林間教育通信(「東大式個別ゼミ」改め「シリウス英語個別塾」)

私立中高一貫校生徒を対象とする英語個別指導塾。小田急線の東林間駅(相模大野と中央林間の隣駅)から徒歩3分。

安西 水丸による文房具イラスト

2012年04月18日 | 文房具と読書
象工場のハッピーエンド (新潮文庫)
象工場のハッピーエンド (新潮文庫)村上 春樹 安西 水丸 新潮社 1986-12-20売り上げランキング : 87589Amazonで詳しく見る by G-Tools


村上春樹の文房具(文)の『象工場のハッピーエンド』に言及したのだから、安西のイラストについて述べなくては不公平だろう。今回は『象工場のハッピーエンド』から文房具のイラストの写真をアップしてみた。はっきりいって文房具メーカー等は全然見当もつかないイラストばかりだ。唯一の例外はパーカーのインク瓶のみ。本当はモンブランのブルーブラックのインクが良かったんだけれどなあ。でも僕自身は大学院生時代にパーカーのPermanent Blackを二瓶も使用したので、ちょっと嬉しいな。

万年筆で書いてみた村上文具店の感想

2012年04月17日 | Weblog
モンブランのブルーブラック(トンボの万年筆オブジェクトのB太いニブ)と、アウロラのブルーのインク(アウロラのオプティマのF細ニブ)で書いた文章画像をアップロードします。本当はモンブランのブルーのほうが良いのでしょうが、所有していませんから、アウロラ(イタリア)の青なんです。しかし、モンブランもアウロラも、青の色はそれほど違いないはずです。(しかし、ブルーブラックの色は会社によってかなり異なっているので要注意のこと)。




村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』における万年筆とインク

2012年04月16日 | Weblog
前にも書いたが、昨年末くらいから村上春樹の代表作『ねじまき鳥クロニクル』の英訳オーディオブック(Wind-Up Bird Chrnoicle)を聞いている。

本来ならば今ごろは全部聴きおわり、その報告をしなければならないところであるが、最後まで聴きおわっていない。まだBook1、2,3とあるうちのBook3の途中なのだ。言い訳になってしまうが、なにせウォーキングとジョギングのお伴に聴いているのだが、3月は花粉症の季節なので外に出るのが億劫になってしまい、おかげであまり聞かなかったのである。しかし、原作本と英訳本も入手したので、ちょっと詳しく中身を吟味したりしている。そこで、いくつか興味深い発見をここに書いておく。まず最初に『ねじまき鳥』における筆記用具について。

『ねじまき鳥クロニクル』というのは全三巻もある長編小説である。内容を敢えて乱暴に一言でまとめてしまうと、主人公の妻が突然消えてしまうが、その彼女を追い求める話である。小説のテーマの一つは、人と人等を隔てる「壁」と、人と人とを通じ合わせる「通路」(コミュニケーション)だとも言っても良い。

主人公の妻は、何の兆候もなく突然、ほとんど手ぶらで、主人公の元を立ち去ってしまうことになる。しかし、妻とのコミュニケーションの可能性は完全に絶たれたわけではなく、辛うじて意思疎通の機会が保たれている。一回目は妻に分厚い手紙が送られてくるし、2回目はパソコンのチャットのような対話が可能になる。また、本当は妻かも知れない謎の女からの電話もかかってくる。

手紙、電話、電子メールという様々な媒体のバリエーションも大変興味深いのだが、私が注目するのは、彼女の手紙であり、彼女が用いた筆記具と文房具の方である。はっきり言って文学的意味があるかどうかは分からないが、文房具ファンの観点としてはどうしても気になってしまったのだ。そして面白い発見をした。

去っていった妻の主人公への最初の連絡は、高松市(←『海辺のカフカ』で登場する土地だったはずだ)の消印がある手紙である。Book2の真ん中くらいである。私の入手した新潮社のハードカバー版(1994年)では、186頁に次のように書かれてある。

「それは彼女がいつも使っている青いモンブランのインクだった。便箋はどこにでもある薄手の白い便箋だった(186頁、なお太字は私による)

