林間教育通信(「東大式個別ゼミ」改め「シリウス英語個別塾」)

私立中高一貫校生徒を対象とする英語個別指導塾。小田急線の東林間駅(相模大野と中央林間の隣駅)から徒歩3分。

大晦日の過去問特訓・法政大学の英語

2010年12月31日 | 受験
今日は大晦日ですが、受験生のために特別に過去問特訓をいたしました。2009年と2010年の文学部の英語問題の解説を2時間ばかりです。やあ、疲れました。しかし、今年最後なのでちょっとだけブログを記しておきます。(本当は書くネタはたくさんあるのですが、しばらく無精していたのです!)

さて、法政大学文学部なのですが、あきらかに他学部と問題が異なっています。さらに、2005年から過去問をやってきましたが、2009年から問題の質がちょっと変わったようですね。全体として、統一感のある問題になっています。というか、2008年まではばらばらな問題の寄せ集めという感じだったのです。明らかに問題が良くなったように思います。統一の意思が感じられるのです。

さて、法政大学文学部とはどんな問題なのか? もったいないので、このブログではあまり書けないのですが・・・。少しは書きます。





☆長文の文章が他のGMARCや成蹊・東女と比べて長くない。

☆しかし、やっぱりMARCH型の問題で、成蹊・東女型の<問題→本文読解>形式の問題とは異なる 

☆常識で読める英語長文もあるが、かといって選択式の問題は全然素直じゃない。早稲田のように陰険で難しいものが多い。(短い文章で陰険だというのは、本当はあまり良い問題とはいえませんね。むしろ明学なんかを見習ってもらいですね。しかし、MARCHの一員でありながら、難易度が成蹊と肩を並べる法政大学ですから、そういう試験方式を選択したのでしょう)。

☆全部記号式です。和訳問題もありません。

☆はっきりいって、成蹊とは違って法政対策はたてにくい。強いて言えば、学習院・明治に合格できる人ならば、法政には合格できると思われる。(←全然アドバイスになっていないですが)


すみません。このぐらいにしておきます。

塾のほうですが、通常は1月7日からの始まりとなります。ただし、受験生の場合には特別に1月4日から授業することにしました。(年末だとか新年だとかという感覚はありません。正月早々から過去問演習の準備のために、どんどん解いていかなくてはなりませんから・・・)





フィリップス・オーバーヘッド型フォンSHO8800

2010年12月21日 | 文房具と読書
フィリップス社さん提供のヘッドフォンマラソンも今回で最後の第5回となりました。

とうとう、待ち望んでいたオーバーヘッド型です。フィリップス社では、オーバーヘッド型はオニールモデルと呼ばれます。今回、フィリップス社さんから送られてきたのはSHO8800という型です。

よろしかったらフィリップス社さんのHPをみてください。以前よりも格段と分かりやすく見やすくなったと思います。

このヘッドフォンの特徴は、(1)写真のように耳に密着するタイプでありながら、比較的軽くできていること、(2)コード が写真のように接続式(というのでしょうか?)で、かつ曲げて使っていても断線しにくいような方式になっていることでしょう。

さっそく試しに聞いてみました。

最初にオーバーヘッド式を待ち望んでいたと書きましたが、それはPCでオペラを楽しみたかったからです。ヨーロッパ製のDVDというのは残念ながら普通の日本のDVDでは再生できないのですが、PCに頼らざるを得ません。しかし、PCではちゃちなスピーカーしかありませんので、音楽的には辛いのです。実は私はバロック音楽ファンなのでオペラといってもワーグナーとかはあんまり縁がありません。バロックというのは17ー18世紀の、モンテヴェルディからバッハ・ヘンデルまでの時代の音楽です。今回選んだのは、イギリスという作曲家不毛の地のなかで燦然と輝く大天才作曲家ヘンリー・パーセルが作曲した「妖精の女王」です。ドラマはシェークスピア原作です。英語の字幕が欲しいところですが、Nativeには英語の字幕は不要のようなのでありません。しかたないので、フランス語の字幕で我慢して聞きます。(パーセルを最後にイギリスからは天才作曲が途絶える。20世紀になってようやく「威風堂々」のエルガーと「惑星」のホルスト、それからビートルズが生まれるわけですが)。

