林間教育通信(「東大式個別ゼミ」改め「シリウス英語個別塾」)

私立中高一貫校生徒を対象とする英語個別指導塾。小田急線の東林間駅(相模大野と中央林間の隣駅)から徒歩3分。

言語と思考(New York TImesより)

2010年09月02日 | 教養英語
久しぶりに iPodtouchでNew York Timesを覗いてみた。人気コーナーを閲覧していると、大学入試にでも採用されるかもしれない興味深いタイトルの記事があったので読んでみた。

Does Your Language Shape How You Think?(2010年8月26日) というものである。パソコンにつないで印刷してみると A 4プリントで8枚とやや量が多いわけだが、読みやすい文章なのでちょっと紹介してみる。

70年前、 Whorf という人が登場し、20世紀に大きな影響を与えた。というのは、母語の言語的性質によって、思考の様式が全く異なったものになってしまうというものだったからだ。例えばネイティブのアメリカンは、その母語の性質によって「時間の流れ」という概念を理解できない。また、モノ(例えば、「石」)と動作(例えば、「落ちる」)とを区別できない。

結局のところ、 Whorf の主張は行き過ぎだもので間違っている。母語の性質によって、ある種の思考が不可能になるということは、あり得ないからである。しかしながら、母語には一定の力があるはずである。母語によって思考が妨げられるということはないが、何らかのテーマについて慣習的に考えさせてしまうということはあるだろう。

ここで例に上がっているのは、ドイツ語やフランス語のように文法的なセックスのある言葉と、英語のようにセックスない言葉との違いである。それがどういう影響を及ぼすのか。

また、方向や方位を表すときに、(A)自己中心的な言葉と(b)地図のように客観的に表現する言葉とか比べられる。(A)すなわち、右あるいは左と言った言葉で、各アクターの主観的な位置で表現する言葉と、( B )東西南北といった言葉を用いて客観的に表現する言葉である。( B )としては、オーストラリアの言語の例が持ち出される。


最後まで読んだ感想。

最初はどんなに面白いかとワクワクしていたが、あまり大した話はありませんでした。入試にも出るかどうかありません。読みたい人は、どうぞ。そんなにひどくもないですよ、というくらいな感じです。

ただし、次の英文は、英文解釈の問題に使われるかも? です。(アンダーラインは筆者による)

In his shadow, others made a whole range of imaginative claims about the supposed power of language, from the assertion that Native American languages instill in their speakers an intuitive understanding of Einstein’s concept of time as a fourth dimension to the theory that the nature of the Jewish religion was determined by the tense system of ancient Hebrew.

(修正)大津先生の提言から。日本語と英語の共通基盤

2010年09月02日 | 教養英語
『北海道新聞』に慶応大学の大津先生の文章が掲載されたようである。目新しい議論ではないが、改めて注目に値する。

大津先生の議論には、基本的に大賛成である。とくに注目すべき点は、次のところである。

さらなる御利益がある。子供たちの母語である日本語の力を育成する事にもつながることだ。外国語である英語の文や文章を分析的にとらえる訓練によって、言葉への気づきが豊かに育成され、それが母語の効果的運用につながる。真の意味みでの言語力を身につける重要な一歩となるのである

また、先生のブログ  では、次の文章は重要である。

松本さん[松本茂、立教大学]とわたくし[=大津先生]の意見は根本的に違います。それは「ことば(language)」(無冠詞、複数語尾なし。つまり、抽象名詞としてのlanguageということです)という視点を明確に持っているかいないかの違いです。別の言い方をすれば、日本語も英語も共通の基盤の上に立っているという認識を明確に持っているかいないかの違いだということになります。


大津先生の議論は、基本的に大賛成である。すなわち、英語と日本語はともにメタ言語的認識に基づいているということ、したがって、英語分析的にとらえる訓練が、私達の日本語を豊かにする事にもつながってるんだという観点である。

