林間教育通信(「東大式個別ゼミ」改め「シリウス英語個別塾」)

私立中高一貫校生徒を対象とする英語個別指導塾。小田急線の東林間駅(相模大野と中央林間の隣駅)から徒歩3分。

自民党がもし本気ならば、どんな英語教育政策にするか

2013年03月27日 | Weblog
自民党の教育方針が定まったようである。すでに報道されたように、 TOEFL を重視する政策のようだ

教育の平等重視するよりは、エリート主義の方向もはっきり打ち出されているようだ。

私がこの政策は良くないと思うのが、こういう政策もあるだろうと思う。問題は、この政策を本当に実行する気が自民党にはないと言う点である。

というのは、英語教育を重視するような具体的な方策がないからである。例えば、次のような方針がある。

*「スーパー・サイエンス・ハイスクール」(SSH)の生徒を倍増。

*英語の検定試験「TOEFL」などで一定以上の点数をとることを大学受験の条件

*少人数で充実した英語指導を行えるよう教師を増員すること
NHK ニュース

しかし、我が国の国民でスーパーサイエンスはいスクールの重要性を認識しているものは少ない。また、少人数で充実した英語教育が行えるように教員が増員されるような事が本当に実現すると考えている人も少ないだろう。近い将来、一流高の英語教員が2-3倍に増えて英語時間が倍増したりするだろうか。それも、 TOEFL で高い点数を取らせることのできるような、超一流の英語教員を3倍増するのである。

もし自民党が本気ならば、私は敢えて次のように提言したい。「東大合格者の多い国立大学附属及び私立中高一貫校トップ30校に優秀な英語教員を3倍増にせよ」「早慶附属に特別優遇措置を取れ」

TOEFL で高得点を取れる高校生というのは、大都市の一流中高一貫校に在籍しているからである。


どこかの先生の物真似までではないが、もちろん全て冗談で書いている。

ハッタリ・ハシシタとイカレタ塾教師

2012年11月15日 | Weblog


神奈川県の某塾教師の人気ブログを見ていたら、無茶苦茶な話が書いてあった。そもそも、大阪市長の橋下徹がまた馬鹿げた教育改革案を言い出したということ、さらに驚いたことにはその塾教師が橋下案を支持していたことだ。これでは世も末だな、といった陳腐な言葉が浮かんでこざるを得なかった。とはいえ、しばらくたてば忘れさられてしまうような言動であろう、その記憶と記録のために書いておこう。

まず橋下の掲げた英語教育の目標。
 ( M NS 産経ニュース 2012年11月6日
>大阪市立学校で来年度の教育施策の基本方針となる「教育振興基本計画」の中間案が5日、判明した。英語教育を重視する橋下徹市長の姿勢を反映するように、中学3年で英検準1級、小学6年で同3級の取得という目標を明示。

またfnnニュースでは。


ハシシタは、以前も、大阪府の高校生に対し、TOEFL の得点を高くしろとむちゃくちゃな目標を掲げた。今度は、中三で英検準1級取得という目標である。 TOEFL で高得点というのは、アメリカの大学で教育を受けられる英語力があるという事だ。他方、英検準1級は東大合格レベルの英語力、あるいは、公立中高の英語の先生の目標とされている英語力である。

大阪市(府)の公立学校中高生は、灘校生ではない。公立中学3年で東大合格レベルの英語力を習得している状況など想定不可能である。こんな目標は目標として機能しない。


ところが参ったことに、ハシシタの教育改革のプログラムを評価する塾教師がいるのだ。敢えてそのブログを引用しようとは思わない。しかし、ベテラン塾教師が、政治家のハッタリ教育改革案に乗せられてしまうとは、本当にがっかりである。ハッタリ_ハシシタは、すぐあとで、「ちょっと目標高すぎましたか? ついつい熱意のせいで、目標高すぎましたかね、m(_ _)m」と修正してしまうかもしれない。しかし塾教師にそういう手法が許されるとは思えないのだ。

なお、その塾教師によれば、多くの私立学校は、橋下が掲げるような目標を掲げているのだそうだ。たしかにそう言われてみると、某県公立中高一貫校校長の宣伝文句とも似ていなくはない。新設校を、東大や国立大学全入させてしまう学校にしてしまうホラ噺だ。

またブログ検索してみると、横浜市青葉区の某市議会議員が橋下の英語教育を改革の取り組みを支持していることがわかった。

ああ、情けない、神奈川県の教育関係者。そんなにホラやハッタリが好きなのか! しかし、英語学習で一番必要なのは地道で退屈な日々の学習の積み重ねなんだよ。




参考

「中3で英検準1級、小6で3級」 大阪市教育計画、理数系教員に民間人特例も
2012.11.6 10:13 (1/2ページ)

大阪市教育振興基本計画(中間案)の概要

 大阪市立学校で来年度の教育施策の基本方針となる「教育振興基本計画」の中間案が5日、判明した。英語教育を重視する橋下徹市長の姿勢を反映するように、中学3年で英検準1級、小学6年で同3級の取得という目標を明示。人材が不足する理数系教員の確保策としては、教職員免許を持たない一般社会人が、現行の特例制度を利用して教壇に立てる措置を講じることも盛り込むなど、特色ある内容となっている。

 大阪市では、5月に制定された教育関連条例に基づき、市長と市教育委員が協議して教育振興基本計画案を策定することになり、現在、市教委を交えた有識者会議で中間案の策定を進めている。市長と教育委員がさらに協議して成案化し、来年2月に市議会に提出、議決を経て同計画案と教育目標が最終決定する。

 中間案では、英語の発音とつづりの規則性をルール化した学習法「フォニックス」を使った英語教育を小学1年から実施すると明示。具体的な到達目標として、小学6年で英検3級、中学3年で準1級の合格を目指すことを盛り込んだ。文部科学省によると「公立小でフォニックスを使った英語教育は全国でも聞いたことがない」という

