信玄公の朱印が「龍」なワケ(その2)

2020-11-27 15:42:56 | 紹介
少し間が空いてしまいましたが、前回の続きです。

信玄公の使った朱印のモチーフは「龍」✨
想像上の生き物である「龍」の起源は恐竜にあり(!?)という説もありますが、
その真偽ともかく、日本で育まれた「龍」とは?
そして、信玄公にとっての「龍」とはどのようなものだったのでしょう。

多くの文明・文化圏でも見られるようですが、
日本でも「蛇」が脱皮する生き物であることから、そこに「生と死の象徴」を見出し、
それが「五穀豊穣」への祈りとなり、稲作などに不可欠な水神信仰に発展したようです。
灌漑が発達する前、干ばつとなれば雨乞いをしていけにえを捧げたようですが、
水を司る神と対をなすように、「古事記」や「日本書紀」に登場するヤマタノオロチのような大蛇は
洪水の化身と解釈されています。
そうして、日本古来の蛇神・水神信仰に、中国伝来の「龍」が合流。
中国の龍は、水中か地中に住み、自在に飛翔して雷雲、嵐、竜巻などを呼ぶといわれ、
皇帝のシンボルでもありました。
加えて中国の龍には、インドの蛇神・ナーガを起源とした、仏教の守護神・竜王も組み込まれていて・・・となると、
龍の解釈、一筋縄ではいきません💦

実際、日本の龍は、これらの要素がぎゅっと凝縮したもの、というより、
それぞれのイメージ、超自然な神性が共存しているような気がします。
例えば、寺院に描かれている龍は仏教の守護神であったり、水神に対する火災除け祈願であったり。
徳川家康を祀る日光東照宮の有名な「龍」の彫刻は、家光が辰年だったこともあったようですが、
「龍」を通して、徳川政権という”王国”の権力をシンボル化したものとも言われています。

ちなみに、織田信長の場合、「天下布武」の楕円の朱印がよく知られていますが、
朝廷の官位を辞し、安土城の完成以降、主に公家や寺社に対して、
「天下布武」に龍のデザインをあしらった朱印を使うようになったようです。
「龍」は信長その人であり、「天皇を従えた皇帝」という自身の目指す姿が推測されるとか。

信玄も、果たして天下を目指したのでしょうか。
これもまた、はっきりとはわかっていないようですが、
その朱印の「龍」に、信長同様、天下を統一した自分の姿を重ねた可能性もなくもない!?

信玄の龍朱印 こちらは2代目!

最後に、信玄の因縁のライバル、上杉謙信。川中島合戦で名高い「龍虎対決」。
「かかれっ!」の合図に「懸かり乱れ龍」の旗を使った謙信が「越後の龍」なら、
信玄は「甲斐の虎」。
でも、謙信の元の名に「虎」が使われていたことから、「越後の虎」に「甲斐の龍」となることも。
ちなみにこちらの表現も、「信玄堤」と同じく、江戸時代以降のものです。
なんだか混乱しますが、陰と陽の考えでは、「龍虎」はどちらが勝った負けたというよりも、
互いに一歩も引けをとらない強者のエネルギーが一体化、調和する姿という考えもあるようです。

さらに、信玄と父・信虎も「龍虎」ととらえれば、そこにはお家発展を共に目指す姿!?
信虎追放は、「今川家の内情を探るための、親子同意の追放(!?)」説も真実味がわいてくる!?
だからこそ、「虎」朱印に、「龍」朱印!?

ちょっと考えすぎですかね😨
最後までお読みいただきありがとうございました。
でも、あともう少しだけ💦


左列が信虎の朱印、中央の列が信玄の龍朱印、左列が勝頼の朱印
勝頼は、龍朱印も受け継いで使っていました。 「甲斐国志」より

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