だれが選んだの?甲斐八珍果(その2)

2021-06-21 10:57:19 | 紹介
信玄ミュージアム内、昭和初期の料亭旅館の庭に立つザクロ。


今、市場に出回るザクロの大半は輸入品なのに、
全国で、小規模ながらも、数少ない実ザクロの産地のひとつに甲府が入っている、そのワケを知りたくて。
そうしたら、ザクロは江戸時代には、「甲斐八珍果」のひとつに数えられ、
商品作物としての栽培が推奨されていたことがわかりました。
※「甲斐八珍果」はブドウ、ナシ、モモ、カキ、クリ、リンゴ、ザクロ、クルミまたはギンナンです。

甲斐国は、お米の収穫アップが難しい土地柄。
でも、傾斜地が多いことも、降水量が少ないことも、日照時間が長いことも、昼夜の寒暖差が大きいということも、
裏を返せば、果実栽培にはうってつけ。
奈良時代、クルミは献上品であり、平安時代の文献には「ナシは甲斐国の名産品」・・といった記述も残されています。
江戸時代に入り、こうした果物が商品作物として栽培され、甲州道中を通って、江戸に運ばれました。
一回に運搬できる量に限りがあり、しかも、運ぶのに気を使う果物ですので、どのくらいの規模の商取引になり得ていたのか・・。
ただ、少なくともブドウは、それなりの高値で売買され、土地の経済発展に貢献したと言えそうです。

この「甲州八珍果」の生みの親はどなたなのでしょう。
諸説あるようなのですが、こちらでは、候補者3名様をご紹介いたします。 

お1人目は、甲府城の築城に関わった浅野長政さま(1547-1611)
文禄2年(1593)より、朝鮮出兵中に亡くなった加藤光泰の跡を継いで、甲府拝領。
とは言え、豊臣政権の五奉行のおひとり。多忙ゆえに、国の実質統治は息子の幸長が行いました。
浅野氏は、それぞれの地域に国奉行を置き、統治体制を整えます。
また、太閤検地や、甲府上水の整備も浅野氏の下で行われたようです。

お2人目は、旧武田家家臣の家に生まれた柳沢吉保さま(1659-1714)
と言えば、第5代将軍徳川綱吉の下、大老格にまでなった方。
甲斐国を拝領されますが、忙し過ぎますね。実質的な統治は、家臣が行いました。
しかし、信玄公の百三十三回忌を恵林寺(甲州市)で行ったり、
城下町、用水路などの整備に加え、甲州金の一種「新甲金」を鋳造したり、さらにさらに実質的な減税も認めたとか。
墓所も、信玄公の菩提寺の恵林寺にあって、何から何まで甲斐びいき!?

最後のおひとりは、1805年、難しい時期に甲府赴任となったお代官、小島蕉園さま(1771-1826)
難しい時期・・とは、1792年に発生した太枡騒動、百姓一揆。
当時、お百姓の強訴は禁じられていたため、とても厳しい処罰が下されました。
そのあとの赴任ですから💦
とは言え、この方は孝行の大切さを説きまわり、砂混じりの土壌に合う(!)と甘草の栽培を勧めたり。
なかなか印象深いお代官だったのかもしれません。

実際に、果樹栽培を後押ししたり、八珍果を選定したかどうか・・?
本当のところはわかりません。でも、「甲斐のために力を尽くしてくれた人なんだ!」と、
記録には残らずとも、人々の記憶に残されたお三方・・ということは間違いなさそう。

甲府をぶらりと、通りがかりの庭に目を向けたら、
ザクロの花が咲いていた、なんてこともあるかもしれません。
甲府では、それもまた土地の歴史の現れ。
もちろん、当館では、ザクロだけではなく、
昭和生まれであろうとなかろうと、なんだか懐かしい気持ちになれる料亭旅館・旧堀田古城園もお待ちしております。
和めますので・・、ちょっとした気分転換に、よろしければお立ち寄りください。
ひし形のお茶室と、お昼寝する猫。最近、会ってません。

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