一見すると、なんでもなさそうだが、実は後の記述と矛盾してしまうのだ。というのは、209頁では次のように記されているからだ。

「[主人公の顔に出来た痣は]色は黒に近い青で、それはクミコ(=妻の名前)のいつも使っているモンブランのブルー・ブラック・インクに似ていた」 

クミコがいつも使っているのは青インクなのか、青黒インクなのか? やはりどちらかに統一しないと不味いだろう。青(ブルー)インクは派手で明るい色だ。そして、水で洗えば簡単に消えてしまう。他方、青黒(ブルーブラック)インクはちょっと暗めの色だ。このインクは耐水性耐光性が強いので、正式な文書の作成の際にも用いられる。

クミコは二つのインクとペンを色別に使い分けているということなのか?(私は、そうしています。モンブランのブルーブラックは現在Tombow Objectに入れています。青のインクはシェーファーとラミーとアウロラで使っています)。しかし、それは有り得ない。というのは、妻はいつも同じインクを用いているはずだからだ。第二巻の264頁によると、主人公と妻は結婚前から手紙のやり取りをしており、「彼女の筆跡は七年前からほとんど変化していなかった。インクの色まで同じだった」と書いてあるのだ。

この矛盾は英語版(Vintage Books, London, 2010)を調べると、簡単に決着がつく。英訳版の273頁には次のように書いてある。

Kumiko had written in her usual Mont Blanc blue-black ink. The paper was the standard thin letter paper sold everywhere.
 (太字は私です)

おそらく村上春樹は自らの矛盾に気づき、英訳版ではblue-blackに統一したのだろう。青インクの色は痣としてはちょっと明るく鮮やかすぎる。青黒(ブルーブラック)の痣ならば無難である。

英訳を見たついでにもう一つ確認したことがある。「彼女がいつも使っている青いモンブランのインク」(186頁)、「クミコのいつも使っているモンブランのブルー・ブラックに似ていた」(209頁)と、それぞれどのように訳出されているかということだった。結論的に言うと、英訳はちょっと違っていたのだ。前者のほうは、Kumiko had written in her usual Mont Blanc blue-black ink" となっているのに対し、後者は"Its bluish color was close to blue-black Mont Blanc ink that Kumiko always used" なのだ。つまり、どちらも「いつも使っている」という表現ではあるが、一方にはusual、他方はalwaysと訳されているのだ。英語を教えている立場から言うとちょっと困った翻訳ではあるが、面白いですね。


さて、インクとともに気になるのは、妻がどのような筆記具と万年筆を用いたのかということだ。なぜ万年筆なのかということも気になるし、どのメーカーの万年筆かということも気になるというものだ。モンブランのインクだからモンブランの万年筆の可能性も充分高いが、そればっかりは必然的ではない。(なお、別の機会で述べるが他の登場人物、たとえば間宮中尉という老人は万年筆と毛筆で、笠原メイは鉛筆で手紙を寄こしている)。

妻クミコが彼女の万年筆を大事にしているのはほぼ確実である。いくらか根拠が示されている。主人公は、第二巻の265頁でクミコの机の中を初めて調べてみる。

「引き出しはほとんどがらがらになっていた。残っているものといえば、新しい便箋と封筒、箱に入ったペーパークリップ、定規と鋏、ボールペンと鉛筆があわせて半ダース、その程度のものだった」(265頁)

ボールペンと鉛筆は残しておいたのに、万年筆やインクは残されていないのである。ほとんど何も持たずに家出し、鉛筆やボールペンは置いていったのに、万年筆とインクだけはしっかりと持ち出したということである。主人公である元夫に手紙を書くために、万年筆とインクは大事に持ちだしたのだと解釈すべきであろう。(ただし便箋はわざわざ持ち出さなかった。主人公への手紙は、ありふれた便箋に書かれていたことを我々は知っている)。

残念ながらインクがカートリッジなのかインク瓶なのかは分からない。だが、インク瓶だとしたら随分重たいものを持ち出したのだということになり、(万年筆ファンとしては)感慨深い。カートリッジだとしたら、モンブランのカートリッジが適合する万年筆を使っていると推理を勧めることも出来る。。。。


