茶の湯にみる、信玄公のおもてなし(その1)

2022-01-15 09:25:49 | 紹介
信玄公生誕500年記念として開催中の「遺産から語る武田信玄」
現在、信玄公のくらし、をテーマに茶の湯に関わる資料を中心に展示中です。

戦国の茶の湯と聞いて、どんなイメージが浮かびますか。
茶の湯と言えば、千利休が大成したわび茶でしょうか。
刀は置いて、にじり口から茶室に、それこそにじり入る。
狭い茶室では、敵も味方もない、ただただ茶の師が点てたお茶をいただく。

信玄公もまた、茶室の小さなにじり口を前に、身をかがめたのでしょうか!?
千利休が、織田信長の茶堂として召し抱えられたのが永禄12年(1569)。
信玄公がお亡くなりなったのが元亀4年(1573)。
信玄公と茶の湯との関係を記したものは、残念ながらほとんど見つかっていません。

でも、大泉寺(信虎公菩提寺・甲府市)に信玄公が寄進したという、
特別展で現在公開中の愛用の疣麿茶臼が遺されていたり、
武田氏館跡からは、茶臼や天目茶碗(和物)、姫の井戸からは茶釜も
出土していることから、信玄公もお茶を嗜んだことは確か。
いずれにしても、信玄公の親しんだ茶は、
わび茶や信長の推し進めた御茶湯御政道の時代よりも、もう少し前のスタイルだったかもしれません。

城下町からも同じように茶の湯に関わる出土品が見られることから、
甲府の人々の間にもある程度は広まっていたのは間違いないと思われます。

天目茶碗(和物)(特別展示室に手、常時展示中)
武田氏館城下町、伝・武田典厩信繁(信玄公の弟)屋敷跡より出土

茶は、栄西禅師が中国から薬として持ち帰ったことは良く知られていますが、
カフェインによる覚醒作用もあって、禅の思想を含んだ宗教的修行では、
睡魔と邪気を取ってくれる(!)として必需品に。
この茶の湯が、殺生を生業とする武家の生活習慣や美意識と通じ合うものがあったのでしょう。
室町時代前期には、茶を飲む習慣が生まれ、
甲斐国にご縁も深い夢窓疎石の禅の庭とセットになって、独自に発展していくのです。

茶の湯の場が茶室になるのは戦国時代も終わりのころ、16世紀末以降で、
それ以前は、室町期成立の寄り合いの場で茶が飲まれました。

儀式に続く饗宴や、連歌会などインドアな遊びのための、
貴賤同座が許された「会所」、「本主殿」などと呼ばれた空間がそれで、
室内は、輸入品や骨とう品を中心に、言わば権威を示す威信財が、作法に則り飾られました。


唐物などの茶道具をいかに飾るか。
「茶湯棚飾」の教科書は、↑の「君台観左右帳記」、足利義政が収集した茶道具の目録です。

格式や格調を重んじる、こうした武家や貴族の茶は「殿中の茶」と呼ばれ、
茶は宴会の始まりと会席料理の終わりに点てられました。
また「闘茶」といって、豪華賞品付きの茶葉の産地当てゲームもあって。
当時の茶葉の主な産地は、仁和寺、醍醐、葉室、般若寺など。
中でも栂尾、その後は宇治が最高級。「闘茶」とはこの最高級品の当てっこで、
味、香り共に茶に精通していなければ、とても答えられそうにない難問ですが、
全体を見れば、茶の「道」の探求というよりも、「サロン」的性格が強い印象です。

・・・
こうした「殿中の茶」とは別に、16世紀初めごろ、主に地方で流行した、
「もう一つの茶の湯」があったのようなのです。

あともう少し続きます。
お付き合いいただけますと幸いです🙇

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