日本のマスメディアの検閲を目の当たりにする(日経ビジネスDigitalの場合)

2012年10月16日 | Weblog
今ネット上でひそかに話題になっているのは、日本の大手マスメディア(日経ビジネス)の自己検閲である。

「外国人ジャーナリストが驚いた日本メディアの惨状」という言葉で検索してもらいたい。2012年10月25日版の日経ビジネスDigital が出てくるかもしれないが、記事自体は削除されている事が分かるだろう。(ただし、いわゆるキャッシュに記事内容は残っている)。

これはニューヨーク・タイムズの記者がジャーナリストの大野 和基さんとともに書いた記事で、タイトルどおりまさに日本のメディアのストレートな批判となっているものなのである。ところが、日経ビジネスDigital はかなり迅速にこの記事を削除してしまったのである。(キャッシュから画像を添付しておきました。また記事テキストもブログの後半部に載せてあります)。

あまりに稚拙で露骨なやり方に唖然とする。これでは中国や韓国のメディアと変わらないではないか。

我々としては、日本や日本語のメディアだけに頼るのではなく、幅広く情報を収集してから話ならないことを痛感する。そのためにも英語力は不可欠だといえる。

もっとも、英語ができればそれで良いというわけではない。私が知っている中国人の英文記者などは、あきれるほどバイアスのかかった人だったから、このあたりも強く強調しておきたい。







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外国人ジャーナリストが驚いた日本メディアの惨状
大野 和基=ジャーナリスト
2012年10月15日版トップ
 ニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラー氏に話を聞いた。大メディアに対する同氏の批評は辛らつだ。「取材源との距離が近すぎ、監視役としての役目を果たしていない」「ダブルスタンダードで自国の暗い面は報道しない」と指摘する。
――日本社会は非常に排他的で、属さない人を排除する――と言われてきました。記者クラブもそういう排他的な文化の一つの面だと思います。どう思われますか。

ファクラー:日本のメディアを見ていて非常に興味深く思うのは、情報を独占的にコントロールしようとする記者クラブがある一方で、週刊誌とかタブロイド紙が非常に元気なことです。記者クラブは日本のメディアの保守的な面を表していると思います。週刊誌やフリーランス記者、地方紙はかなり良い仕事をしています。

――朝日新聞や日本経済新聞といった日本の大手新聞とニューヨーク・タイムズの最も大きな違いの一つは、世界中の読者に対する影響力です。世界中の人がニューヨーク・タイムズを読みますが、日本の新聞は読みません。取材先が図る便宜も異なります。例えばあなたはトモダチ作戦の時、米軍のヘリに乗る機会を最初に与えられました。

ファクラー:最初にそういう機会が与えられたのは、もちろん、私がニューヨーク・タイムズの記者だったからです。タイム誌の記者も同乗しました。同誌も世界的に影響力を持っています。確かにニューヨーク・タイムズという名前は役に立ちます。米軍はアメリカの納税者に対して、こうしたお金を使うことを正当化しなければなりませんから。

――もしあなたがニューヨーク・タイムズにいなかったら、そういう機会は来なかったでしょうね。

マーティン・ファクラー氏ニューヨーク・タイムズ東京支局長
1966年生まれ。イリノイ大学でジャーナリズム修士。ブルームバーグ、AP通信をへてニューヨーク・タイムズ東京支局。2009年2月から現職。同支局スタッフは、東日本大震災に関する報道で、ピュリッツァー賞国際報道部門の次点となった。
ファクラー:そう思います。世界的に影響力を持つメディアにいるアドバンテージです。私はこれまでブルームバーグ、AP、ウォールストリート・ジャーナル、ファーイースタン・エコノミック・レビューで仕事をしてきました。この中でニューヨーク・タイムズは取材先に対する最高のアクセスを与えてくれます。

 もちろんリスクもあります。トモダチ作戦の取材の場合、米軍の代弁者にはなりたくありませんでした。ただし、取材先と距離を置くことはジャーナリストにとって危険でもあります。情報を得られなくなる可能性と背中合わせですから。これはアメリカでも日本でも同じです。常に直面するチャレンジの一つです。

 ニューヨーク・タイムズのように名声が確立したメディアは、落とし穴や誘惑に常に注意しなければなりません。つまり、情報源との関係を維持するために批判を鈍らせるとか、トーンダウンするとか、その誘惑に負けてはいけません。

日本メディアは監視役たり得ていない

――日本のメディアはウォッチドッグ(監視役)としての機能を果たしていると思いますか。

ファクラー:彼らはそういう機能を果たすべきだという理想を持っていると思いますが、情報源とこれほど近い関係になると実行するのはかなり難しいです。

 これは記者クラブだけの問題ではありません。もっと大きな問題です。日本の大メディアは、エリートが支配している階級の中に入っているということです。東大、慶応、早稲田出身でみんなが同じバックグラウンドと価値観を持っている。みんな官僚に同情的で、彼らの側に立ってしまうのです。

 3.11の時、この面をはっきり見たと思います。本当に監視役になっていたのなら、「フクシマは大丈夫だ」「メルトダウンはない」という記事は書かなかったのではないでしょうか。もっと厳しい記事が書けたと思います。それができなかったのは、彼らが政府と距離を保っていないからです。

 大メディアは、政府と対峙することなく、国民に対峙する報道をした。私はこの点を痛烈に批判しました。大メディアが報道していたことが間違いだとわかったのは、何カ月も経ってからです。監視役としてみるなら、日本の大メディアは落第だったと思います。でも、メディアを監視役ではなく、システムの一部としてみるなら、起こるべくして起こったことだと言えるでしょう。

――日本経済新聞に対しても批判的ですね。

ファクラー:オリンパス事件のときによくわかりました。海外メディアでは、フィナンシャル・タイムズがスクープし、ニューヨーク・タイムズとウォールストリート・ジャーナルがそれに続きました。その間、日本経済新聞は何も報道しませんでした。沈黙です。