古楽器趣味の私からするとちょっとモダン演奏色が強すぎるなあと思いましたが、フィリップスのSHO8800で十分楽しめたと思います。これからPCで映画を見るときにも、お世話になることでしょう。


最後に「着け心地」「音質」「総合評価」です。

「着け心地」 ★★★★★
「音質」   ★★★★☆
「総合評価」 ★★★★☆

着け心地ですが、写真でみてもわかるように耳には柔らかいクッションがありますので、かなり良いのではないでしょうか。もちろん頭を締め付けるところがないわけではありませんが、ヘッドフォンでは仕方ないでしょう。

音質は決して悪いわけではありません。しかし、オーバーヘッドフォンであることを考えると、もう少し低音の迫力などに期待するところがないわけではありません。よって★4つさせていただきました。

総合評価というのは、正直に言って値段との兼ね合いで考えております。もし5000円ならば★5つかな。

東女の入試英語は丁寧に精読を

2010年12月19日 | 英語学習
本文を読まなくても解けるのがMARCHの英語問題だと前回には書いた。立教を例に挙げたが、法政などにもそういう傾向がある。

しかし、成蹊や東京女子大は違う。パラグラフ、あるいは文章全体に視野を広げる必要はない。だが、問題に関連する箇所の本文を丁寧に読んでいかなくてはならない。常識で解ける問題ではないのだ。しかし、恐れることはない。東女は、どの行を読めばよいのかということまで、わざわず指定されているからだ。

まずは2010年のIの1番から


「我々は人類をどのようなものだと考えていますか」という問いに対して、A,B,C,Dから選ぶ選択式の問題だ。B,C,Dのいずれも紛らわしい。そこで本文を読む。1-3行目を読めとご親切に書かれてあるので簡単だ。



一番出だしの「知性のと言うことになると」という箇所を見逃さなければ正解は簡単だ。正解はB(ほかの動物よりも頭がよい)である。

(続く)

読まずに解けるMARCHの入試英語

2010年12月18日 | 受験
MARCHの英語の問題というのは、多くの大学・学部で言えるのですが、一つひとつの文を丁寧にゆっくりと読み取ることを要求している訳ではありません。むしろパラグラフ全体の意味を把握し、さらに、文章全体で要するに何が書かれているのかを理解することを求めている場合が多いように思われます。要するに、速読力が必要になる試験なのです。

ゆっくりで良いから精読しなさいと求めているのが成蹊大学や東京女子大です。しかし、MARCHとなると、たとえ法政大学であっても、パラグラフ・リーディングや速読を求めているように思われます。(ただし、MARCHの英語の試験の方が難しいとは言い切れません)。精読から速読へ。ちょっと大変な跳躍ですよね。

しかし、問題はある意味で取っつきやすくなるかも知れないのです。なぜならば、MARCHの入試英語で出される文章は、ほとんどの場合、オーソドックスというか、凡庸な内容の文章が多いからです。だから、本文を読まなくても解けるような問題が出題されることがあるのです。


ところでYojiさんには、私のブログに対して次のようなコメントをしていただきました。

>英検の問題だったと思いますが、天体の話が出ていました。
>僕は本文を全く読まないで、設問だけで正解が分かりました。本文の中にある知識を、僕はすでに持っていたのです。

英検だけではなく、MARCHの英語の問題にも同じことが言える場合があるのです。全部が全部そうだというわけではありませんが、常識的に解けてしまうのです。たとえば、2008年の立教大学文学部の問題がそうでした。



画家のようなアーティストを論じた問1の問題ですが、1~4までは本文を読まなくても常識で解くことが出来ます。(早慶では、こういうわけにはいきません。念のため)。

ただし後半の5と6となると、どれも正解に見えてきますので、本文を読まなくてはなりません。といっても精読は不要です。常識さえあれば、さらっと流し読みするだけで解くことができる程度です。教える側にとっては、非常に楽ちんな問題だと言えます。

