武田氏館跡で新緑散歩🍃(つづき)

2020-04-22 15:09:40 | 紹介
現在の武田神社
武田信玄の館跡は
新緑🍃を楽しむには
うってつけの場所のひとつ。


武田氏館跡は
土塁と堀で囲まれた「曲輪」(くるわ)
8つで構成されています。

南側の堀

その中のひとつが
武田神社の西側にある
西曲輪。
武田信玄の嫡男・義信と
今川義元の娘との婚儀が調った時に
新居として増設されました。

義信は
足利将軍と清和源氏の通字「義」と
武田家当主に受け継がれる「信」を名に持つ
疑うべくもない武田家の跡取り。
「甲陽軍鑑」によれば
義信は武功にも優れていたようです。

その運命をガラリと変えてしまったのが
永禄7年(1564年)の信玄暗殺計画
いわゆる「義信事件」。
暗殺は計画が事前に漏えいしたため
未遂に終わります。
その中心となっていたのは
義信ではなく、
その守役の飯富虎昌だったとか。
武田軍の赤揃えを率い
信玄の信任も厚く、
ゆえに義信の守役も務めた武将でしたが、
この事件により、切腹。
翌年、
義信は東光寺(甲府市)に幽閉され、
その2年後自害します。
享年30歳。

当初、
信玄は、義信の命まで
奪うつもりはなかったようです。
それでも、このような結末になったのには
いかんともしがたい
戦国大名家ゆえの理由があったとされています。

まず、武田家の外交戦略の方針の転換。
桶狭間の戦いで失速した
今川氏の領国、駿河への侵攻策。
義信の正室は桶狭間で命を落とした
今川義元の娘。
奥さんの実家を攻めるというのは・・・。
また、四男の勝頼を高遠城主としたことや
川中島合戦がらみでも
父である信玄に
不満をもっていたと言われています。
暗殺計画に関わる(?)ほどの
事情が他にもあったのでしょうか。

そんな理由で
父親の暗殺計画!?
どんな理由があれ
息子を死に追いやっちゃうの!?
現代では考えられないことですが
時代は戦国時代。
当の信玄も、父である信虎を追放しています。
その他にも、一筋縄ではいかない親と子の関係は
歴史上、多く散見されるところ。

単なる親子の不仲で終われないのは、
家臣たちの派閥問題までも絡んだからでしょうか。
武田氏ほどの大名家であれば
無視できない問題だったことは
想像に難くなく。
加えて、
今川氏との関係が良好で得する人もいれば
損する人もいたと考えれば・・・
単なる派閥問題で済みそうにありません。
そんな複雑な状況が
義信を追い詰めた・・のでしょうか!?

義信の死後、
信玄は家臣たちに
信玄への忠誠を誓わせる起請文を書かせ
生島足島神社(現在の長野県上田市)に奉納していますが、
「義信事件」が
武田家や家臣たちにいかに大きな動揺を与えたかを
この起請文奉納が物語っているように思えます。

その後、
西曲輪がどのように使われたか
はっきりしたことはわかりません。
それでも、館が廃城になるまで
この曲輪の増強は
他の曲輪同様、続きます。

西曲輪の虎口跡



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