 その後、マイケル・ウッドフォード元CEOの記事が小さく出ました。ウッドフォード氏は日本の組織文化を理解することができなかったというような記事でした。まったくクレージーです。ビジネス・ジャーナリズムとして、3.11報道と同じくらいの大きな失敗でした。チャレンジする精神がまったくありませんでした。

――3.11以降、大メディアに対して国民も不信感を持ち始めました。

ファクラー:今、我々は非常に興味深い時期にいます。読者は今まで、メディアの言うことをほとんど信じていました。しかし、放射性物質の問題、SPEEDIデータの隠蔽、食料安全の問題について、国民はメディアに対して不信感を覚えたのです。国民と大メディアの間に溝が生じ始めたのです。「大メディアは国民の側に立っていない」という意識が国民の間に広がったと思います。3.11が変化の始まりでした。これほど強い不信感をみたのは初めてです。

日本の大メディアはダブルスタンダード

――人種差別に対する日本メディアのスタンスについてうかがいます。2010年にオーバーステイで逮捕されたガーナ人男性が、飛行機で強制送還しようとしたところ暴れたので、入国管理局の職員が集団で、手錠を使って縛り上げ無理やり飛行機に乗せました。その後、このガーナ人男性が機内で死亡した。この事件について、日本の大メディアが人種差別として報道しなかったことを指摘されています。
 また東電のOLが1997年に殺された事件がありました。犯人とされたネパール人はやっと最近釈放され、ネパールに強制送還されました。これも人種差別でしょうか?

ファクラー:どの社会も偏見を持っています。日本だけに限ったことではありません。問題はメディアです。メディアがそういう観点から報道しないのです。国民の意識を変えようとする努力がまったく見られません。こういう人種的偏見をなくすには、国民の意識を変えることが重要です。

 日本のメディアはダブルスタンダードに陥っています。人種偏見に基づく事件が、海外で起きた場合は報じるのに、自国で起きた場合は報じません。海外で起きた出来事にも、日本国内で起きた事件にも、同じ尺度を当てはめるべきです。日本のメディアは、ひょっとしたら、みずからがダブルスタンダードであることを意識していないのかもしれません。本来は日本社会の暗い面も報道するべきですが、それを隠す傾向にあります。

 もっと自分の足で取材して、調査報道をやってほしいと思います。貧困問題も同じです。日本の貧困問題は深刻です。こういう面をきちんと報道しないのはジャーナリズムの機能不全です。

――日本のメディアについて、特に変わってほしいと思うのはどの面ですか。

ファクラー:メディアのスタンスですね。大メディアは、本当の意味で監視役の役割を果たすべき時が来ています。日本にいる人は、もっと正確な情報を知る必要があります。今メディアがやっていることは明治時代から変わっていません。日本社会全体にチャレンジするような、代替メディアも生まれていません。能力はあるのに、とても残念なことです。

 3.11以降、非常に良い仕事をした日本のメディアもあると思います。「東京新聞」です。政府と距離を置いて批判的な記事を書いていました。地方新聞では「河北新報」です。同紙は政府や東電側ではなく被災者の立場から報道しました。震災記録300日にわたるその記録は『悲から生をつむぐ』という本にまとめられています。地方新聞でもネットを使えばグローバルなメディアになります。「地方」というのは関係なくなってきます。

良いジャーナリストの条件とは

――ジャーナリストの心構えについて、“a good journalist needs a sense of moral outrage”(良いジャーナリストには正義感――悪に対する人間的な怒り――が必要)と主張されています。これが最も重要な要素でしょうか。

ファクラー:個人的なレベルではそう思います。ジャーナリストは社会のためにやる仕事です。銀行家になってお金儲けするのとは違います。社会を良くしたいからする仕事です。ジャーナリストは少し理想主義者であると同時に、シニカルである必要があります。

――そして、取材対象と適切な距離を保つことですね。

ファクラー:これは本当に重要なことです。9.11のあとアメリカでは、メディアが愛国主義的になり、ブッシュ政権を批判しなくなりました。その結果、イラク戦争に関わる政策ついて十分な批判ができませんでした。イラク戦争をとめることができず、戦争の動機についても十分疑問を呈することができませんでした。

――それでもジャーナリストは、人脈を作り続けないといけません。

ファクラー:理想的に言えば、尊敬されることが大事です。良い情報を得るために、自分を売らなければならないのであれば、そのような情報源の存在は忘れた方がいいです。日本はジャーナリズムの倫理を少し変えた方がいいと思います。その方が尊敬されるようになる。長い目でみれば、フレンドリーな関係を作ることよりも、尊敬されるようになることが重要です。

今日の読売新聞と東京新聞

2012年06月10日 | Weblog
昨日に続いて、今日(2012年6月10日日曜日)読売新聞と東京新聞の記事の比較です。

やはり一面が全然異なります。

読売新聞によれば、東京電力は良くやっているのに官邸が過剰介入したからダメだったのだという驚くべき情報が伝えられます。(常識的に言えば、一番責められるのが東京電力なのだが、ここでは管総理が問題だと言うことになっています)。

東京新聞はどうでるかといえば、この件については少なくとも一面では扱っていません。クダラナイ情報だということで無視です。

新聞一つですら、こんなにも記事が異なっているのです。英語を勉強するというのは、有る意味ではもう一つ別の新聞を読めるようになることじゃないかなと思うのですが、如何でしょうか。




読売新聞と東京新聞ではこんなに違う、原発報道 (さらに産経新聞とNew York Times)

