信玄公、最期の出陣ラスト

2023-05-22 17:08:37 | 紹介
とうとう14日放送回で、信玄公が亡くなられてしまいました。
病没と言われ、『甲陽軍鑑』では「膈」(かく)だったと記述されています。
「膈」とは、食事が取れなくなり、吐き戻したりすることある病気で、今の胃がんに当たる病気です。
また、家臣の御宿友綱が小山田信茂に宛てた書状の中では、「肺肝」(はいかん)だったと
記されています。
「肺肝」とは結核のことではないか、と言われています。
病名もどちらが正しいのかわかりませんが、このほかにも狙撃による負傷説もあり、
死因も断定が難しいところです。

『甲陽軍鑑』によるば、いくつかの遺言も遺されたようで、その中には有名な話ですが、
死を3年隠すことなどが記録されています。
ほかにも、家督は勝頼の息子の信勝が元服したら譲ることや、風林火山で有名な孫子の旗は
勝頼の使用を認めない、諏訪法性兜も信勝に譲ることなどもありました。
今回の大河ドラマでは、勝頼役の前田さんも獅子頭で赤毛の諏訪法性兜?
らしき兜を着用されていましたので、あれっ?という感じでしたが、武田家といえば
諏訪法性兜がシンボルなのでしょうね。
3年死を隠すことは、実際に生前に花押を書いて死後あたかも生きているように出すよう準備し、
実際に勝頼が使用していたことも明らかですので、すべて正しいとは言いませんが、
ある程度信憑性がある内容なのだと思います。

ちなみにですが、信玄ミュージアムではたまに信玄公の遺体は、三河遠征の帰路で
諏訪湖に埋葬されたのですか?
とお尋ねになる方がいらっしゃいました。
確かに遺言の一つではあるのですが、それには続きがありまして、
「諏訪のうみへしづめ申事ばかりは不仕」
諏訪湖には沈めなかったとありまして、遺体は甲府にお戻りになり、死後3年が経って
菩提寺である恵林寺で葬儀が執り行われています。
諏訪湖、諏訪大社は信玄公にとっては大切な存在だったのでしょう。
死を隠すことも国を守るための処置であり、自らの遺体を諏訪湖に沈めることで、
諏訪の神様と一体となって武田領を護ろうとしたのでしょうか。


いずれにしても、武田軍は奥三河から信濃路を経由して甲府に戻りました。
信玄公の死によって、その恩恵を被ったのは間違いなく徳川家康であり、絶体絶命の危機を脱し、
命脈を保ったことによって、後の天下取りにつながることになりました。
歴史に「もし、信玄公が生きていたら」はありませんが、本当に病気で志半ばで亡くならなければ、
徳川領は武田領に吸収されていたでしょうし、家康の生死もどうなっていたかわかりません。
とはいえ、信玄公による最期の遠征が後世に与えた影響は大きく、三方ヶ原での大勝がなければ
徳川の世で信玄公が神君となった家康のように神格化され、
評価されることもなかったかもしれませんし、現代まで語り継がれ、
全国的に名を馳せていたか定かではありません。

現在、信玄ミュージアムでは信玄公没後450年企画展「戦国大名武田信玄の遺産」を開催中です。
7月31日までは、前・後期で「ゆかりの品々から語る武田信玄」の展示をしています。
前期展は、6月12日(月)までとなっています。
甲斐善光寺様からお借りした寺外初公開の木造武田信玄公像ほかもお見逃しなく。

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