トム・ソーヤー補足(アニメがあった)

2010年12月16日 | 教養英語
トム・ソーヤーの件について補足です。

忘れていましたが、アニメ版がありました。そこでは、ちゃんと黒人奴隷も描かれているそうです。ただし奴隷の「子ども」じゃなくて、「青年」になっています。詳しくは後ほど・・・。それから、もっとハックルベリーフィンについても書きたい。

ペンキ塗りの動画
動画一覧

ジム・ホリス(声・西川幾雄)
 ポリーおばさんの家で奴隷として使われている黒人の青年。奴隷と言ってもポリーおばさんは、こき使う事なく親切にしているので召し使いと言ったところか。とても働き者の青年である。

『トム・ソーヤー』のジム少年 (英語文学の読解と指導の必要性)

2010年12月16日 | 教養英語
青学「ひめゆり退屈問題」は続けたいですが、その前に『トム・ソーヤー』についての補筆をしておきます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

マーク・トゥエイン『トム・ソーヤー』の「ペンキ塗り」のエピソードは、多くの人がだいたいのことは知っていると思う。私はマーク・トゥエインの作品などは最近までほとんど読んだことがなかったが、それでも知っていた。いや、知っていたつもりである。だが、すでに明らかにしたように、最初にトムの前を通りかかるジム少年は黒人奴隷の子だったのである。どれだけの日本人読者がそのことに気づいていたのだろうか? 私たちの多くは節穴だったのではなかったのか。すくなくとも、英語の教科書では、平然と書き換えられてしまっていることに気づかなかった者は多いのではないか。 
翻訳だけでもしっかりと読んでいれば、ある程度以上は事態を察することが出来たはずだった。大久保康夫訳の『トム・ソーヤー』(新潮文庫)をみてみよう。写真を見てもらいたい。

よく読むでみると、トムとジムは同じ身分に属する少年同士ではないことが、訳文からでも窺うことが出来るののである。ジムは、トムを「トムさん」と呼んでいるし、ジムに命令しているのはお母さんではなくて「奥様」なのだ。時代背景をしらなくても、ジムが「下男・下女」のような存在であることが推察しうるはずだったのだ。もちろん我々は、アメリカ史を多少なりとも知っているのだから、奴隷の子どもかもしれないとも解釈すべきだったのだ。そして、ジムに本当のお母さんはいるのだろうか?それとも、家族から引き離され、子どもだけで売られてきたのだろうか?といった空想を広げても良かったのだ。しかし私は、かなりいい加減に、神経散漫に翻訳本を読んでいたので、完全に見落としていた! しかも、私はエドワード・サイードの読者であり、J.M.クーツィアの大ファンでもあるのに。(英語で読んでいれば、黒人訛りで判断できたのかも知れない。もっとも私の英語力ではちょっと厳しいかもしれない)。


台詞から、一人の登場人物が黒人であること、つまり奴隷の子どもであると判断すること。こういうことは、文学作品とくに海外文学を読む時には非常に大事なポイントだ。しかし、私(たち)はそういうことについて、システマティックな訓練を受けたことがない。また、英語読解において、そういう繊細な読解力は全く問われてこなかった。そして、あまりにもナイーブに英語を読んできたのだ。つまり、英語読解能力が十分ではなかったということでもあるわけだ。

差別的社会を読み取る教育というのは、子どもには難しすぎると言えるだろうか? そんなことはない。『ハリーポッター』にでてくる「屋敷しもべ妖精」というのは、かつての黒人の屋敷奴隷の存在を想起させているのである。実際、英語圏の子どもたちは、ハリポタの屋敷奴隷妖精について議論してきているのである。



追加

次のコミカルなシーンは、子ども奴隷と女ご主人様のものだと思うと感慨深い。また、「ジムは人間以上のものではなかった」という文章も、ちょっと深い意味を持っているように見えてくる。 