2012年06月09日 | Weblog
さきほどラーメン屋でラーメンを食べていると読売新聞があった。紙面がスゴイのである。

原発再稼働で「生活守る」

総理が政治的英断を下したという感じで、野田のカラー写真付きだ。


成る程と思いつつ、東京新聞の紙面を見てみると、次のようになっている。


参考のために産経新聞(ipodtouchで無料配信のもの)を載せると次のようである。これは読売に準ずるといえる。 

さらにNEW York TIMESの記事を調べてみると、野田総理に抗議する姿が大きく取り上げられていることが分かる。


情報を受け取る側というのは、本当にアンテナを広げなくてはなりませんね。

万年筆で書いてみた村上文具店の感想

2012年04月17日 | Weblog
モンブランのブルーブラック(トンボの万年筆オブジェクトのB太いニブ)と、アウロラのブルーのインク(アウロラのオプティマのF細ニブ)で書いた文章画像をアップロードします。本当はモンブランのブルーのほうが良いのでしょうが、所有していませんから、アウロラ(イタリア)の青なんです。しかし、モンブランもアウロラも、青の色はそれほど違いないはずです。(しかし、ブルーブラックの色は会社によってかなり異なっているので要注意のこと)。




村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』における万年筆とインク

2012年04月16日 | Weblog
前にも書いたが、昨年末くらいから村上春樹の代表作『ねじまき鳥クロニクル』の英訳オーディオブック(Wind-Up Bird Chrnoicle)を聞いている。

本来ならば今ごろは全部聴きおわり、その報告をしなければならないところであるが、最後まで聴きおわっていない。まだBook1、2,3とあるうちのBook3の途中なのだ。言い訳になってしまうが、なにせウォーキングとジョギングのお伴に聴いているのだが、3月は花粉症の季節なので外に出るのが億劫になってしまい、おかげであまり聞かなかったのである。しかし、原作本と英訳本も入手したので、ちょっと詳しく中身を吟味したりしている。そこで、いくつか興味深い発見をここに書いておく。まず最初に『ねじまき鳥』における筆記用具について。

『ねじまき鳥クロニクル』というのは全三巻もある長編小説である。内容を敢えて乱暴に一言でまとめてしまうと、主人公の妻が突然消えてしまうが、その彼女を追い求める話である。小説のテーマの一つは、人と人等を隔てる「壁」と、人と人とを通じ合わせる「通路」(コミュニケーション)だとも言っても良い。

主人公の妻は、何の兆候もなく突然、ほとんど手ぶらで、主人公の元を立ち去ってしまうことになる。しかし、妻とのコミュニケーションの可能性は完全に絶たれたわけではなく、辛うじて意思疎通の機会が保たれている。一回目は妻に分厚い手紙が送られてくるし、2回目はパソコンのチャットのような対話が可能になる。また、本当は妻かも知れない謎の女からの電話もかかってくる。

手紙、電話、電子メールという様々な媒体のバリエーションも大変興味深いのだが、私が注目するのは、彼女の手紙であり、彼女が用いた筆記具と文房具の方である。はっきり言って文学的意味があるかどうかは分からないが、文房具ファンの観点としてはどうしても気になってしまったのだ。そして面白い発見をした。

去っていった妻の主人公への最初の連絡は、高松市(←『海辺のカフカ』で登場する土地だったはずだ)の消印がある手紙である。Book2の真ん中くらいである。私の入手した新潮社のハードカバー版(1994年)では、186頁に次のように書かれてある。

「それは彼女がいつも使っている青いモンブランのインクだった。便箋はどこにでもある薄手の白い便箋だった(186頁、なお太字は私による)

一見すると、なんでもなさそうだが、実は後の記述と矛盾してしまうのだ。というのは、209頁では次のように記されているからだ。

「[主人公の顔に出来た痣は]色は黒に近い青で、それはクミコ(=妻の名前)のいつも使っているモンブランのブルー・ブラック・インクに似ていた」 

クミコがいつも使っているのは青インクなのか、青黒インクなのか? やはりどちらかに統一しないと不味いだろう。青(ブルー)インクは派手で明るい色だ。そして、水で洗えば簡単に消えてしまう。他方、青黒(ブルーブラック)インクはちょっと暗めの色だ。このインクは耐水性耐光性が強いので、正式な文書の作成の際にも用いられる。

クミコは二つのインクとペンを色別に使い分けているということなのか?(私は、そうしています。モンブランのブルーブラックは現在Tombow Objectに入れています。青のインクはシェーファーとラミーとアウロラで使っています)。しかし、それは有り得ない。というのは、妻はいつも同じインクを用いているはずだからだ。第二巻の264頁によると、主人公と妻は結婚前から手紙のやり取りをしており、「彼女の筆跡は七年前からほとんど変化していなかった。インクの色まで同じだった」と書いてあるのだ。

この矛盾は英語版(Vintage Books, London, 2010)を調べると、簡単に決着がつく。英訳版の273頁には次のように書いてある。

Kumiko had written in her usual Mont Blanc blue-black ink. The paper was the standard thin letter paper sold everywhere.
 (太字は私です)

おそらく村上春樹は自らの矛盾に気づき、英訳版ではblue-blackに統一したのだろう。青インクの色は痣としてはちょっと明るく鮮やかすぎる。青黒(ブルーブラック)の痣ならば無難である。

英訳を見たついでにもう一つ確認したことがある。「彼女がいつも使っている青いモンブランのインク」(186頁)、「クミコのいつも使っているモンブランのブルー・ブラックに似ていた」(209頁)と、それぞれどのように訳出されているかということだった。結論的に言うと、英訳はちょっと違っていたのだ。前者のほうは、Kumiko had written in her usual Mont Blanc blue-black ink" となっているのに対し、後者は"Its bluish color was close to blue-black Mont Blanc ink that Kumiko always used" なのだ。つまり、どちらも「いつも使っている」という表現ではあるが、一方にはusual、他方はalwaysと訳されているのだ。英語を教えている立場から言うとちょっと困った翻訳ではあるが、面白いですね。