すでに以前のブログ記事では、マドンナ古文の荻野文子の授業が、実は英語の伊藤和夫の影響下にあるのではないかと述べた。荻野の「S+V  S+V」というのは、伊藤和夫の『ヴィジュアル英文解釈』と影響があるに違いないと考えたのだ。仮に直接的影響関係がなかったとしても、伊藤和夫で英文解釈を学んだものは、荻野の古文の授業が分りやすくなったり違いない。伝説の英語講師は古文読解をも助けるのである。

繰り返すが、大津先生の主張には基本的に大いに賛同する。そのうで、私はちょっとた注文つけてみたくなる。というのは、ここまで見たところ、分析的な英語教育ー→日本語(現代文、古文あるいは漢文)という流れしか見えてこないからである。私達は、日本語教育ー→英語教育 という流れももう少し丁寧に見てみる必要があるのではないか。

大津先生らの強調するのは、母語(日本語)の知識を活用しながら英語教育するというものであろう。しかし現実には、かなりの日本人生徒において、母語の知識が十分でないのである。だから、単に英語教育の提言をするばかりでなく、国語または日本語教育についての積極的な提言が求められているのではないか。母語の知識を活用するではなく、どうやって国語教育を充実させ、子供たちの言語感覚を豊かにしていくのかというところまで踏み込んでもらいたいのだ。


もう少し具体的に書いてみよう。

なかなか英語力が向上しないものがいるタイプの生徒がいる。どういう問題があるのか。一般的に言うと、日本語力と日本語によって培われたメタ言語的能力、それから書かれてある文章に対する背景知識の無さなどが原因であろう。

◎ 接続詞や前置詞というものは、長い句や節がその後にある場合がある。そして、その長い範囲全体に接続詞や前置詞がかかっている場合がある。しかしどうもこれが難しいようだ。たとえば becauseが「なぜならば」であると覚える事はできる。しかしbecause S + V の場合に「SがVなので」と理解するのに苦労してしまうようなのである。


上記の問題は、英文読解の時の対照的な二つの基本戦略の良し悪しが問われているようにも思われる.つまり、(1)英文を左から順番に読み下してていくという読み方、(2)日本人がレ点つき漢文を読む時のように、目を左右に運動させながら英語を読んでいく読み方。このどちらが良いのかという例の問いである。結論的にいえば、左から順番に読む方法一本槍では英文を正しく読めない。これは疑う余地がない。たとえばbecause he was sick in bed だと、「なぜならば、彼は病気だった」という訳になるからである。「なぜならば、彼は病気だったからです」と訳せなくては駄目だからだ。あるいは、「なぜならば、以下の理由です → 彼が病気だった」という解釈でなければ、ならない。といって、いまさら漢文方式の英語読解に戻りたくないのも、また確かである。

私の感想では、文章を読むときの「作業記憶力」が低くなっているのではないかと思う。また接続詞や前置詞を読みとれるようなメタ言語能力の育成が求められているように思われる。こういう問題を解決しようとするとき、英語教育によってなんとかするというよりは、国語教育的な方法論が大事なのではないのか。


◎ 段落というのは、いくつかの文が全体として大きな意味の塊になっているものである。そしていくつかの段落がその文書全体構成している。だが、これがどうもできない生徒が多い。

単語から意味のかたまりへの跳躍が自在にできないのだから、ある意味で当然かもしれない。しかし、このあたりになってくると、純言語的な能力だけではなく、文章を読み取るをという意欲とか、背景知識の豊富さ問われてくるだろう。

ちなみにどういう文章が理解でき無かったかというと、アメリカが独立当時の造幣局の建設に関する短い長文問題を読んでいるとき、centという単語 の意味をなかなか理解できなかったりしたのだ。もちろんcentとは、アメリカのお金の単位である。

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大津先生のような先生の専門は英語教育ではないということだから、むしろ言語教育一般に提言してもらいたいのである。

なお、この分野で私がいつも参照してしまうのは、やはりいつもレヴィーン『ひとりひとりこころを育てる』である。