならば誰でも感情的に突き動かされる小学唱歌を多用したということである。唱歌は朗々と映画全体を流れ、当時の映画鑑賞者にノスタルジックな感動を大いに喚起せざるを得ない。子供時代の懐かしい良い思い出がよみがえってくるのだ。この唱歌こそが、子供たちの協調(ハーモニー)の精神を表現するための通奏低音なのである。(おそらく木下においては、戦時中のウルトラ・ナショナリズムの精神を、健全なナショナリズムに転換しようという意図もあったに違いない)。

子供たちの間にある葛藤や対立を意図的に無視してしまう木下の映画作りについては、いろんな見解があるだろう。私としては、木下の映画よりも原作の方がより興味深いものに映ったが、その点については深入りしない。

問題は、イデオロギー的な観点がどのようなものであれ、国民唱歌に頼って子供たちの協調の精神を描くのでは現代人には通用しないことだ。現代人は、国民唱歌は知っているかもしれないが、情緒的に大きく喚起されるということはない。とすれば、唱歌に頼る映画というのは、民族主義的なイデオロギー装置としても、情緒的な感激をする映画としても、不十分だということになってしまうのである。国民唱歌は、普遍的な音楽というよりは、時代的に限定された音楽のようである。

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結論的に言えば、木下恵介監督の「二十四の瞳」は、誰にでも勧められる映画というよりは、この時代を勉強したり、映画について学んだことのある大学生以上に勧められる作品のように思われる。大変興味深いが、今となっては決して子供向けではない。多くの人がブログやHPでこの映画を強く薦めている理由も、ちょっと理解しがたい。

たとえば、貧困の問題を理解してもらいたいのであるとすれば、例えば、溝口健二の「赤線地帯」(1956年)のほうが分りやすいだろう。あるいは、ブニュエル監督の「忘れられた人々」の方が良いだろう。(私が昔ゼミ学生に見せたのは、ブニュエルの方でした)。

『プログレス』に固執する学園

2010年09月12日 | 教養英語
先日、朝日小学生新聞を見ると、中高一貫校の宣伝特集です。この小学生新聞は、すっかり私立中学受験生のための新聞になっているようですね。

いくつかの私立学校の宣伝があります。ところが、やっぱり英語教科書『プログレス』の使用にこだわっている学校があるようですね。(写真参照のこと)。上位校の場合はともかく、中堅校以下の場合は、なるべく早急に『プログレス』はやめてもらいたいものです。今、無理をしてプログレスを利用し続けている学園は、生徒のための教育という視点を持つことはできないのでしょうか。親の見栄だとかがそれほど大事なのでしょうか。大変残念です。根本的に考え方を改めてもらうことはできないのでしょうか。

なお、当塾では『プログレス』支援は、そろそろ中止しようかとも考えています。あの難解な教科書に取り組む時間があるならば、『シリウス発展編』のVol.1かVol.2のマスターに時間を費やす方がよっぽど英語学習につながるからです。

USBアダプタで音声認識は良好

2010年09月12日 | 文房具と読書
PLANEX USB→3.5mmヘッドホン/マイク端子 USBオーディオ変換アダプタ PL-US35AP
クリエーター情報なし
プラネックス
  ¥ 1,470

最近購入した USB アダプタ(PLANEX USB→3.5mmヘッドホン/マイク端子 USBオーディオ変換アダプタ PL-US35AP)を利用し、音声認識をしています。

一緒に使っているのは、かなり前に購入したドラゴンスピーチあるいは ViaVoice で入手した方耳だけのヘッドフォンマイクです。

認識率は極めて良好です。ただ遺憾なのは、ヘッドフォンの方が音が聞えない場合がしばしばある事です。これは、パソコン用ステレオモニターが後の音声出力ジャックが挿されているからだと思われます。(ある種の操作をすると、ちゃんと聞こえるようになるようだが)。

とはいえ、全体として USB サウンドアダプタというのはとても良いと思いました。あとは、より快適なマイクロフォンを探すだけではないかと思います。(ヘッドセットタイプというのは、やはり頭が煩わしい)。