英語教師とリベラルの考え方(続編) (青学の「ひめゆり退屈」問題)

2010年12月15日 | 英語学習
英語教育となると、前回書いたように、なぜかアメリカ民主党的なイデオロギーを私は感じてしまう.アメリカの英語教育関係者を支配しているのが、アメリカに民主党であり、リベラルマインドだからではないかと想像する。

しかし日本の英語教師は、移民や留学生に英語を教えるアメリカの人の英語教師とは違う。もっと社会の中核に関わる人たちである。だから、アメリカや英語は好きだが、アメリカのリベラリズムは嫌いだという人も少なからずいるんじゃないか。日本人の英語教師は、アメリカン・リベラリズム一辺倒の日本の英語教育に満足できるのだろうか。

ちょっと考えてみれば判るけれども、日本の英語関係の大御所といえば、リベラルには國弘正雄がいるかもしれないが、保守には渡部昇一がいる。ともに1930年生まれだ。渡部昇一がアメリカン・リベラリズムについてどう思ってるのか私はよく分らない。(こういう英語関係の保守の論客がアメリカン・リベラリズムと正面から対決してくれたら面白いと思うんだけれども、おそらくあまりないか、ほとんど無いんじゃないかな。誰か教えてください)。けれども、日本のリベラルとか、左翼については、大反対の姿勢であることは確かで、そうなると、やっぱりアメリカン・リベラリズムだってそんなに好きじゃないだろう。

まとめてみると、日本の英語教育で用いられる英文はアメリカン・リベラリズムのものが多いけれども、日本の英語教師は必ずしもそれに共感を覚えているものばかりではないだろうし、渡部昇一のように日本的保守・右翼(反左翼、反中国、反韓国)を支持する人も少なからずいるのではないか、ということになる。ではどうしたらいいのかと言われると、私に答えがあるわけではない。ただそういう不満がくすぶっているに違い無い、そしてそれを単に隠蔽するだけではダメなんではないかという問題提起をするにとどまる。以上が私の問題意識であり、作業仮説である。

さて、こういった問題意識を持ちながら、2005年に大きく問題になった青山学院高等部の英語の入試問題をもう一度読んでみようと思うのである。これは、沖縄に修学旅行に言った日本人の高校生が、ひめゆりの証言が退屈であるという内容を正直に綴った感想文(英語)を書いたという設定の文章である。(写真参照のこと)

この入試問題は、大いに問題になり、青山学院高等部側は即刻に謝罪した。しかし、英語教育と沖縄ひめゆりについての本格的な検討には入っていないようだ。青学英語教師を支持する意見も、青学英語教師バッシングする側も、英語教育についての配慮がちょっとなさすぎるように思えたのだ。(続く)

英語教師とリベラルな考え方 (ジェネラリストとしての英語教師 その2)

2010年12月14日 | 教養英語
今回は英語教育関係者に対してちょっと大事な問題提起をしてみたいと思います。と言っても、大学入試に全く関係ない話というわけではありません。

さて、中学校や高校の英語の教科書を読んでみて気が付くのは、英語の教科書というのイデオロギー的に非常に偏っている事です。良くも悪くも、アメリカン・リベラルという姿勢にたった英文ばかりです。出てくる登場人物は「気前が良い」という意味でのリベラルでもあり、政党としては全員アメリカの民主党の支持者に見えます。もちろん、白人保守派だとか、草の根ファンダメンタリズムの熱心な活動家などは出てきそうもありません。

大学入試も同じです。たとえば、入試でよく取り上げられる問題に「地球温暖化」があります。私が少々解いてみた限り、地球温暖化問題に対して懐疑的な姿勢に立つ選択肢が正しかった例は、一つもありません。そういうこともあって、多文化主義、地球環境問題(地球温暖化)、社会福祉充実、貧困撲滅、国際協調と平和主義については(+)の価値があるのだと教えます。たとえ英文を読みとれなかったとしても、(-)の価値観を肯定するような姿勢の文章を認めてはいけないとも言います。