ここで、主人公はどのような筆記具を用いているかということも、ちょっと振り返ってみよう。よく読み返してみると、主人公は妻の引き出しを調べてみる前に「自分の机の引き出し」(263頁)もチェックし、中身を整理し、多くのものを焼き払っているのだ。問題は、彼の机の中で見つかる筆記用具が「半ダースほどの使いかけのボールペンと鉛筆」だということなのだ。これでは彼の妻が残した筆記用具と同じではないか。しかも、それらは全て焼却してしまうのだから、ボールペンや鉛筆は愛着を覚えるほど大事な筆記用具ではないということになる。主人公は、万年筆を持っていないのか? 筆記用具を全部燃やしてしまって良いのか? とか考えを巡らしてしまう。弁護士事務所に勤めていた主人公が万年筆を持っていないはずがない。(当時は必需品ではなかっただろうか)。とすれば、万年筆のような大事な筆記用具はどこか別の場所に保管しているということになるのかもしれない。我々はここで行き詰まってしまう。要するに、主人公の行動と筆記道具について、著者は読者に対して情報を全面的に開示していないということを確認できる。

主人公と妻の万年筆はどこに行ったのか? またどのメーカーの万年筆なのか?謎が深まるなあということで今回はこれで終わりにする。

追伸 シャーペンがないのは不思議ですね。





私立中堅一貫校と私立中堅未満一貫校とを隔てるもの

2012年04月11日 | 英語学習

私達の塾は、かつては公立の中学生や私立の中継未満一貫校の生徒も受け入れていた。しかしどう頑張っても、ほとんどの生徒はある種の問題をクリアーする事ができなかった。数学では、たとえば、方程式の応用問題はまずは不可能だった。どうしても解かなければならないとしたら、一つの問題を丸暗記する事によって対処するしかなかった。

英語の場合は、幾ら勉強させても一般動詞と be動詞の区別ができない生徒ばかりであった。一般動詞を勉強すると be動詞を忘れてしまい、 be動詞を勉強すると一般動詞を忘れてしまう。そのため、 Are you speak English?とかHe a student.とか平気で書く。

私達は、文法的理屈とパターン練習によってこの問題を克服しようと努めた。いろいろな生徒に試みはしたのだが、この問題を教育的訓練によって克服できなかった。

中堅未満の私立一貫校の生徒もほぼ同様だった。経済的に余裕がある御家庭ばかりなので、一対一の授業も可能である。私達も、もう少し努力さえしてくれば克服できる壁だとは信じて頑張ったつもりだ。しかし、それでもダメだった。

英文には必ず動詞が一つだけ必要であること、そして、動詞には be動詞と一般動詞の二種類があってどちらか一つを選ばなくてはならないこと。たったこれだけのことであるが、絶望的な鉄の壁だったのだ。

ところが、私立の中堅レベルの一貫校の生徒たちに教えてみると、事情は一転する。絶望の鉄壁は完全に溶けてなくなってしまっていることを知ったのだ。徹底的なトレーニングなどしなくても、30分や1時間の授業で簡単に飲み込んでくれる。仮に間違ったとしても、「ちょっとどこか違うよね」と指摘するだけで、生徒が自分で間違いに気がついてくれるのだ。

後付けの理屈ではどうにでもなろう。しかし、分かる生徒はすぐに判る、分らない生徒はいつまでたっても分らない、これが私達の知っている現実である。だから、英語力を伸ばせると確信できる生徒にしか私達は教えないことにしたのである。と同時に、こういう問題を克服する取り組みがなされるべきだと強く願う。



追記

2014/06/03 検索でこの記事が上位に上がることが多いようです.

塾名称とHPを変えましたので、新情報を記載しておきます。


シリウス英語個別塾(by東大式個別ゼミ)


小田急江ノ島線・東林間駅徒歩3分(相模大野・中央林間駅から一駅)

私立中高一貫校生限定の完全マンツーマンの英語個別指導塾
2014年現在の在籍生は、浅野、暁星、慶應藤沢、攻玉社、相模原中等、湘白、渋渋、白百合、洗足、森村、山手、横雙など。在籍学園は小学校6年生から高校3年生までで、英語基礎から東大・早慶・薬学部・英検準一級受験生までそれぞれ頑張っています。


「文法訳読」再々考(その3)ー忘れられた子どもたち

2012年04月10日 | 英語学習
日本の英語教育論は上位進学校(私立の御三家や準御三家レベル)ないしは中堅進学校(準御三家の下のレベルの私学一貫校、および多くの県立トップ高校レベル)の生徒が前提であると前回述べてみた。こんなことは、皆さん分かっているはずだ。あえて明言しなかっただけのことである。

ただし、そういう暗黙の前提が存在するとしたら、少々残念な事がいくつか存在する。

(1)私立中学受験と民間教育機関(予備校・塾・家庭教師)を前提とした小学校英語教育論が展開されないのは何故か?

