いけばな&日本古流・歴史探訪(その5)〜甲府で生まれた「日本古流」〜

2022-03-02 09:45:00 | 紹介
いけばなの歴史を追って、とうとう甲府生まれの「日本古流」にたどり着きました。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました🙇

江戸時代後期には「乱立」と言われるほどに、さまざまな流派が誕生したいけばな界。
明治の文明開花で、一時は衰退を余儀なくされるも、理論などを含めいけばなのあり方を見直す機会に。
その甲斐もあり、その後、日本の伝統文化として認められ、勢いを回復。

その中で生まれたのが「日本古流」でした。

・・・
「野に山に 道も変わらぬ 世の中に 一夜に変わる 我が屋敷かな」

これは、日本古流の創始者、角田一忠が、自宅の火事ですべてを失った時、父に詠んだ歌。

一忠は明治17年(1884)、群馬県生まれ。
生家は農業のかたわら蚕糸機業を営んでいました。
父の計らいにより、9才から正風遠州流(※1)の松雲斎一里に入門、華道を始めました。
わずか9才の男の子・・・少々驚きますが、父の万作は政治と科学を趣味(!)として、
いけばなの美の神髄を数学的、幾何学的に研究。その記録は、現在も「秘録」といいますから。
単なるお稽古事ではなかったと思われます。
松雲斎門下で7年学び、師が亡くなると、青山御流(せいざんごりゅう)(※2)の晴月園師に付きますが、
若くして華道の奥義に達するほどに、才能に恵まれていたと言われています。

(※1)わび・さびの持つ美にこだわらず、人為的に計算された美、均整のとれた美の生む
「綺麗さび」とよばれる、大名であり茶人・小堀遠州(1579−1647)の美意識を、
そのまま花の姿に表現することを目指した。
(※2)天皇の側近・園基氏(そのもとうじ)(1210−1282)を祖とする。
宮中行事、祭事、作法の精神を花形とすることを目指した。
諸公卿に至るまで華道を教授すべしとの命を受け、
後花園天皇(1419-1471)より、「青山(せいざん)」の名を賜る。

しかし火事にみまわれ、茶花の相伝書がすべて灰に。
その衝撃、ショックを表現したのが「野に山に〜」の歌でした。

「わがものと 思う器物は 借りものの 焼いた過ち 世の人に 謝せ」

この↑父の返歌を受けて詠んだ歌が・・・

「今日よりは 身の過ちを 謝するため 浮世にい出て 墨染を着む」

郷里を去り、青山御流の師に会うべく八王子を訪れますが、師はすでにそこにおず、
一忠は転々流遊の旅を続け、静岡に。
そこで石州流華道の家元に就きますが、
その際手にしたのが、甲斐古流の俳人・山口素堂(1642−1716)が遺した書。
ここに何か気づき、悟りがあったのでしょう。遺蹟を求めて、明治30年(1897)、いよいよ甲府へ。
そこで、江戸千家を創始した茶人、川上不白の高弟で表千家の大家に見出され、
その薦めで、明治33年(1900)、甲斐古流を再興するに至ります。
     
「善しとほめ、悪しといさめて 難波江の 学びの海に 問い交わすため」

この心境を理念に、門下を指導、自身もさらなる研鑽を積んで、草木自然の理を極めんとしました。

大正3年(1914)、大正博覧会をきっかけに東京に進出、甲斐古流から、現在の「日本古流」へと名を改めます。

そして、こちら↓が日本古流、一世家元角田一忠が、華道修養の末に到達した境地です・・・。
「いけばなは 偽りなきを 道として 己が心を 映すものなり」

昭和に入ると、さらに花木や草木を素材として個性的な装飾美を表現させ、
いわゆる新興いけばな、前衛いけばなといわれる流派も登場します。
今日、いけばなの家元も伝統的な権威の維持から、近代的な組織に。
流派の数も明治初年の50前後から1000流派以上を超えているとか・・・。

・・・
「日本古流」が甲府で再興されて120周年。
それを記念するいけばな展が今週末に予定されていましたが、
信玄ミュージアム臨時休館延長により、延期となりました。
すべては感染拡大の状況次第ではありますが、、、
予定につきましては、改めてお知らせいたします。



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