もちろん24の瞳については、夜が明けてからでも続きを書く予定です。


二十四の瞳(その2)ーー群像ドラマ

2010年09月11日 | 文房具と読書
(5)大石先生を演じるのは昭和の大女優高峰秀子である。だが、彼女も実は主人公の一人にすぎない。原作においてはもちろんのことだが、この映画においても公募で集められた子役たちが、本当の主人公になりえている。さすがだ。

田舎の子供たちを取り巻く諸問題とは、一言で言ってしまえば貧困問題といえてしまうかもしれない。しかし、ひとり一人の子供たちの境遇はそれぞれ微妙に異なり、それぞれ別の悩みを抱えていることが映画からも見て取れるのである。「貧困」という安易な要約を許さない点にこそ、「二十四の瞳」が群像ドラマとして効果を上げている点ではないかと思うのだ。 

都会的意味で裕福な子供はいないかもしれないが、それなりに生活に余裕のある生徒もいるし、そうではない子もいることが分かる。生活の余裕がある子は、小学校高学年ともなると、様々な夢を抱ける。もちろん、それがかなうとは限らないことを我々は知っている。

進学できる子、できない子。裕福であっても、勉強嫌いで進学したくない子もいる。小学校卒業後も上の学校に進み、将来は兵隊になって下士官になろうという子。高等教育をうけて直ちに下士官になり、さらに出世しようという子。夢を語れない貧しい子、嫁として売られていくことを覚悟する女の子。歌手になりたいという夢がつよくて家出してしまう、裕福な家の子等々。もちろんその後には過酷な運命も待ち受けており、多くが後戦死したり、売られたりっするわけである。。。。


ところで「二十四の瞳」といえば、今回の記事に掲載した、汽車ごっこをしている村の貧しい子供たちのイメージであった。貧しい村の子供たちだけれども、ともに遊び、互いに助け合って成長していく例のイメージである。私も映画を見ている限りは、そういう風な受け取り方であった。しかし、原作を読むと、自尊心が強く、互いに張り合ったり、あるいは、恵まれない子を馬鹿にしたり、優越感にひたったりといった現実も、正確に描いているのだ。

たとえば、「将来は下士官になるぞ」という子がいるから、「僕は大学を卒業したら、即、下士官になるんだぞ」という趣旨の発言の子供がでてくる。だが、壺井栄は、その少年たちの言葉を黙って聴いているしかない、ずっとずっと貧しい子供が居ることを見逃さないのだ。

さらに残酷なこと、たとえば、「遊び女として売られた◎◎子に会ったぞ」とか、「めくらになるくらいなら死んでしまった方がよいのに」といった同級生の言葉さえも、この小説にはあるのだ。

映画にはもしかしたら十分に描写されていなかったかもしれない葛藤や対立が、実は原作にはあったということであろうか(続く)

「二十四の瞳」ー昭和の20年間を村の庶民の視点で回顧する

2010年09月10日 | 教養英語
先日、壺井栄原作の映画『二十四の瞳』をはじめて見てみた。いまではいくつかのバージョンがあるようだが、木下恵介監督、高峰秀子主演のオリジナルのほうだ。製作発表されたのは昭和29年(1954年)で、黒澤明の「七人の侍」等を抑えて『キネ旬』の一位に選ばれた。そんな日本映画の黄金時代の名作である。

「二十四の瞳」は昭和29年当時の観客にとって、間違いなく感涙物のはずだ。今の大人にとっては、批評的に見るならばたいそう興味深い作品と評価するだろう。ただし、塾のブログであるから書いておくのだが、平成生まれの子供たちに対して、そのまま鑑賞を勧められるような作品だとは言いにい。昭和の歴史を知らない子供たちには分りにくいし、退屈かもしれない作品である。いったい、どのような作品なのか?