私はこういった価値観に反対しているわけでありません。しかし、英語教師はいわゆるアメリカン・リベラリズムに対してどのような姿勢を取るのか、もう少し自覚的な議論があってもよいのではないでしょうか。少なくとも、グーグルで「英語教師」と「リベラリズム」「リベラル」で検索しても全くでできません。英語教師はいわゆるリベラルな思想に対してどのような立場を取るのか、匿名でもいいですから何か論じて良いではないでしょうか。(続く)

小田急江ノ島線東林間駅から徒歩3分(中央林間・相模大野から一駅)

私立中高一貫校生対象英語完全個別指導塾
プログレス・バードランド・ニュートレジャー対策
大学受験・筑駒/開成受験対策

東大式個別ゼミ

プログレス21で、『トム・ソーヤー』から削除されたものーー黒人奴隷の子、ネズミの死体

2010年12月11日 | 教養英語
『プログレス21』の2年生用の教材の中には、マーク・トゥエイン『トム・ソーヤーの冒険』の一番最初のほう(第二章)にある、もっとも有名なエピソード「ペンキ塗り」の話が、クラスで劇をやる作品として取り上げられている。

いくつか不明な点があったので、大久保訳の『トム-ソーヤー』(新潮文庫)と、 Gutennbergを調べてみた。すると、どう言った点が改編されているのかが判って興味深かった。本来は、私の別のブログ(プログレス・ノート)の方に書くべきであるが、このブログにも書いていきたいと思う。

このエピソードはすでにご承知の方は多いと思うので、ちょっとだけ説明しておく。ある土曜日、トムはペンキ塗りの仕事を言いつけられてしまった。そこでトムは、いかにもこの仕事は楽しくてしょうがないというふりをする。さらに、誰にでもできる仕事ではないんだぞ、もしどうしてもやらせてほしいならば、何か代償をよこせといいくるめ、他の子供たちにやらせてしまうというものだ。


トムがペンキを塗っているときにまず最初に通りかかる少年がジミーである。改変バージョンでは、ジミーはお母さんに仕事を言いつけられているので、ペンキ塗りの仕事はできないというふうになっている。しかし原作はちょっと全然違う。ジミーに仕事を売りつけているのはお母さんではなくて「奥様」(Ole Missies)である。そして、ジミーはトムに対して「トムさん」(Mars Tom)と敬語を使っている。事情はイラスト付きの原作を見れば一目瞭然である。ジミーは黒人少年だったのである。 

19世紀の南部アメリカでは、子供時代は黒人と白人の子供が一緒に遊んでいるのだということを偲ばせるものである。それが抜け落ちたわけだ。


三番目に来る少年はジョニーである。原作では、ジョニーとトムとの間にはほとんど会話はないが、改変バージョンでは長い会話が繰り広げられる。ここで不思議に思ったのが「モデル・カーをあげるよ」という言葉であった。舞台は1820年代から30年代の南部アメリカなのだから、当然のことながら自動車は存在しない。この時代のモデル・カーとはいったいいかなる意味だろうかと考えて本文を調べたのだ。やはり「モデル・カー」というのは、現代的に書き換えられたモノで、原作にはそれにあたる言葉はなかった。それどころか、ジョニー少年が代金として支払ったのは、「死んだネズミ」と「ネズミを振り回すための紐」であった。実際『トム・ソーヤー』や『ハックルベリー』といった本を読むと、少年たちの宝物として死んだネズミや猫であること事を知ることできる。


この二つのエピソードであるが、中学校に2年生用と考えると少々刺激が強すぎるのかもしれない。しかし、少々古い小説を読む楽しみや驚きが、『プログレス21』から削除されてしまっていることは疑えない事実である。そのあたりを、我々は確認しておきたい。


なお、あまり重要な要素ではないかもしれないが、原作ではトムの柵のペンキ塗りの仕事は「昼すぎに」終わったのに対し、改変版では「午前中に」終わったことになっている。昔の子どもが命令される仕事のハードさは、もはや現代的ではないということなのだろうか。

