天文10年(1541)6月14日の出来事。
武田家当主だった信虎公は、信濃国小県郡での戦から帰国後、
娘の嫁ぎ先だった駿河の今川家へ出かけたところ、
信玄公らにより帰路の国境を封鎖され、駿河に追放されてしまいました。
正式な家督相続の儀式は、もう少し後に行われましたが、
戦国史に名を遺した信玄公の飛躍は、この日から始まりました。
むろん、現代の社会通念上、親を追放して家を乗っ取る、という行為は
許されることではありません。
根本的に戦国時代でもそうした観念はありましたし、信玄公も後々まで事あるごとに
親を追放した悪者のように言われることもあったようです。
ですが、世は、戦国。
権力の座をめぐり、生死をかけて親・兄弟でも血みどろの争いが絶えない時代でした。
そうした中で、無血で政権交代がなされたことは、むしろ珍しいことでした。
当時のいくつかの記録でも、この時の出来事を領民は歓迎したことが記されています。
牛馬まで喜んだ、なんて、大げさに書かれた記録もありますが・・・
一般には信虎公が弟の信繁を寵愛していたから、あるいは、悪逆非道ゆえの追放
として語られることが多いのですが、
どうやら、信玄公の追放を正当化するための後世の宣伝だった可能性が高いようです。
とはいえ、甲斐国の領民からは好意的に受け止められ、逆らう家臣らもおらず、
無血クーデターが成功し、信玄を当主とする体制が誕生したのでした。
歴史研究では、このとき、甲斐国をはじめ各地で飢饉が相次ぎ、この年は特に酷かったのだとか。
信虎が領民の困窮したくらしを顧みることなく、戦を続けて国を疲弊させたことが原因で
代替わりが求められた、ことが大きいようです。
しかしながら、家臣団が団結して信玄公を擁立すべく、早くから意志統一が図られ、
受入れ先の今川家とは、周到な話し合いが持たれた上での計画でしょうから、
用意周到に実行された事件であることは確かです。
まだまだ本当のことはわかりませんが、武田家の歴史を語る上では大きな事件でした。
その後、今川家には信虎公の生活費が送られていたようですので、
父を粗略に扱っていたことはなく、ちゃんと面倒を見ていたようです。
それにしても、強引な引退劇に付き合って信虎公を預かってくれた義元様。
ある意味人質ですから、あちらにはあちらの思惑もあったと思いますが、
普通は預かってくれるところなんてありませんから、信玄公には大恩人となったことでしょう。
無血クーデターの陰の立役者と言っても過言ではないでしょう。
当主交代の舞台となった館跡。
その歴史を紹介する信玄ミュージアムへ、どうぞお越しくださいませ。
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現在、信玄公生誕500年記念特別展「遺産から語る武田信玄」開催中。
6月23日(水)から新たな資料展示がスタート。
次は、長野県木曽郡にあります名刹定勝寺所蔵の「武田信玄公騎馬像」です。
長野県外への初出となる貴重な資料。
数ある信玄公像でも騎乗姿は珍しい資料になります。
詳しくは、後日ご紹介します。