私は初めてみるものだから、てっきり、戦争に翻弄される子供たちを描いた,反戦的な色彩根の強い映画かと思っていた。だが、予想は外れた。むしろ、昭和の20年間を、農村漁村の生活者の視点から、淡々と回顧する作品だったのである。それ故に、この映画作品が貴重なのである。が、同時に、現代の子供たちには少々わかりにくい。いや、もっとはっきりいってしまえば、私にも少々難しい作品だった。

映画は昭和3年(1928年)から始まっており、昭和25年くらいまでが描かれているという設定になっている。この年月を、1人の若い女性が結婚して子供がいる中年女性になるくらいの期間において、たっぷりと描いたものだ。当時の日本人の観客は、懐かしみながら、悲しみを思い起こしながら、鑑賞したことだろう。

外国の作品でいえば,ギリシャ映画の『旅芸人の記録』 と似たような雰囲気だ。調べてみると、日本人にはちょっと退屈なこのギリシャ映画は、1939年から1952年の歴史と政治史が旅芸人の視点から語られているものである。なるほど,年代的にも手法的にもかなり重なりあっていることが想像できる。

「旅芸人」よりも、さらに「二十四の瞳」と似ている映画も見たことがある。辺境の灯台守の夫婦の何十年かを描いた日本映画だ。調べてみたら、似ているの当たり前だ。該当する映画「喜びも悲しみも幾歳月」(昭和32年)は、木下惠介監督と高峰秀子という全く同じコンビだった。こちらは昭和7年(1932年)~昭和31年(1956年)の25年間を描いたものである。日本各地でロケーションしたという点では少々異なるが、辺境の地を舞台に、淡々と昭和史というと長い年月を描くという意味では、ほとんど同じテーマのバリエーションだと言ってもよい。


我々にとってこの映画が興味深いのは、次のような点だ。(1)都市インテリ・リベラルの視点ではなく、農村庶民の生活者の視点であること、(2)激動の昭和史というイメージから自由なこと、(3)ドラマは淡々と語られること、(4)昭和史20年間に社会変動がほとんど感じられないこと、(5)本当の主人公は12人の子供たちであり、ひとり一人の境遇が描き分けられようとしていること、(6)しかし、現代人にとっては12人の子供たちと、当時の状況が理解しにくくなっている。

(1)この作品は、リベラルでインテリ的な都会人や有識者の立場から昭和の歴史や戦争の時代を描いたりはしない。。舞台は小豆島であるが、おそらく日本のどの農村漁村でもよかったのだろう。東京でも地方都市でもない村を中心とした歴史回顧なのだ。そして、小学校の女先生である大石先生は、前任の先生とはちがって女子師範(香川県女子師範?)出身ではある。だが、大インテリだとか良家の子女ではないし、都会出身者でもない。普通に男と結婚し、子供を作るような庶民の女性である。そういうひとりの普通の女性の視点から、田舎にの子供たちの成長を描いた作品だということは、注目に値する。

(2)田舎の庶民の視点で昭和を描くというのは、ある意味では斬新だ。激動と苦難の昭和史というイメージはほとんど出てこないからである。特高に追い回されたり、米軍の空襲や爆撃に逃げまどう姿もなければ、戦後の食糧難も苦しみはここでは描かれない。「二十四の瞳」や「喜びも悲しみも幾歳月」(昭和32年)のような映画は、私たちがついつい親しんでしまう<都会リベラル>の昭和像とは異なる昭和が描かれているわけだ。

たとえば、大石先生はアカだと疑われそうになったり、軍国主義教育に辟易して小学校の先生をやめてしまう。しかしだからといって,厳しい言論とか軍人の横暴などが非常に強調して描かれているわけではないのである。あくまでも、等身大の辺境の庶民の生活にのしかかるものとして穏やかに描かれているわけである。

同様に、「はだしのゲン」や「ひめゆり学徒隊」のような戦争の悲劇からはいっさい無縁である。(余談であるが、私は5月の連休で沖縄に行きました。そのときにはじめて知ったのですが、「ひめゆり学徒隊」というのは、、沖縄師範学校の少女たちであり、普通の少女というよりは、むしろローカル・エリートの少女たちであることをはじめて知りました。)

また、終戦戦後の食糧難ですら、漁業や農業の盛んな田舎の島では、ほとんど存在しなかったように見える。「火垂るの墓」はあくまでも都会インテリの苦しい思い出なのであると再確認させられるのである。(映画「瀬戸内少年野球団」では、逆に戦後は羽振りが良かったように描かれる)。