一流校ではどのような英語教材を用いているのか? (続)

2010年12月10日 | 英語学習
ブログの話題を再び一流高校の英語教材に戻す。もちろん例のドーキンスの英文である。

まずどのような問題が出されているのか。

実を言うとすべて選択問題だ。たとえば、”comes of age”、”superstition”、the truth finally dawned on one of themといった語句や文章の意味について、適切な英文記号を選ぶというものである。もちろん、英文全体の内容一致問題というのもある。


授業ではオーソドックスに英文和訳やその文法的な解説を行っていくようだ。

せっかくだから英文にもちょっと踏み込んでみよう。私はちょっと難しいと思ったのは、第二段落の最初の所だ。

Today the theory of evolution is about as much open to doubt as the theory that the earth goes round the sun, but the full implications of Darwins revolution habe yet to be widely realized.

とくに the theory of evolution is about as much open to doubt as the theory [=地動説](以下略) のところ。 

as much open to doubt as というのを「地動説と同じように進化論も疑わしい」というふうに解釈すると、訳がわからなくなる恐れがある。書き手が進化論をラディカルに支持しているという文脈をよく理解できていないと、この as as 比較文の真意はよく分らなくなるからだ。このあたりについても、先生はよく解説していたようで、生徒は理解できていた。(もっとも、アメリカで、ダーウィンの進化論が今なお激しい批判の対象になっているということを読み手が知っていれば、この文章は実はもっと難しくなってしまうような気もする)。


さて、このドーキンスをとりあげるような授業をどうやって評価しようか。おそらく多くの方々が賛成していただけると思うが、高度な英文読解の授業であるが、それを十分に生かし切っていないと感じるのではないか。というのはこれだけ難しい英文を扱っても、結局のところ英文法的解説と英文和訳に終始する授業すぎないからだ。昔の原仙作の『英標』もこんなものだったのかもしれないが、私はどうも中途半端に思えてくる。どうせ英語長文を学ぶのであれば、(a)英文和訳の訓練だとか、徹底的な音読学習に向いている教材を選ぶのか、(b)あるいは、精神的思想的背景について学ぶことのできるような授業にすべきではなかったか。結局のところ、英語長文をインプットや和訳をするには、この英語はちょっと長くて難しすぎる。また、ドーキンスや進化論的思想について学ぶには、少々テキストが短すぎるように思われる。

もし仮に英語を通じて精神的文化的あるいは思想的な背景を学ぶことに重点を置くのであれば、もう少し異なる教育方法論があるのではないか。例えば、バラエティーに富んだ英文を次から次へと読ませるよりも、もう少し時間をかけてドーキンスの思想につき合ってみる。あるいは、教師が思想的背景について説明をしたり、参考資料をあらかじめ読ませておくのはどうだろうか。(テストに出題されるのであれば、生徒は参考資料を読むであろう)

もし仮に私が一流高校の教師であれば、ドーキンスはちょっと難しすぎるので遠慮したい。(ドーキンスを教えるためには、ダーウィンや進化論ばかりでなくキリスト教と無神論、原理主義などについても解説する必要があるのではないか)。そして、Oxford出版のVery Short Introductionのシリーズであるとか、Britannicaの易しい英文を使って、進化論とダーウィンを巡る背景知識の習得を目指したいものである。進化論や氷河期といったいくつかのテーマーーこれらは大学入試英語によく出てくるテーマであるーーに絞った方が良いと思うのは、生徒にとって有益であるばかりでなく、教える教師にとってもその方が準備しやすいと考えるからである。

なお、予備校の英語教師の著作で言えば、以前紹介した、ロジカル・リーディングで有名な横山雅彦 やとくに古藤晃のものが参考になるであろう。



余談

私は原仙作『英標』を学んだ最期の方の世代ではないかなとも思う。もちろん全部やった。伊藤和夫の『英文解釈教室』ほどではないが、非常に印象的な参考書であった。どんな英文だったかは覚えていないが、モーム、ラッセル、フォースターなどを読んだような記憶はある。今になって思えば、ああいう難しい英語をやる必要はあまりない。ドーキンスはそこまで難しくない。だが、高2向きではないように思う。

小田急江ノ島線東林間駅から徒歩3分(中央林間・相模大野から一駅)

私立中高一貫校生対象英語完全個別指導塾
プログレス・バードランド・ニュートレジャー対策
大学受験・筑駒/開成受験対策

東大式個別ゼミ

ビジネス・マインドの勘違いーー無名大学の学生を勝ち組にするだって?