全人口のせいぜい5-10%を考慮すればよいのであれば、当然中学受験の英語受験科目化をもっと真剣に考えるべきではないだろうか。

私立中学受験では公教育とは無関係に小学生が受験勉強に励んでいるのだ。だとしたら、公立小学校の受け入れ体制などはお構いなく、小学生が本格的に英語を学びだすようにしたら良いかもしれないではないか。受験勉強のエネルギーで優秀な小学生が英語を学べば、スゴイ可能性が開けてくるではないか。なぜ、小学校英語教育を真剣に論じないのか。もちろん、これは小学校英語推進派にこそむしろ問いかけたいことだ。

私見ではこういう議論が盛んにならないのは、私学上位校出身のエリートは英語教育に携わらないからである。彼らのほとんどはは草の根レベルの教育にも携わらないし、大学で英語教育を教えることもないのだ。教育関係の議論で唯一の著名な例外は、ら・サール出身の寺脇研氏くらいのものだったではないか。とはいえ、全く議論が聞こえてこないのは何故なんだろう?




(2)教員養成系大学の大学教官が、公立中学の英語教師や「普通の」中高の英語学習者にあまり関心を持たないのは何故か?

東京の一流大学の教官と地方国立大学の教官の見解にたいした差がないというのは、本来は望ましいものではない。巨大都市の一流エリート大学の背負う利害と関心に対抗し、彼らのクライアント(?)である、公立中学校教師候補や公立中学校の生徒の利害をバックアップしても良いのではないのか? そうでないと、ローカル大学の教員養成教育学部でありながら、中産階級(アッパーミドル階級)、学力上位層、大都市エリートの子弟のための学問(教育学)へと偏向してしまうのではないのか。学問の発展に不可欠なのは知的な対抗関係なのだ。

もっとも教員養成系大学教官にも言い分はあるだろう。彼らだって一般大衆の教育問題に関わりすぎると、専門家としての地位と立場が危うくなるだろう。現にLD(学習障害児)の研究などは実質的に不可能である。また、都会の有名大学に移るチャンスがなくなってしまう恐れもあろう。

そもそも、英語の達人を生み出す教育方法を研究することの方が数段面白いだろう。なにしろ、そちらのほうが研究者の自分研究にもなるからだ。

しかし、やはり残念だという気がする。知的な対抗相手が、地方の教育現場から出てこないものだろうか。私自身は、もはや公立中学の勉強のできない生徒の教育に関わることはできないが、本当に残念だと言わざるを得ない。
 

(3)私立中堅一貫校のボーダーラインのの生徒が顧みられない現実

A文法訳読 は不要なのかというと、やっぱり違うと思う。というのは、中堅進学校と普通の学校とのボーダーライン上にいる生徒たちがたくさんいるからである。

中堅進学校と、それより下の学力の生徒というふうな分け方をしたが、実は正確な分け方ではないのだ。というのは、私立中堅一貫校(たとえばT学園とかT学園のことです)の中には、中堅進学高校レベル(たとえば昔の県立相模大野高校)に進学できそうな生徒もいれば、進学高校には到底進学できそうもないと思われる生徒が混在している。

ボーダーライン私学一貫校の場合、丁寧な教育をすれば良いとは思う。だが、残念ながらそういう学校は少ない。むしろ「お買い得」な学校という定評を作るために、大半の生徒を犠牲にする教育をする。Treasure、Birdland、Progress21を使うかどうかで、すぐに判別できる。(ちなみに県立相模原中等学校はProgress21を利用しているそうだ。とても悲しいですね!)つまり、A文法訳読 によって、救われる生徒もたくさんいると思うのだ。

A文法訳読 なんか考えなくて良いという論者は、おそらくは県立進学高校で、「中堅」私学の悲惨な実態に疎いのではないかと想像しますが、どうなのでしょうか?