(3)(2)のような特徴は、逆に言えば、ドラマの起伏が乏しいということになる。人は簡単にあっけなく死んでしまうが、大事件が起きるわけではない。 あくまでも淡々と人々が描かれている映画であり、小説なのだ。

(4)さらにいえば、社会変化のようなものもほとんど見られないのだ。20年間にわたって、島の風景や人々の暮らしはほとんど変化していないのだ

島を走るシマバスは全く変化がない。昭和3年に登場する子供たちと、最後に登場する新しい世代の子供たちとでは、20年の年月が経ているはずなのに、ほとんど何の変化もないようにすら見える。もちろん、校舎はまったく変わっていない。唯一変化したのが大石先生である。高峰秀子演じる女先生が、若い女性から中年女性になったということだけなのだ。日本の辺境の村は、モダンも戦災も、あるいは戦後復興とも無縁なのだ。

我々大人の鑑賞者が「二十四の瞳」を見て、村の昭和史を想像するとき、ある種の感銘をおぼえることができるだろう。(続く)

iPod touchと iPod nanoの新ヴァージョンは?

2010年09月09日 | 文房具と読書
Apple iPod nano 第5世代 8GB ピンク MC050J/A
クリエーター情報なし
アップル
 (2009年の旧ヴァージョン


iPod の新しい製品(2010年版)が出た。買うか買わないかは別にして、大いに興味がある。シャッフルは音楽専用なので、私は最初からパス。やはり焦点になるのは touch と nano である。

インターネットから様々な情報を得てみると、一番大きく変わったのが iPod nano のようである。従来のnano(上の写真は2009年版の旧いタイプである)よりも随分と小さくなったらしい。円盤状の操作盤がなくなり、指で touch しながら変わるような製品にもなっている。近頃 iPod touch ばっかり使っているが、そろそろ耳から聞く情報を重視しつつべきじゃないのかな、 小型PC路線なんてやめてiPod nano に回帰すべきかもしれないなとも、ちょっと期待していたのである。

しかし、アマゾンのレビューを見てみる限り、買うべき製品ではないと思えてくる。ビデオ映像を見ることができなくなるし、何よりもスピーカーがなくなるのが痛い。音楽を楽しむのにはスピーカーは不要かもしれないが、英語や日本語のインターネット放送(ぽっどキャスト)やオーディオブックを聞くとき、英語や社会科を勉強するときには、スピーカーがある方がいろいろと重宝するからだ。

要するに nano がシャッフル化してきたのだ。ウチは塾なので、英単語の勉強にも使えないiPodは不可だとしか言いようがな。古い ヴァージョンのiPod nano を割安で購入するほうが良いと言っておこう。

次に iPod touch である。より薄くなり、ビデオカメラも内蔵したそうだ。ちょっと面白いような気もする。しかし、正直言って iPod にビデオが必要なんだろうか。 旧式のiPod nano にもビデオカメラはあるのだが、私はほとんど使ったりしない。むしろ、スティルカメラで静止画像を撮影したい。あるいは、新聞や書籍のスキャンをしてみたいではないか。そしてその方が、メールなどで送ったりするときにも便利だろう。というわけで、私は新しいの買わないことにした。少なくともあと1年は、今使っている iPod touch を現役にしておこう。

ところで、私の使っている iPod touch なのだが、まだ1年たっていないのにバッテリーが弱くなってきている。今度、通信販売の業者でバッテリーを購入し交換してみるつもりなので、交換したら、レポートする予定だ。

思うに、iPod にしろ小型PCあるいはバッテリーカーにしても、一番重要なのはバッテリー技術である。バッテリー性能の向上こそが、ずっと私たちに一番求められてきた技術のはずなのだ。長持ちするバッテリー搭載のipod touchが欲しい!