さて、インクとともに気になるのは、妻がどのような筆記具と万年筆を用いたのかということだ。なぜ万年筆なのかということも気になるし、どのメーカーの万年筆かということも気になるというものだ。モンブランのインクだからモンブランの万年筆の可能性も充分高いが、そればっかりは必然的ではない。(なお、別の機会で述べるが他の登場人物、たとえば間宮中尉という老人は万年筆と毛筆で、笠原メイは鉛筆で手紙を寄こしている)。

妻クミコが彼女の万年筆を大事にしているのはほぼ確実である。いくらか根拠が示されている。主人公は、第二巻の265頁でクミコの机の中を初めて調べてみる。

「引き出しはほとんどがらがらになっていた。残っているものといえば、新しい便箋と封筒、箱に入ったペーパークリップ、定規と鋏、ボールペンと鉛筆があわせて半ダース、その程度のものだった」(265頁)

ボールペンと鉛筆は残しておいたのに、万年筆やインクは残されていないのである。ほとんど何も持たずに家出し、鉛筆やボールペンは置いていったのに、万年筆とインクだけはしっかりと持ち出したということである。主人公である元夫に手紙を書くために、万年筆とインクは大事に持ちだしたのだと解釈すべきであろう。(ただし便箋はわざわざ持ち出さなかった。主人公への手紙は、ありふれた便箋に書かれていたことを我々は知っている)。

残念ながらインクがカートリッジなのかインク瓶なのかは分からない。だが、インク瓶だとしたら随分重たいものを持ち出したのだということになり、(万年筆ファンとしては)感慨深い。カートリッジだとしたら、モンブランのカートリッジが適合する万年筆を使っていると推理を勧めることも出来る。。。。


ここで、主人公はどのような筆記具を用いているかということも、ちょっと振り返ってみよう。よく読み返してみると、主人公は妻の引き出しを調べてみる前に「自分の机の引き出し」(263頁)もチェックし、中身を整理し、多くのものを焼き払っているのだ。問題は、彼の机の中で見つかる筆記用具が「半ダースほどの使いかけのボールペンと鉛筆」だということなのだ。これでは彼の妻が残した筆記用具と同じではないか。しかも、それらは全て焼却してしまうのだから、ボールペンや鉛筆は愛着を覚えるほど大事な筆記用具ではないということになる。主人公は、万年筆を持っていないのか? 筆記用具を全部燃やしてしまって良いのか? とか考えを巡らしてしまう。弁護士事務所に勤めていた主人公が万年筆を持っていないはずがない。(当時は必需品ではなかっただろうか)。とすれば、万年筆のような大事な筆記用具はどこか別の場所に保管しているということになるのかもしれない。我々はここで行き詰まってしまう。要するに、主人公の行動と筆記道具について、著者は読者に対して情報を全面的に開示していないということを確認できる。

主人公と妻の万年筆はどこに行ったのか? またどのメーカーの万年筆なのか?謎が深まるなあということで今回はこれで終わりにする。

追伸 シャーペンがないのは不思議ですね。





「太陽・月・星のこよみ」という2012年版カレンダー

2011年12月19日 | Weblog
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前回も書いたが、最近の私は村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を聴きながらウォーキング(またはスロウ・ジョッギング)をするようになった。聴いていて興味深く思ったのは、『ねじまき鳥クロニクル』という小説は『1Q84』とかなり共通した要素や人物がいるということだ。たとえば、中央林間住んでいたという元弁護士の醜男(牛河)はどちらの小説にも登場する。しかし、今回書きたいのは、月の話である。

どちらの小説にも、人間世界を秩序づける神秘的な要素として重視されているのだ。月の満ち欠けが我々人間世界とシンクロナイズしている・・・。

月に関する村上の文章を目で追っていたならば、私はたいして何も感じなかったかも知れない。だが、耳から聴いているとなにか非常に説得力を帯びて、私の頭の中に響き渡った。耳からの読書は、ちょっと催眠的効果があるのかもしれない。

さて、夢心地のまま相模大野の本屋にはいると、月のダイアリーと月の暦にであってしまった。おまけに隣には猫の日記が置いてある。(Wind-Up Birdのカバーからも分かる様に、猫が重要な登場キャラの一つなのだ)。もう、買わないわけにはいかなくなっていた。月が私を呼んでいるはずなのだ。
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素面になって、このカレンダー(太陽・月・星のこよみ(←クリックしてみてください。私が購入したカレンダーをみることができます)
を見てみたが、、なかなか良い。月や星の写真が美しいのが嬉しい。だが、このカレンダーの最大の特徴は月の満ち欠けだとか、木星が南西の方角に見えるとかの情報が1年365日掲載されている点である。

このカレンダー、買って良かった。星と月の観察に役立ちそうだ。



皆既月食を見た

2011年12月12日 | Weblog
月食の当日はよく晴れていた。

その日のまだ午後4時台だったが、A学園の中学生の塾生は月食の観察を楽しみに帰路へと向かいました。中学受験の勉強で良い先生にあたったので星や宇宙が好きになったということで、中学受験というのは、知的好奇心を伸ばす上でも様々な意義があることを再確認させられます。(その後メールで連絡を取ってみたところ、お母さんと一緒に深夜の月食ショーを楽しんだとのことです)。

私はといえば、視力が悪いのと、星や太陽について教えてくれる良い先生に出会わなかったこともあり、ちょっとこの分野は苦手だ。しかし、もちろん月食はしっかりと観察した。はっきりと見ることができた。月が欠けていくにつれて夜空がだんだんと暗くなり、天空の星がくっきりと光り輝くようになったことがとても印象的だった。

デジタルカメラで月食の様子も撮影してみた。普通のデジタルカメラで三脚もないのですが、いちおう映ります。

まずは月が左からだんだんと欠けていく写真。

皆既月食を経て、今度は左から明るい月が現れる。


ところで月食の観察にもいくつかの道具があったほうが便利だ。一つは言うまでもなくipad(iPhones等でも可)とStar Walkというソフト(APP)。当日22時頃”NOW"設定で画像を出してみると、次のように現れた。これで、月が今どの位置にあり、周りにどのような星座や星があるのかを容易に確認することができまた。これがなかったら、天体観察はずっと根気が求められることになっていたはずだ。

