戦国のスポーツ(その2)そして本日は三条夫人のご命日

2021-07-28 17:51:27 | 紹介
信玄公ご生誕500年まで、あと100日を迎えた7月は、東京オリンピックの開催月。

それにちなんで、信玄公もたしなんだ(?)スポーツ、蹴鞠の話を。

蹴鞠では・・・
鹿革で作った鞠を、8人か6人で一定の高さで蹴り続け、その回数を競います。
四隅に木を植えた、鞠掛と呼ばれる広場で、
「アリ」「ヤア」「オウ」などと、サル🐒の姿をした鞠の精霊の名を呼び、
膝を伸ばしたまま(!)、右足の親指の付け根(!)で鞠を蹴り上げます。
鞠の大きさは直径20センチ、重さは120グラムほどで、中は空洞。
中国では、中に羽を入れたり、動物の膀胱に空気を入れるなどして、鞠が跳ねるように工夫していたようです。

ちなみに、理想的な蹴りは、蹴った時の「音」が良く、
その時の鞠の回転「色」が美しく、鞠の高さは約4.5m。
また、次の人が蹴りやすいように蹴っていく配慮も大切にされます。

仏教と共に中国から伝来した蹴鞠。
中国においては、雨乞いの儀式や軍事訓練との関連性が言われるようですが、
日本は日本で、蹴鞠を独自に発展させていきます。

平安後期の公卿で、蹴鞠の「無双達者」と称された藤原頼輔(1112-1186)は、
その「蹴鞠口伝集」で、鞠を蹴り続けるためには、身体のみならず心の構えも必要であると説きました。
蹴鞠に勝ち負けはなく、あくまでも相手に合わせて蹴り上げる。
この調和の精神こそが、蹴鞠を蹴鞠「道」にしているのかもしれません。
戦国の世にはマッチしないようにも思えますが、
武士のたしなみとされてきた和歌、茶の湯、舞などを考えれば、
蹴鞠がその一つとされたのもうなずけます。

・・・
信玄公と言えば、兵法に通じた戦上手というイメージ。
けれども、「甲陽軍鑑」には、19才で漢詩を嗜む、以上に”ど”はまり(!?)し、
家臣にたしなめられたという逸話もあったり。
もちろん和歌も大好きで、後奈良天皇の勅使が甲府にいらした時には、
詰城・要害城のふもと、積翠寺にお迎えし、和漢連句の会を催しました。

もしかして、とってもインドア派だったかもしれませんが、
信玄公も、蹴鞠で心身の鍛錬にいそしむ時があったのかも・・・しれません。
そんな時は、奥方さまや、姫さまたちも同席し、声援を送っていた・・・のかも?
テレビドラマの見すぎ!?

・・・
本日、7月28日は、信玄公の継室、三条夫人(1521?-1570)のご命日。
摂関家に次ぐ家柄、三条家出身。
実の妹は本願寺の顕如に嫁ぎ、本願寺と武田家の同盟にも尽力したといわれています。
信玄公との間に3男2女をもうけるも、
幼いころに失明したという竜芳、穴山信君(のぶただ)に嫁いだ見性院をのぞいた3人は
母である三条夫人よりも早く亡くなります。
そんな夫人を支えたものは、なんだったのでしょうか・・。

三条夫人ゆかりの品と伝えられる打敷(※1)市指定文化財、円光院所蔵
(※1)打敷(うちしき)とは、人々が浄土を想起できるように仏壇を飾る荘厳具(しょうごんぐ)の一つ。
写真の打敷は、装束の残存部分を縫い合わせ、大きな菊の刺繍をほどこしたもの。

三条夫人の菩提寺である円光院はこちら⇩

武田氏館跡から徒歩12、13分、車ならあっという間の3分です。

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