音声認識― USBマイクの接触不良問題問題。

2010年09月08日 | Weblog
昨日は音声認識に使用しているマイクについて、いろいろと調べてみた。ここのところ音声認識で文章書くときには、 USB マイクは断念していたのだ。が、再度 USB マイクに挑戦してみたわけである。なぜ USB マイクを使っていなかったのかというと、パソコンがうまくUSBマイクを認知してくれないからである。

今回も、最初のうちは、認知してくれ無かった。しかし、いろいろと抜き差ししていると、何かの拍子にうまく認知してくれた。すると、音声認識は、いままでのマイクジャック接続のマイクの作業よりもかなりかなり正確になった。

そこで、最近購入したばかりの新しいノートパソコンでも、USBマイクと音声認識を試してみた。どうやらこの USB マイク( AmiVoice Es に附属していたもの)には確実に接触の問題があるようで、このパソコンでももなかなか認知してくれない。だが、一旦認知してくれると、音声認識はまた面白いようにうまくいく。

結局のところ、良い USB マイクを使うのが音声認識の決め手なのである。再確認させられた。しかし、おそらくこの USB マイクでは、快適な音声認識ブログ生活は不可能であろう。だからアマゾンで安価な USB サウンドアダプタを購入する事にした。

PLANEX USB→3.5mmヘッドホン/マイク端子 USBオーディオ変換アダプタ PL-US35AP というものだと、1500円未満で購入出来る。また、アマゾンでは安いマイクが600円ぐらいで売っているので、合計してもせいぜい2000円ぐらいで USB マイクが入手出来るというわけだ。この件については、再度報告したい。

なお、この文章は接触不良の USB マイクを使って書いている。音声認識それ自体ははすこぶる良好なのだ。

久しぶりに中央林間に行くと

2010年09月08日 | Weblog


久しぶりに中央林間に行った。お目当ての一つは、おいしそうなラーメン店だった。麺屋のすけだ。中はちょっと狭めであるが、人気店らしく2時過ぎなのに客が多い。なかなか繁盛しているようだ。

赤、白、黒とあるが、黒を頼む。トンコツ風だがトンコツではなく、あっさりとしていながら濃い味わいのスープである。

大変おいしい。ただし、お代わりコミで800円はちょっと高い。毎日食べるというわけにはいかないな、と思う。


出てから辺りを見回す。すると、通りが変わっていることに気がつく。「のすけ」の近くにあったはずの、英語とジムをやっている教室があったのだが、まったく見あたらない。今年の春に開講したばかりで、広告を見たときには、英語はうちの塾と,客層が重なるかもしれないなと思ったものである。それが今や跡形もない。

関西系のフランチャイズ系個別指導塾は、やはりなくなっていた。

「ふみや」という文具屋も最近まであったが、私の思い違いでなければ、駐輪場になっていたように思われる。自信はない。昨年廃業したはずだが、私は廃業前に, セーラーのプロフィット21という万年筆を、この店で半額で購入しておいた。

他にも駐車場になってしまった建物が多い。

町は、ちょっと訪れないうちに、変貌をとげてしまうようだ。

私の希望をいえば、ミスタードーナッツがある町になって欲しいのだが、ダメなのかな。

American Heritage Dictionary (4th)が9月末まで1700円 (新ipod touchでお勉強)

2010年09月07日 | 教養英語


いつも気になっていたipodtouch用の英語辞典がありました。 American Heritage Dictionaryです。というのは一昔前の私は、ペーパーバック版のAmerican Heritageを頻繁に使っていたからです。(現行版は紙質が悪いので勧められません。私が愛用したのは、前の版です)。しかし3500円という価格なので、ちょっと買う気にはなれませんでした。

セールスを10ヶ月以上待ち望んでいると、とうとうくサービス価格が到来したのです。9月末まで1700円です。


Amazon等の評判を見ると、New Oxford American Dictionaryも評判が良いようです。しかし、ipod touch(iphone)用としての性能評価は芳しくないし、半額セールでもない。このことを確認したうえで、American Heritageを購入することを決意しました。最近はソフトも改善されたようで、期待がもてます。 

さて待ちに待ったAmerican Heritageですが、予想以上にすばらしかった!Ipod touch向けの英語辞書は何冊か持っていますが、i英辞郎と並ぶ、もっとも使いやすい辞書だといっても良いのではないでしょうか。どこが素晴らしいのか。