もう一つ、有って便利だなと感じたのは単眼鏡である。秋葉原で購入したたった500円の8倍望遠の製品だが、こういうときに本当に有り難い道具だなと実感できた。もちろ天体望遠鏡があるとさらに便利なのでしょうが、立派な三脚が必要になってくるので、ちょっと面倒かも知れません。むしろ高倍率の双眼鏡の方が扱いやすいだろう。

皆既月食を見てみようーStar WalkとiPad2をお供にどうぞ

2011年12月10日 | Weblog
2011年12月10日(土曜日)の深夜には皆既月食が起こる。

JAXA 宇宙教育センターによると、


 部分食の始まり 21時45分

 皆既食の始まり 23時05分

 皆既食の最大  23時31分

 皆既食の終わり 23時58分

 部分食の終わり 01時18分

とのことである。


もちろんこれだけではブログとしてあまりにも能がないので、ちょっと一工夫した。

私のipad2にはStar Walkというソフトが入っている。大変便利なソフトで、これを使うと夜空の天体の様子が分かる仕組みになっている。ipad2の画像を見ながら、天空の星や星座の名前を知ることができるのだ。星の綺麗な田舎に行く人、中学受験生の親御さんならば、ご購入を強く勧める。大変な優れものなのだ。

このソフトを用い、当日(つまり土曜日の深夜)、月は夜空のどのあたりに浮かんでいるのか調べてみた。まずは現住所を合わせ(相模原市南部なのだが町田市としておいた)、 2011年12月10日(土)の21時34分に設定する。すなわち皆既月食の直前の時刻である。ついで、月のでてくる画像をいPad2上で探しだしてキャプチャーしたのが、この2枚の写真だ。

月は南東の空にあるので、東側(E)の画像と南側(S)の画像とをそれぞれ1枚づつアップロードしてみた。本当は南東の空のどの高度にあるのか分かる画像を1枚キャプチャーしたかったのだが、それは出来なかったので、結果2枚の写真となった次第である。

明日(というか今日だが)は晴れると良いのだが。

小説家というのは自らの判断を差し控えるものだ。

2011年06月19日 | Weblog
村上春樹の『雑文集』というのをちょっと前に購入したが、ついついそのままにしておいていた。だが、読み始めてみると、いきなり良質な、しかし新奇というよりはごくごく全うで普通の小説論が展開されていたのだ。ちょっと面食らった。もっと早く目を通しておくべきだった。

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たしか『1Q84』などを発表する前の段階だと思うが、村上はよく物語の意義みたいなことを雑誌に書いていたはずだ。ここでは「小説とか何か」という質問に対して、ストレートに返答しているのだ。わかりやすいので、そのまま引用しておこう。

「小説家とは、多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間です」(18頁)。

小説家の役割は、下すべき判断をもっとも魅惑的なかたちにして読者にそっと手渡すことにある。 (18頁)

良き物語を作るために小説家がなすべきことは、ごく簡単に言ってしまえば、結論を用意することではなく、仮説をただ丹念に積み重ねていくことだ。我々はそれらの仮説を、まるで眠っている猫を手にとるときのように、そっと持ち上げて運び、物語というささやかな広場の真ん中に、ひとつまたひとつと積み上げていく。どれくらい有効に正しく猫=仮説を選び取り、どれくらい自然に巧みにそれを積み上げていけるか、それが小説家の力量になる。(19頁)

読者はその仮説の集積を自分の中にとりあえずインテイクし、自分のオーダーに従ってもう一度個人的にわかりやすいかたちに並び替える。(中略) そしてそのサンプリング作業を通じて、読者は生きるという行為に含まれる動性=ダイナミズムを、我がことのようにリアルに「体験」することにある。 (19頁)


短いエッセイだが中身が濃いので全部引用することはやめよう。ここまでとする。だが、小説論をちょっと読んだことがある人ならば誰でも分かるだろうが、小説家というものは小説において結論を提示しないものなのだという議論は、多くの小説家に共有されているように見える。そして私はこのような小説観こそがまさに正統的考え方だとおもう。

小説というのは、一つの結論なり論説を読者に訴えかけるものではなく、その内容はしばしば曖昧で両義的なのである。小説を読むということは、様々な思想信条の登場人物の互いに矛盾しあう議論やら行動につきあわされることになるのである。
以前、オウム真理教問題で日本が大いに揺れたとき、有田 芳生がテレビでコメントするには、「オウムの若者たちは小説を読まないんですよ」というのだ。当時の私は小説をほとんどよまなかったが、実に印象的だったのである。

村上の解説に照らし合わせて考えると、一つの宗教、ましてや一つのカルトの虜になるということは、小説的を読むという理性の対極にある状況だと言っても良いではないか。(事実、村上の解説文もオウム真理教を意識していることが読み取れる)。


小説家は様々な仮説を興味深い形で提示するが、自らは結論を下さない。たしかに、そうなのだ! 言われてみると、私の大好きな小説家は、ほとんど皆そういうスタイルをとってきたように思う。何人か思い浮かぶが、とりわけ、John M.Coetzeeがその代表だ。彼はノーベル賞受賞講演においてさえも、自らの「説」を述べることをあくまでも拒んだのである。なんとノーベル賞受賞の記念講演で、自分の説を一切語らず、物語を読み聞かせしまったのだ。有る意味では村上以上に徹底しているのだ。
Elizabeth CostelloElizabeth Costello
J.M. Coetzee