2010年12月09日 | 受験
インターネットのアゴラというサイトに 松岡祐紀という人が『「大卒」という資格の幻想 』という投稿をしていた。これはビジネスマインドによって目が曇り、勘違してしまった議論の典型だった。

松岡氏は次のように述べる。

「今の時代、就職に有利になるために大学に入るのであれば、「一流大学」に入学する以外あまり意味がない。それ以外の大学に入った大学生はすでにその時点で、就職レースにおいては圧倒的に不利な立場に立っており、これを覆すことはほとんど不可能に近い」。

この現状認識に立って次のように提案する。

「今後、無名大学出身者は起業や海外移住など既存の出世コース以外の選択をする以外に、有名大学卒に生涯年収で勝てる見込みはない」。だから、「その大学内でも優秀な学生を集めて、『起業家セミナー』や『海外就職コース』などを」作るべきではないかと提案する。

彼が正しいと信じているのは、負け組が勝ち組になることのできる社会である。

「健全な社会とは『下克上可能な社会』である。無名大学卒でも『勝てる仕組み、あるいは負けない仕組み』を大学側で学生に提案し、彼らの希望をむやみに殺さないこと」 が大事ではないかと訴える。





一見すると松尾氏は正論だし、フェアな社会を模索しているように見える。例えば、無名大学の学生もも大卒という資格に期待感を持っているが、それは全くの幻想で就職上は相手にされないと指摘している。私もここまでは賛成だ。だがその処方箋となると、甚だしい勘違いがあるように思われる。

根本的問題は大きく二つあるだろう。一つは、無名大学の優秀な学生のために教育しようという考え方だ。1%いるかどうかくらいの優秀な学生のために、大学が資金や人材を注ぎこめとでも言うのであろうか。一部の生徒のみに依怙贔屓しようとするやり方は,学校経営上からみて非常に不健全な発想である。そんな学校などは潰れてしまえばよいのだ。

もう一つの根本的問題は、「勝てる見込み」とか「下克上」といった言葉で現状を理解しようとしている点である。要するに、ビジネスをする連中の考え方だ。しかし、勝つことがそんなに大事なのだろうか。そのゲームで負けたら、命を取られてしまうほどの一大事なのだろうか。

端的にいって、無名大学の使命(ミッション)には「勝ち組」の育成セミナーなどは不要なのだ。「勝ち組」になろうとは思わなかったからこそ、無名大学を選択した学生がほとんどなのだ。そして、そういった大学では、将来の中堅の社会人を育成する事が求められている。「勝ち」を取りに行くような野心をいたずらに刺激するのではなく、堅実に学び働くことができるような基礎的学問を与え、路頭に迷うことなく人生を送ることができるように指導していくべきである。

世の中には、高収入だとか最大限の利得を良しとする考え方ばかりでなく、自らの生活を守り、リスクを減らし、ときには互いに助け合って生きていく考え方があることも教えなければならないだろう。

どうしても、経済的に成功してお金持ちなりたいとか、一流大企業に就職したいという学生がいるならば、再受験して一流大学に合格する事を強く奨めるべきだ。

付け加えれば、経済的成功者になりたいとか、お金持ちになりたいという欲望が無名大学で蔓延る(はびこる)のは、望ましいことではない。一つにはそれがあまり現実的ではないこと、もう一つはそういう欲望が強くなれば、学生が大きな「賭け」に出てきてしまう恐れもあるからだ。無名大学の学生ができることといえば、例えば、芸能人になることだ。分かりやすく言えば、 AV 女優になって、第二の飯島愛を目指す道である。あるいは、パチンコや競馬で勝負する。統計的データはないが、 AV 女優とパチンコ中毒を減らすことは、無名大学にとってちょっと大きな課題ではないかという気さえするのだ。

こんなふうに書いてはみたが、大学の側は松岡氏の提案に賛成する者もいるかもしれない。しかし、繰り返し述べるが、それは決して望ましいことではない。その大学の大半の大学生の利益になる改革案ではないからだ。

12月7日は何の日か?