最後に一言付け加える。、私立中堅未満一貫校の場合は、文法訳読教育が有効か否かも怪しいようだ。be動詞と一般動詞の区別がどうしてもできないレベルの生徒が集まっているようだからだ。民間教育の企業秘密かもしれないが・・・。

「文法訳読」再々考(その2)―大学教員と「英語教育論」

2012年04月10日 | 英語学習
日本の英語入門者を対象とする英文訳読指導に対しては、「文法訳読」という言葉を用いることが出来ないらしいと、先日書いた。そして、こういう事態をどのように受け止めればよいのか。

そこで、以前取り上げた大津先生(慶應大学)が北海道新聞に寄稿した、文法訳読式教育擁護論を今一度読み直してみた。

いくつか興味深いことが分かる。まず、ここで論じられている文法訳読なるものは、「ある程度、複雑な構造を持った文や文章を使っての演習」と述べていることだ。(赤線でラインを引いた部分を参照のこと)。つまり、江利川先生が紹介した「文法訳読」の概念と、大津先生の見解は見事に一致しているのだ。つまり、先日の表現でいえば、「文法訳読」とはB文法訳読なのだ。

だが、私の注目するのは、少し別の箇所である。大津教授が「英語が使える日本人」という概念について肯定的に受け入れている点なのだ。「英語が使える日本人」というスローガンは、彼の論敵であるコミュニケーション英語教育派の掲げている教育理念ではないか。つまり、実用コミュニケーション的教育には反対であっても、「英語が使える日本人」という理念については土俵と見解を共有しているということだ。これは、しっかりとおさえておく必要がある。

さて、ここで思い出してもらいたいのは、普通の中高生に英語を教えたことのある者ならば誰でも知っている事実である。そう、日本の中高生の大半は「英語が使える日本人」の候補生どころではないということだ。むしろ、英語を学ぶことになんの意味があるのか不思議に思えるような者たちがかなりの生徒の現状であるということだ。真に誠実な教育者であれば、己(英語教育者)や己の仕事(英語教育)にそもそもまともな存在理由があるのかすら疑わしく思えてくるはずである。(教師本人は自覚は出来ていないが、やはりどこかで分かっていて鬱病になって入院するケースもあるらしい)。

露骨に言ってしまえば、「英語が使える日本人」にしてあげたいなと英語教師が本気で願うことができる生徒というのは、上位私立校や中堅進学校(有名私立一貫校や、県立の上位高)のトップクラスにしか生息しない。少なく見積もって同学年生徒全体の5%未満、かなり多く見積もっても20%未満だけが、「英語が使える日本人」の候補生だといえるだろう。(私の感覚すると、「ある程度英語を使える日本人」の候補は5-10%未満じゃないだろうか)

日本の英語教育論というのは、実用コミュニケーション的教育派だろうと文法訳読派だろうと、あるいは、小学校英語推進派だろうと小学校英語否定派だろうと、中~上位進学校(高校入試でいえば、標準的な模試で偏差値65以上くらいが中の進学校が中堅進学校といえるだろう)の生徒たちをどのように育て上げるかが議論の焦点であると考えるべきなのではないか。そして、大津先生も江利川先生も、実は中上位進学校の生徒に限定して英語教育論を展開していたのだ。またそうでなければ、伊藤和夫(伝説の駿台予備校講師)の英語教育論が彼らに評価され論じられるわけがないではないか。

こう考えると、すべてストンと納得が出来る。中上位進学校の生徒であれば、思想的科学的文学的含意のある複雑な英文を読む準備ができている。また、A文法訳読(≠「(本物の)文法訳読」)の諸課題、たとえば、whose pen が「誰のペン」でwhose が「誰のモノ」であると訳し分けさせる必要なども、あまり感じられない。A文法訳読などは論じるに値しないかも知れないというものだ。

日本の英語教育論が中上位進学校生徒の教育を暗黙の前提にしてしまうとしても、我々は驚くことはない。ある意味で当たり前のことではないか。教師というのは、自分が教える生徒は自分の分身であって欲しいからだ。英語教育論を論じる英語教師というのは、かつては中上位の高校で学び一流有名大学卒業しているはずだ。彼らは生徒にもある程度以上の高学力を期待する。自分の中高生時代を振り返り、中高生のときにどのような教育をしてもらいたかったのか考える。

教師がうまく教育の仕事をこなせるのは、完全に異文化に属する他者としての生徒に対するときではない。むしろ、自分の分身である後輩たちに教えるときなのだ。私の塾でも中堅校以上の生徒に限定するようになったのも、やはり、そういう事情がある。

「文法訳読」再々考(その1)―大学教員と「英語教育論」

2012年04月03日 | 英語学習
すこし前、「文法訳読(教育)」という言葉には二つのイメージがあると書いた。今あらためてもう一度書いてみると、こんなふうになる。