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だが、塾教師として気になる小説は、残念ながらCoetzeeではない。(本当はCoetzeeが一番私には大事なのですが。。。)。最近映画化されて日本でも上演たKazuo IshiguroのNever Let Me Go(『私を話さないで』)のほうなのだ。そこには教師ならば誰もが考えさせられるであろう大問題について、対立しあうような諸見解=諸仮説が提示されているのである。教師とは何者でありなにが出来るのか、教育とは何なのか。教師は子どもに本当のことを話すべきなのか、話す必要がないのか。

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もちろんイシグロは結論をくださいない。ただ、あっさりと仮説を読者に提示し、我々を考えさせるのみである。

ネットで検索してみると、ちょっとだけ感想文はあるようではある。だが、本格的な議論は欠如しているようにも見える。物語を通じて、個々の読者が考えること、味わうこと。これが小説の醍醐味であるが、もう少し深められても良いではないか。次回は、イシグロの『私を離さないで』について、もう少しつっこんだことを書いてみることにする。

メディア・リテラシー教育の難しさ

2011年06月15日 | Weblog
メディア・リテラシー教育の難しさ

私がアメリカの大学院に留学した時、英語ができ無かったので留学生用の英語のクラスに入れられた。リーディングのクラスでは、日本では考えられないような文章読解術が教えられた。ある文章を読むとき、その書き手がリベラルな立場なのかそれとも保守的な立場なのか大づかみに想定しながら読んでみようというのである。そんな事までを英語教育(をアメリカの国語教育)で教えるんだなとちょっと驚いたものである。リベラルが保守化というのはあまりにも単純な二分法のような気もしたが、少なくともアメリカのような民主党と共和党の2大政党の社会においてはかなり有効な尺度なのであろう。

日本を振り返ってみると、冷戦以前には保守(自民党)と革新(社会党)という分かりやすい対立図式があったが、それを反映するような読解力教育は存在しなかったはずである。

実は私はちょっと昔、某私立 R 大学の1年生に教えていた事がある。そのゼミでは情報を多角的に読み取ることの必要性を強調し、日本には左翼系新聞(朝日、毎日)と右翼系新聞(読売.産経)さらにはタブロイド紙などもあるのだと説明していた。そして、政治的スタンスの異なる新聞がそれぞれどのような報道をするのか調べてくるようにと何人かの学生に指示した。しかし残念ながら私の話がうまく伝わらず、学生は朝日新聞と毎日新聞の比較調査をしてきてしまった。そして、両者の新聞記事の違いがよく分らなかったとのことであった。教えて入れる私も、まさか朝日と毎日の比較を試みるとは考えてもいなかったので、かなり落胆の顔を見せてしまい、悪いことをした。おそらく普通の大学1年生にとっては、右翼的か左翼的かという認識自体がなじみにくかったのであろう。

こんな経験を思い返してみると、前回の私の新聞各社の比較記事は、右も左もわからない中高生や大学生にはよい学習教材の一つになるのだ言ってしまってもよいのかもしれない。だが、自分で書いておいてなんだが、同時に危惧も覚えてしまう。というのは、私の文章が伝えているのは、あたかも朝日新聞が正しい情報を提供するメディアで、読売新聞や産経新聞は偏向報道ばかりをする右翼的新聞であるという印象のみを強調しかねないからだ。メディアを比較したり、メディア・リテラシーを身につけさせようとする視点が、朝日新聞こそが不偏不党の正しい新聞であるといううプロパガンダになりかねないではないか。それは困る。私は次のような立場を取っているからだ。

(1)朝日新聞もまた、読売新聞に負けず劣らず偏向メディアである。
(2)全国レベルの大手新聞ばかりでなく東京新聞・神奈川新聞等の地方新聞も本来であれば言及すべきであった。
(3)リベラルか保守か、左か右かといった単純な尺度だけでは測れない対抗軸があることを忘れない。

以上。

次回は文学を題材に書く予定です。

反原発デモ報道ー読売、産経、朝日、NYT、TBS、Twitter

2011年06月12日 | Weblog
昨日、つまり2011年6月11日(土)は東日本大震災および福島原発事故発生から3カ月目を迎え、日本各地では「6・11脱原発100万人アクション」という反原発デモが繰り広げられました。神奈川県では横浜市のJR桜木町駅から山下公園にかけてデモ行進「さよなら原発ウォーク」が開催され、約3千人(主催者発表)が参加。秦野市でも関連活動が行われたようです。

東京の新宿では、より大規模な反原発デモ(TBS報道特集、YouTube)がおこわなれました。動画を見ると、かなり沢山の人数が新宿アルタ前に集まっているのが分かります。当事者公式見解では2万人とのことですが、それ以上の人数が居そうな大規模集会のようです。

しかし、どの新聞も反原発デモを報道するとは大きく限りません。我が家では読売新聞の朝刊のみを取っているのですが、今朝(2011/06/12)の朝刊ではご覧の通りです。読売新聞の一面に反原発デモの記事が掲載されていないというのではなく、どこにも反原発デモの記事が全然掲載されていないのです。同様に産経新聞にも反原発運動は載っていません。写真はipod touchで見る産経新聞の一面です。 ということは、読売や産経新聞だけを購読し、他の情報に疎い人であれば、反原発デモがあったことを知らないで過ごしてしまうかもしれないという訳です。私自身も、反原発デモが2011/06/11にある予備知識という予備知識がなかったら、あるいはTwitterの情報がなかったら、デモについて知らないでいたかもしれません。

巷には新聞を教育に用いようという運動もあるようです。しかし、新聞記事自体がここまでバイアスを含んでいるのだとしたら、安易に子どもに新聞を読ませてしまうわけにはいけなくなるでしょう。すくなくとも、我々教える側としては、報道するメディアの偏向状況を知っておく必要があるでしょう。