2010年12月08日 | Weblog
私がハワイイの大学にいた頃である。先生から「開戦記念日(?)おめでとう」と言われて、一瞬きょとんとしてしまったことがある。

その日は12月7日だった。私の感覚では開戦記念日は12月8日なのであって、12月7日に言われるべき事柄ではなかったのだ。しかしちょっとよく考えてみれば、日付変更線があるのだ。アメリカ人にとってはパールハーバーは12月7日なのである。

ipodの辞書でPearl Harborまたは真珠湾攻撃を調べてみると、内容はほぼ同じなのにその日付が異なっていることを確認できる。



一流校ではどのような英語教材を用いているのか? (英語教師ジェネラリスト論ーその1)

2010年12月07日 | 教養英語
小西甚一は、名著とうたわれた古文の参考書『古文研究法』において、古文の勉強について a)語学的理解 b)精神的理解 C)歴史的理解 というふうに三つに分類してみせた。この考え方は、古文の勉強ばかりではなく、現代国語や英語の勉強にも当てはまるだろう。とすれば、英語や現代国語の教師というものは、言語学的な側面のみならず、精神的ならびに歴史的側面についても教育し教授しなければならないことになる。

一流高校、あるいはその反対に英語教育が困難な高校においては、英語の時間に語学的教育をするというよりは、英語に関連する精神的文化的歴史的側面についての授業をすることがより求められているだろう。つまり、語学教師であっても、いわゆる語学屋さんであってはならなくなってくるだろう。

英語教師や国語教師が語学屋であってはならないのだとしたら、大学でも第二専攻(副専攻、Minor)をもち、何らかのテーマを追求したほうが良いだろう。あるいは、他に第一専攻(主専攻、Major)が英語ではない者が、第二専攻として英語を教えるのも良いのでないか。このことについてはもっと議論を深めたいものであるが、今回は精神的文化的理解を志向する英語の授業の例として、神奈川にある某私学の授業でとりあげられた英文を見ていきたい。

さて、その神奈川の某一流高校というのは、英語教育はなかなか充実しているようだ。例文の暗記暗唱のような、英語学習の王道もしっかりとやらせている。同時に英語の長文読解でも厳しくしごいているようだ。高校2年生では次のような文章が与えられて「小テスト」である。 調べてみると、ドーキンスの『利己的な遺伝子』であることが判明した。 『利己的な遺伝子』とは、35年くらい前に書かれた有名な本で、その第1章 Why are people?が取上げられている。私はドーキンスは未読であるが、進化論の生物学的文明論的意味を一般向けに書いたエッセイのようである。それが小テストに取り上げられたのである。量的にはここに挙げた画像で全部くらいだったか。それらをおそらく30分か1時間程度で全部読んで答えるという、すごい小テストなのである。(もしかしたら、オバマ大統領の核兵器廃絶スピーチ英文とあわせて60分かもしれない)。そして、次の週には翻訳のコピーが与えられ,教師が和訳し解説をする。

東大二桁台のトップ高の英文読解演習とは、こういうレベルなのだ。英語学習をしながら、同時に高度な知的教養を身につけていくという意味で、一つの理想像がここにある様に見える。(続く)




プリウス プラグインハイブリッドのプロモーションというのに参加してみました。

小田急江ノ島線東林間駅から徒歩3分(中央林間・相模大野から一駅)

私立中高一貫校生対象英語完全個別指導塾
プログレス・バードランド・ニュートレジャー対策
大学受験・筑駒/開成受験対策

東大式個別ゼミ