A
 英語入門者の文法教育のために用いるべきアプローチ。英文は原則的に単文で、それを正確に和訳することが求められる。和訳は翻訳ではなく、直訳を基本とする。なぜならば、英文を英文法に即して正確に理解することが求められているからだ。また、その和訳を用いて英訳する場合が多いので、英訳しやすいような直訳的日本語が望ましいとも言える。ここでの中心課題は、いわゆる五文型や主語、動詞、目的語、補語を理解したり、動詞、名詞(名詞節、名詞句)、形容詞(形容詞句、形容詞節)、副詞(副詞句、副詞節)、代名詞といった品詞概念を徹底することである。

B ややレベルの高い水準の英語学習者(英語中級者)を対象とする教育手法で、英文を一つ一つ丁寧に和訳させながら読解させようとするものである。このとき用いられる英文は、複数の文章から構成されるのが原則であり、ある程度まとまった知的思想的な深みのある題材がとりあげられる。古典的教材としては原仙作の『英標』(私は『英標』を用いた最後の世代だと思う)、文法訳読式の伝統の風格のある入試問題としては京都大学のものが想記されるだろう。逆に、センター試験の英文ではBの題材として相応しくなく、最低限、私大および国公立2次試験の英文がBの範疇に当てはまると考えられるだろう。

さて、私が重要であると考えているのは、Aの「文法訳読」のイメージだった。そしてこの観点から、Birldlandの問題集は非常に好ましくないと批判した。ところが、さきほど江利川先生(和歌山大学)のブログを見てみると、驚くべき事を発見してしまったのである。どうやらAの教育手法は、実は「文法訳読」とは呼ばないらしいのである。一部引用してみよう。

ヨーロッパでルネッサンスの時代(14~16世紀)から19世紀までの約500年にわたって支配的だったGrammar-translation Method(GTM方式)と,「文法・訳読式教授法」とは区別して扱う必要があることだ。

西洋のG-TMは,相互に意味的なつながりのない短文を翻訳することによって「文法を習得する」ことを主眼にしていた。これに対して,日本化されたG-TMである文法・訳読式教授法では,意味的につながりのある長めのテキストの読解を通じて「意味内容を理解する」ことを重視してきた。


やや意外であるが、ここまではっきり指摘されてしまったのである。私としても、Bは「文法訳読」であるが、Aは「文法訳読」ではないと言わざるを得ない。

では、仮にAの方式がGrammar-Translation Method(GTM方式)なのかと問われたとしたら、どうだろうか? Yesと言いたいような気もする。だが、江利川先生らの文章を読む限りはそういう雰囲気は全然伝わってこない。また、「このペンは誰のモノですか」みたいな和訳をする訓練と、中世の学生たちのラテン語の学習とは全くかけ離れた世界に思えるのだ。

とすれば、A型「文法訳読」は、公の名前を持っていないということになる。公認されていない教育方法は、存在しないも同然ではないか。私は大学の学者たちの作る学界の動向には無縁だったので、そういうことを知らずにブログに書いていたのである。私はどう考えればよいのか?


このブログで一番人気の記事は何故か姫路西高ですが、姫路西の母子の話がニュースなのでとりあげます。

2012年04月01日 | 受験
ちょっと面白いニュースです。「姫路市書写の塾講師、安政真弓さん(50)がこの春、かつて挑んだ東京大学を受験し、文科3類に合格した」とのことです。私の後輩ですね(笑)。

ご本人、そして息子さんも、姫路西高出身だそうです。息子さんは残念な結果だったようなのですが、とりあえず、おめでとうございます。


しかし、私としては、それで終わりにしたくありません。実はちょっと気になるのが「書写」という地名です。どの辺だかはっきりとは覚えていませんが、書写山の近くであることは確かでしょう。子どもの頃、なんどかロープウェイに乗ったことを覚えています。同時に自転車で何度も近くへ行った記憶が有ります。がたがたの坂道を自転車で駆け下り、しっかりとハンドルを握っていたので転倒せずに助かったというスリル満点の記憶があるのですが、たしか書写山の帰り道だったような。。。


追伸

今年の週刊誌の東大合格者欄には、姫路西高のところに安政さんのお名前がでているのでしょうか? なんかスゴイですね(笑)