まずはTwitteの写真から見てください。これはTwitter投稿記事を読み、重要だと思った記事にRetweetしたものです。 反原発デモに関する情報の第一弾は、私にとってはNew York Timesの反原発デモ報道”Protests Challenge Japan’s Use of Nuclear Power”でした。念のために書き加えておけば、私はTwitter上でのNYTの発言をフォロウしていますが、とりわけ”Japan”関係とか”Nuclear Power”関係をキーワードに設定していたわけではありません。国際的にも大きく報道されているので、目にとまったのです。(写真のTwitter発言ではTBS報道に関するものが時間的には先になりますが、私はこのTwitter発言を最初は見過ごしていました)。

ついで自由報道協会のフリージャーナリストの岩上さんのTwitter発言で引用されていた記事を発見しました。 「今のところ[=昨日(2011/06/11)の晩の段階]、原発デモの報道は朝日〇、毎日〇、読売×、産経×、日経×で」となっています。さらに、いくつかの情報が寄せられます。とくに興味深いのは「この読売の記事も酷いよ。新宿の2万人に言及せず、新潟での200人という数字だけを書いてる」とのことです。

なるほど、読売や産経はそういう露骨な偏向報道をするのだなと、今更ながら確認しました。


Twitter投稿記事だけではちょっと不正確ですから、今日(2011/06/12)はネットで検索してみました。

まず産経新聞から。今日ネット検索してみたところ、新宿の反原発デモについての記事を見つけることは出来ず、唯一検索で拾えたのは広島のデモ200人だけでした。「広島市中区の原爆ドーム前や繁華街で11日、福島から避難してきた人や育児中の母親、市民団体のメンバーら約270人が「脱原発」を求めてデモ行進をした。「原発なしで暮らしたい」と書いた横断幕を掲げ「原発止めろ」「ノーモア・ヒバクシャ」と声を上げた」という記事になっています。

読売新聞はどうでしょうか。先ほどは朝刊の紙面には掲載されていなかったと書きましたが、ネット上では反原発デモについてがとりあげられて居ないわけではありません。 しかし、ネット検索でも前述通りの結果で、新潟県柏崎市の200人デモが小さく載っているだけです。新宿の大規模な集会については黙殺しようとしているようです。


他方、朝日新聞は、私が日頃文句をいっている新聞なのですが、今回の反原発デモについては写真も多く使って比較的大きく取り上げているようです。

なるほど、これだけの差異があるわけですね。


3月の原発溶融のときとは異なって、今回に関して言えば、日本の大手メディアが一斉に情報隠匿を図ろうとしているわけではなさそうです。原発に賛成している新聞(産経新聞、読売新聞)が、反原発デモが起きたことを事実上黙殺し、あたかも日本には反原発などはほとんどないかのような情報を発信していたということです。本当であれば、反原発についても報道し、その上でその意義を否定するような論評を書けばよいのですが、読売新聞のような新聞は、そういう報道姿勢は持っていなかったのです。事実を取り上げて、そのうえで否定的な評価を下すのではなく、そんな事実は知らないよとニュースから抹殺しようとしてしまうのです。残念ながら、それが読売新聞あるいは日本の新聞の現状なのです。(もちろん、朝日新聞も同じような報道姿勢を取る可能性が十分あると私は考えています)。

メディアを読む力を養うという課題は、まずます重要になってきますね。同時に、いままでの入試問題の形式で本当に必要なリテラシーを養えるのだろうか、そんな疑問も浮かんできます。新聞を比較する、あるいは様々な情報源を比較しながら考えてみるという訓練も求められてくるのではないでしょうか。

あの日以来、日本の新聞を信用できなくなった。

2011年05月26日 | Weblog
もう2日前(2011/05/24)の読売新聞の1面の記事ですが、写真のように「『溶融隠し』首相否定」と記されています。

この記事だけを読んでいると、内閣総理大臣の菅直人だけが「溶融(メルトダウン)」の事実を隠していたかのようです。しかし当の読売新聞は、「溶融」の危険性があることを、我々日本の読者に報道していたでしょうか? そういう自らの咎を伏せたまま、菅首相だけを責めるというのは、公平さに欠いていないでしょうか。そしてそれよりもまずいのは、一種の情報規制をしていたということを全く反省もしていないし、むしろそんな情報規制などはしなかった事にしていることです。

ご承知の通り、原発事故の翌日、すなわち2011年3月12日の段階において、外国の主要新聞では全てメルトダウンの恐れがあること、かなり深刻な大事故であることを繰り返し報じました。Possible meltdown at Japan nuclear plant だとか、Japan Nuclear Meltdown Fears at Fukushima Reactor After Quake といったタイトルがあることは、このブログでも紹介してきたとおりです。 ところが日本の新聞・テレビでは、業界が一団となって一種の情報規制のようなことを行っていたわけです。しかもテレビに出てくる解説者は、原発の利害関係者ばかりですから、これもまた信用できないものばかりでした。

あの日(3月11日)以来、日本の事故情報を入手するために、私たちは海外の英語メディアに頼らざるを得なくなったのです。悲しい事ですが、これが日本の新聞やTVの実情です。

ついでに付け加えておけば、私も学生時代に通信社新聞社等を受験した事がありますが、どこでも踏み石がありました。志望する学生全員に、面接官が原発について賛成か反対か質問してきた者です。もちろんのことですが、原発反対を口にしたモノは絶対に合格しませんでした。大手マスコミに就職している人は、おそらく全員が原発賛成を表明していたはずです。

新聞情報というのは、決してそのまま鵜呑みにするわけにはいかない。それが、我々が今回思い知らされた大きな教訓でした。

福島の子どもたちを守れ! (ライブ放送)

2011年05月23日 | Weblog
フリージャーナリスト岩上安身によるライブ放送です。

福島の子どもの親たちと「野党」(与党のなかの野党も含むので)政治家が文科省を囲むものです。
子どもたちを守ることができるでしょうか。


政府・東京電力統合対策合同記者会見

上杉(フリージャーナリスト)「なぜ政府は環境NGOグリーンピースの調査を拒否したのか」
細野 「領海内の調査を許可するかどうかは、国の権限である」