まずスペリングミスがあっても候補があがってくるのは、有難い。私はためしに薄い青色という意味の「ターコイズ」を調べてみることにした。Tirquoiseと入力したところ、次のように修正候補がでてくる。正解はTurquoiseでした。


これ以上に喜ばしいのは、実は熟語検索が容易になったことです。今までのipod向け英語辞典は、i英辞郎を除けばかなり面倒だったからです。そもそも熟語見出しがないので、一つ一つの単語の項目をしっかりと見まわして、該当する熟語が掲載されているかどうかしらべなくてはならなかった。そういう辞書ばかりでした。

ところがAmerican Heritageは違う。たとえば、set offを入力すると、次のように出てくる。   そして、そこをクリックすると、すぐに意味を調べることができるのだ。

あるいはtakeをインプットしてみよう。すると次のような熟語候補が挙がってくる。

ありがたいですね。熟語がこんなに検索しやすいのですから。このセールス期間中に是非ともダウンロードされることを、強く勧めたいです。(ただし、普通の高校生には、まだちょっと難しいだろうと思います)。

ハックル・ベリーフィン <読む、見る、聴く>

2010年09月06日 | 教養英語
マーク・トゥエインの『ハックルベリーフィンの冒険』を読んでると、ちょっと前に書きました。私が読んでるのは西田実訳の岩波文庫です。他にもいくつかの翻訳があるそうですが、これが原文となると無料でもっと様々な読み方が可能です。

旅行中にもこの文庫を持っていきました。その中に「おらのジム」(上巻、204ページ)[ジムとは、ハックルベりーフィンが一緒に逃亡する黒人奴隷]、「おらのジャック」という表現があって、いったい原文ではどうなっているのか気になりました。(実をいうと、黒人奴隷制の時代なので人の名前に所有格がついてしまうのだろうか、という疑問もあったわけですが、それは主題ではありません)。旅先ではインターネットも利用できません。ところが、調べることができたのです。

というのは、持っていったiPod touchに原書が収められていたからです。無料で入手した『ハックルベリーフィンの冒険』があったのです。さすがにこの小さなモニターで読書するのは難しいですが、簡単な調べ物くらいならできるというわけです。結論をいうと、「おらのジム」は”my old Jim" で、「おらのジャック」は "my Jack"でした。

もちろん、原文は無料で入手できるわけですから、大きなモニターで読んだり、印刷して読むこともできます。amazonのKindleだとか、iPadで読む人も多いことでしょう。


原書を調べたことには、思わぬ副産物もありました。岩波文庫のなかにはイラストがあまり載っていません。ところが、オリジナルの方には興味深いイラストがたくさん載っていたのです。

たとえば写真は、ハックルベりーフィンが旅の途中で決闘に巻き込まれるシーンです。旅で困っているときに、紳士の家族に親切にもてなされたハックルベリーフィンですが、どうやらアメリカの高貴な紳士というのは勇気があるようなのです。つまりは、敵対する一家との命がけの決闘も辞さないというわけです。その家族の美しい女性、彼らの決闘シーン、および、決闘で殺された少年のためにハックルベリーフィンが涙する箇所の文章を載せておきます。







帰宅後、『ハックルベリーフィンの冒険』のオーディオ版を探してみました。もちろん無料のものです。するとこれも幾つかあるようです。19世紀の英語ですし、しかも南部なまりの英語なのですが、私が聞く分には結構分りやすいものです。また、原文付の朗読本まであるようです。(写真参考のこと)

高校生にすぐに薦められるかというとちょっと厳しいですが、もしこの作品に魅せられる人がいたら、聴いてもらいたいと思いました。大江健三郎は、高校生時代、日本語で読み、さらに英語でも読んだそうです。

言語が思考に与える影響

2010年09月05日 | 教養英語
言語が思考に与える影響ということについて、私はもっと違うことに興味を持っている。

私の大学生学生時代の第二外国語はフランス語だった。もちろん大してフランス語が出来るわけではない。もちろん話せないし、書けない。だが、私レベルのフランス語でも、簡単なフランス語の新聞記事やパンフレット、あるいは CDの解説文くらいならば読めてしまう。ある種の学術的な文書も読める。だが、全然読めないような難解なフランス語も、また沢山あるのだ。

