林間教育通信(「東大式個別ゼミ」改め「シリウス英語個別塾」)

私立中高一貫校生徒を対象とする英語個別指導塾。小田急線の東林間駅(相模大野と中央林間の隣駅)から徒歩3分。

言語が思考に与える影響

2010年09月05日 | 教養英語
言語が思考に与える影響ということについて、私はもっと違うことに興味を持っている。

私の大学生学生時代の第二外国語はフランス語だった。もちろん大してフランス語が出来るわけではない。もちろん話せないし、書けない。だが、私レベルのフランス語でも、簡単なフランス語の新聞記事やパンフレット、あるいは CDの解説文くらいならば読めてしまう。ある種の学術的な文書も読める。だが、全然読めないような難解なフランス語も、また沢山あるのだ。

そういうフランス語体験からいうと、いわいるフランス語には大きく二つの世界があるように見える。とても易しい読みやすいフランス語と、難解きわまるフランス語の世界である。あまりにギャップが多きいのだ。これがフランス人の文化的世界とフランス語教育に影響を与えていないわけがない。

ところでクンデラという小説家が居る。チェコスロバキア生まれで現在はフランス、フランス語で活躍している大作家だ。(私は、映画「Unbearble Lightness of Being」でそのすばらしさを知り、当時邦訳がなかったものだから、敢えて英訳で読んだものである)。

その彼のエッセイ『カーテン』によると、大衆文学でしかないユゴー『レ・ミゼラブル』がフランス国内で高く評価され、世界の大作家であるラブレーやバルザックが低い評価でしかないことを嘆いている。バルザックなどが人気がないのか!、と私も驚く。しかし、学生時代に読まされたバルザックのような作品程読みにくいフランスはないのである。

バルザック、フローベール、モーパッサンと時代を経るごとにフランス語は読みやすくなってくる。だからフランス語の難解さは時代的な要因もあるのだが、それだけではない。要するに、ユゴーみたいのは読みやすく、純文学のフランス語となるとはかなり難しいのだ。

学者で言えば、たとえばP.Bourdieuの書くモノが興味深い。というのは、学者向けの文章と一般大衆向けのパンフレット等とを彼は書き分けており、前者は非常に難解なのに対し、後者は非常に読みやすいのからだ。

要するに、大衆的フランス語を愛する者と、洗練され英知あふれるフランス語を愛する者が居て、フランスでは前者が優勢なのである。しかも、前者は後者のことを知らないし、ろくに敬意も払っていないということなのだ。

フランス語世界の2分法とは、つまるところ、職業や学業の違いにはっきりと象徴されている。フランス語世界に生まれ人は、難解なフランス語を読む人間になるのか、簡単なフランス語だけを読むようになるのか、おそらく小学校高学年の段階ではっきりと決断しなくてはならないに違いない。将来高等教育を受けようとするものと、普通の職業教育で良いというものとで、読むモノが異なってくるはずである。


それに比べると、現代日本ではその分岐点が曖昧であるかのように思われる。しかしその違いがないわけではない。日本語にも、どう見ても大衆小説としか思われないような文章もあるし、インテリ向け小説と思われるような物に分れている。以前、沢尻エリカ主演で映画化された『クローズド・ノート』というものを読んだことはあるが、大衆小説としか言いようのないもので、そのシンプルなストーリー展開を楽しむものであった。

いつものとおり、まとまりのない文章になってしまった。だが、私の言いたいのは、簡単だ。言語というよりは、言語文化によって決定されるモノがあるはずだという話である。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。