戦国の館に稲荷(その1)

2021-06-09 15:20:51 | 紹介
きっと皆さまお住まいの地域にもいらっしゃる、お稲荷さん。
この稲荷神を主祭神とする神社は全国に2970社。
境内に分祀されているものも数に含めれば32000社。
さらに個人や企業の屋敷神も入れれば、もう膨大。

武田神社の建つ、武田氏館跡・主郭の北側にも、お稲荷さんはお祀りされています。

広さは東西に20m、南北に15mほどの稲荷曲輪

信玄公の父、信虎公が、今の武田神社の場所に、躑躅が崎館を建てられた時、
石和の館に祀られていた甲斐源氏の守護神も遷座されました。
その後、天正3年(1575)、館の西南に再建。
天正10年(1582)、織田信長による甲州征伐やその後の本能寺の変により、
甲斐、信濃、上野は統治不在で、混乱。
そのさなか、神社の社殿も大破されてしまったようです。

そして、文禄3年(1594)、甲斐の新たな拠点として築かれた甲府城築城に伴い、
城の鎮守と甲府の北部一帯の氏神として、現在の場所に(甲府市美咲町)。

御崎神社の情報はこちら。

でも、館に残された社跡はどうなったのでしょう。
それが今の稲荷曲輪・・と、言いたいところですが、
あまり確かなことはわかっていないんです。

遷座されたのが御崎神社だったのか、稲荷神社だったのかも。

社が建てられた場所が、現在の稲荷曲輪だったのか。
それとも、お館さまがいらした曲輪の西側にあったのかも。

実は、その西曲輪の南に、鳥居らしきものの一部が発掘されているんです。
ただ、それ以外に、西曲輪造成前、そこに社があったと推測できるものは見つかっておらず、
場所の特定は、乞うご期待!?

・・・
問題のお稲荷さんですが、身近なのに、その実像は意外と漠然💦
で、調べてみると、驚くなかれ、とってもオールマイティな神さまでした!
もともとは、稲から出発して、「伊禰奈利」(いねなり)→「稲成り」→稲を背負う姿から「稲荷り」(いなり)。
稲、稲作から発展して、農耕、五穀豊穣をお守りくださる神さまに。

また、稲作では、一粒のお米をまけば、半年後には数百粒の実りが得られ、数百倍の増収!
だからでしょうか。稲作の神さま→生業の神さま→産業全体の神さま→商売繁盛の神さまに。

さらに、稲の「実り」のイメージをコアにして、
諸願成就、万病平癒、安産、学業成就、家内安全。なんでもござれ。

ところで、稲荷神って、どんなお姿なんでしょう。
お稲荷さんと言えばキツネで、そういう像もあるようですが、本来的には=キツネではないようです。
各地の稲荷神を見てみると、七福神😊 な雰囲気のお姿もあれば、鎧をまとうお姿も。
全国の稲荷神社の総本宮、伏見稲荷(京都市)の場合、
そのご祭神は、「古事記」に登場する穀物の女神・宇迦之御魂神 (ウカノミタマノカミ)の他に4柱。
そのためか、女神のお姿の稲荷神も見受けられます。

どうやら、稲荷神のイメージは、年齢性別ともに流動的。
田んぼや食べ物、実りに、何らかの形で関わる神さまが、
地域や時代などを反映しながら、稲荷神として表されたのかもしれません。

ちなみに、キツネはあくまでも、お稲荷さんのお使い。

その理由、関わりは色々ですが・・・
主に、キツネは、田の実りを食べてしまうネズミなどを捕食する益獣であること。
その尾が、稲穂を連想させること。
また、田んぼの神さまは、冬は山の神さまとして山にこもり、春になると里に下りてくると考えられ、
キツネは御崎神(みさきかみ)として、田の神さまに先立って里に下りてくるから。などなど。

また、稲荷神社の入口を守る狛犬ならぬ狛狐は、
右のキツネが玉(=魂)を、左のキツネが鍵を口にくわえています。
鍵とは、盗難から物を守る機能を持つ、すなわち富の象徴とされました。
稲荷神の持つ、穀物から生業の守護、そして富というイメージが、こうしたところでも視覚化されています。

でも、なんとなく違和感ありませんか?
戦国武将の館に、どうしてわざわざお稲荷さん・・!?

少し長くなりそうなので、続きはまた次の記事で。
次回もお付き合いいただければ幸いです。
お待ちしております🙇
コメント
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