そういうフランス語体験からいうと、いわいるフランス語には大きく二つの世界があるように見える。とても易しい読みやすいフランス語と、難解きわまるフランス語の世界である。あまりにギャップが多きいのだ。これがフランス人の文化的世界とフランス語教育に影響を与えていないわけがない。

ところでクンデラという小説家が居る。チェコスロバキア生まれで現在はフランス、フランス語で活躍している大作家だ。(私は、映画「Unbearble Lightness of Being」でそのすばらしさを知り、当時邦訳がなかったものだから、敢えて英訳で読んだものである)。

その彼のエッセイ『カーテン』によると、大衆文学でしかないユゴー『レ・ミゼラブル』がフランス国内で高く評価され、世界の大作家であるラブレーやバルザックが低い評価でしかないことを嘆いている。バルザックなどが人気がないのか!、と私も驚く。しかし、学生時代に読まされたバルザックのような作品程読みにくいフランスはないのである。

バルザック、フローベール、モーパッサンと時代を経るごとにフランス語は読みやすくなってくる。だからフランス語の難解さは時代的な要因もあるのだが、それだけではない。要するに、ユゴーみたいのは読みやすく、純文学のフランス語となるとはかなり難しいのだ。

学者で言えば、たとえばP.Bourdieuの書くモノが興味深い。というのは、学者向けの文章と一般大衆向けのパンフレット等とを彼は書き分けており、前者は非常に難解なのに対し、後者は非常に読みやすいのからだ。

要するに、大衆的フランス語を愛する者と、洗練され英知あふれるフランス語を愛する者が居て、フランスでは前者が優勢なのである。しかも、前者は後者のことを知らないし、ろくに敬意も払っていないということなのだ。

フランス語世界の2分法とは、つまるところ、職業や学業の違いにはっきりと象徴されている。フランス語世界に生まれ人は、難解なフランス語を読む人間になるのか、簡単なフランス語だけを読むようになるのか、おそらく小学校高学年の段階ではっきりと決断しなくてはならないに違いない。将来高等教育を受けようとするものと、普通の職業教育で良いというものとで、読むモノが異なってくるはずである。


それに比べると、現代日本ではその分岐点が曖昧であるかのように思われる。しかしその違いがないわけではない。日本語にも、どう見ても大衆小説としか思われないような文章もあるし、インテリ向け小説と思われるような物に分れている。以前、沢尻エリカ主演で映画化された『クローズド・ノート』というものを読んだことはあるが、大衆小説としか言いようのないもので、そのシンプルなストーリー展開を楽しむものであった。

いつものとおり、まとまりのない文章になってしまった。だが、私の言いたいのは、簡単だ。言語というよりは、言語文化によって決定されるモノがあるはずだという話である。

音声認識の現状

2010年09月04日 | 文房具と読書
音声認識というのは、うまくいくと本当に素晴らしいのですが、うまく認識されないとかなり辛いです。ノイローゼになりそうです。私のように、音声認識でかなりうまくいくという経験があるものですら大変なの時があるのですから、成功体験を持たない人にとってはかなり関門である場合があるかもしれません。

音声認識には一にも二にも、マイクロフォンがどのような状況にあるのかということにかかっています。つまり、マイクジャック接触等が良いのかどうなのか、あるいはパソコンが適度な音量を取り入れることができるのかどうか、そしてマイクと口もとの関係は適切で息が吹きかかったりしないかとか、そういった状況次第なのです。なかなかこれが難しい。私は悪戦苦闘しています。

なお、マイクの価格とかにはあまり関係ないようです。500円だとか1000円のマイクでも音声認識ができる場合があります。逆に、高価なマイクであっても、うまくいかない時は悲惨な結果になります。

今使っている音声認識はアマゾンで今600円で売り出しているマイクで定価2000円程のものです。耳にかけるマイクなのですが、私の耳にはかかりそうもないので、普通のマイクのように手にもって話しています。結論的には、多少煩わしくでも、手で持って話すのはよくありません。なぜならば、手はキーボードを叩くためにあるからです。キーボードで修正するのです。

もう少し音声認識が簡単に誰にでも使える利用になれば、学校教育や塾などでも教材として活用できるはずなのですが。もう少し時を待ったらよいのでしょうか。

公立高校を志望される方へ

2010年09月03日 | 受験
私どもの塾は、メインとしては私立中高一貫校の生徒のためのものです。しかし、公立の中学や高校の生徒の親御さんからの問い合わせもあります。先日も、公立中学の1年生の親御さんからも電話がありました。

私どもは、公立だから受け入れられないというわけではありません。しかし、公立中学に通い、将来的には県立高校を受験するという生徒さんについていえば、基本的にはお受けしないことにしています。私立中学から県立高校目指す生徒さんについても、同様です。県立高校受験のための勉強を十分にサポートしてあげられないからです。

以前は、私どもも、公立中学の生徒さんのために内申対策をしたり、塾内で業者模試をしたり、社会や理科の特別対策もしたりしいていました.しかし、現在ではほとんど私立中高一貫校の生徒さんですので、そういったサービスは不可能になり、中止してしまったのです。

もし、大手の集団式学習塾などに通いながら、その補習として英語などを個別で学びたいという生徒さんであれば、お受け入れすることは可能です。ただし、当塾はいわゆる補習塾だとか救済塾ではありませんので、一定レベル以上の生徒さんのみに限らせていただきます。もちろんん、横浜翠嵐などの独自入試実施高校の対策も可能ですが、あらかじめその旨お伝えください。私どもは、一対一対応などで、過去問指導までいたします。

なお県立高校の生徒さんの場合は、基本的には問題ありません。現在、県立横浜緑が丘高校の生徒さんが在籍しています。

言語と思考(New York TImesより)

2010年09月02日 | 教養英語
久しぶりに iPodtouchでNew York Timesを覗いてみた。人気コーナーを閲覧していると、大学入試にでも採用されるかもしれない興味深いタイトルの記事があったので読んでみた。

Does Your Language Shape How You Think?(2010年8月26日) というものである。パソコンにつないで印刷してみると A 4プリントで8枚とやや量が多いわけだが、読みやすい文章なのでちょっと紹介してみる。

70年前、 Whorf という人が登場し、20世紀に大きな影響を与えた。というのは、母語の言語的性質によって、思考の様式が全く異なったものになってしまうというものだったからだ。例えばネイティブのアメリカンは、その母語の性質によって「時間の流れ」という概念を理解できない。また、モノ(例えば、「石」)と動作(例えば、「落ちる」)とを区別できない。

結局のところ、 Whorf の主張は行き過ぎだもので間違っている。母語の性質によって、ある種の思考が不可能になるということは、あり得ないからである。しかしながら、母語には一定の力があるはずである。母語によって思考が妨げられるということはないが、何らかのテーマについて慣習的に考えさせてしまうということはあるだろう。

ここで例に上がっているのは、ドイツ語やフランス語のように文法的なセックスのある言葉と、英語のようにセックスない言葉との違いである。それがどういう影響を及ぼすのか。

また、方向や方位を表すときに、(A)自己中心的な言葉と(b)地図のように客観的に表現する言葉とか比べられる。(A)すなわち、右あるいは左と言った言葉で、各アクターの主観的な位置で表現する言葉と、( B )東西南北といった言葉を用いて客観的に表現する言葉である。( B )としては、オーストラリアの言語の例が持ち出される。


最後まで読んだ感想。

最初はどんなに面白いかとワクワクしていたが、あまり大した話はありませんでした。入試にも出るかどうかありません。読みたい人は、どうぞ。そんなにひどくもないですよ、というくらいな感じです。

ただし、次の英文は、英文解釈の問題に使われるかも? です。(アンダーラインは筆者による)

In his shadow, others made a whole range of imaginative claims about the supposed power of language, from the assertion that Native American languages instill in their speakers an intuitive understanding of Einstein’s concept of time as a fourth dimension to the theory that the nature of the Jewish religion was determined by the tense system of ancient Hebrew.